まれびと論・30 もののあはれ

小林秀雄全集を書斎のキャビネットに飾って気取っている人種もうさんくさいけど、わけのわからない小林秀雄批判に出会うのも、なんだか自分の家の前で立小便されているような気分にさせられます。
まあ僕も、あちこちで立小便をしてきたのだから、人のことはいえないのかもしれないのだけれど。
もののあはれを知る」ということについての本居宣長の説明を、小林秀雄が「全的な認識」と解釈した。「全的」なんて自意識過剰の近代人の思考だ、と橋本治氏が批判しています。
近代人の自我は、無限に拡大してゆく。したがってその「全的」という認識は、たえずさらに拡大した自己から「全的ではない」と否定されなければならない。「全的」であることを否定する認識こそ、近代人の自意識(自我)なのです。
「全的な認識」は、自我の縮小において、はじめて成立する。「もののあはれを知る」ことは、自我を縮小してゆくことです。そのときその認識は、はじめて自我を超えて存在そのものを賭けた「全的な認識」になる。
まあ一般的には、「もののあはれ」なんて、ちょっとした美意識くらいにしか考えられていないですからね。
「花が美しい」ことくらい誰でも知っている、といわれても、そういうことじゃないのですよね。そんなことは、中国人もスペイン人も感じている。
では「花がある」とだけ認識することは「もののあはれ」ではないかといえば、それこそがより深い「もののあはれ」の認識である場合もある。
心に深い「嘆き」を持っているものは、花の美しさなんか問わない。そこに「花がある」ということじたいに心を動かされる。心を動かされることが「もののあはれを知る」ということであって、「美しい」と認識することではない。
「嘆き」とともに心を動かされること。心を動かされることは、「嘆く」ことだ。
花の美しさなんかわからない人もいる。じつは僕も、よくわからない。それは、美しさを認識しているのではなく、「美しい」という「言葉」を認識しているだけではないのか。
「美しさ」などというものがあるのだろうか。
たぶん、ない。
もののあはれを知る」ことは、花の美しさを知ることではない。
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「もの」の「も」は、息が口の中にとどまって出て行かない発声であり、気にかかる感慨を表す。「の」は連続・接続・延長の表象。「もの」とは、気になる対象のこと。
「あはれ」の「あ」は、気づく感慨。「は」は空虚なさま、「れ」は、「あれ」「これ」「たれ」というように、方向の探索。「あはれ」とは、空虚になってゆくさまに気づくこと。
もののあはれ」とは、気になる対象が空虚になってゆくこと。そしてそれに気づいて心が動くさま。たとえば人がいなくなったことに気づくこと。別れること。死ぬこと。大切なものをなくすこと。楽しいことが終わってしまうこと。夢から覚めること。夢うつつになること。後悔すること。平静を失って怖がること。自分が死んでゆく存在だと思うこと。
有名な西行の歌。
「心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ」
「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」とは、鴫が飛び立って閑散としてしまった水辺の秋の夕暮れ、というような意味でしょうか。そのとき西行は、飛び立つ鴫ではなく、鴫がいなくなってゆく沢を見ていた。
つまり、「存在」ではなく、「不在=あはれ」に気づくこと。それが「もののあはれを知る」という心の動きです。
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生きてあることは、過去の自分がいま存在していないことに気づくことです。自分が存在するということは、自分の「不在」に気づくことです。われわれは、そういう「喪失感」を携えて生きている。
生きてあることのどうしようもない心もとなさ、いたたまれなさ、というのは誰の中にもあるでしょう。子供の中にだってあるにちがいない。われわれは、そういう「嘆き」を携えて生きている。
そこに「もの」があるということは、それが何もない空間を覆っているということであり、そこに「出現」しているということです。そのようにして、「もの」が見えるということは、その「もの」の「不在」を知ることでもある。動くものは、一瞬一瞬もとの場所からいなくなっていっている。そこに「花がある」と気づいてときめくことは、そこに「花がない」ことのわびしさが癒されている状態だといえる。「花がない」ことのわびしさを知らないものには、「花がある」ことの驚きやときめきもない「不在」に気づく心の上にしか驚きときめく体験はやってこない。
「感動する」とか「心が動く」ということは、「不在」に気づくことの「喪失感=嘆き」の上に成り立っている。
生きることは「不在」に気づき、それを嘆くことであり、文学は、「不在に対する嘆き」、すなわち「もののあはれ」を表現することにある、「やまとことば」は「嘆き」の上に成り立っている、と本居宣長は言っている。
過去の自分は、もはや現在に存在することは出来ない。そのような生きてあることの「喪失感=嘆き」は、子供でも持っている。いや、そういう「もののあはれ」は、女子供の方がよく知っている、と本居宣長が言っている。
「存在」に気づくことは、不可避的にその「不在」に気づかされることでもあり、「もののあはれを知る」とは、存在そのものにおける根源的な「嘆き」のことである、と本居宣長が言っている。それを小林秀雄は「全的な認識」と解釈した。それが、どうして自意識過剰な近代主義的思考なのですか。それは、たんなる知識(観念)や気分ではない、生きてあることの全存在を賭けての認識であるはずです。命がけの認識、なのだ。ちょっとした美意識、というのとは違う。
僕は、橋本治氏から「もののあはれ」の何たるかを教えてもらいたいとは、けっして思わない。もちろん「近代」の何たるかを教えてもらいたいとも、あほらしくてさらさら思わない。
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体が動くことが生き物であることの証しです。
体が動くということは、自分の体がもとの場所において「不在」になることです。そうやって、たえず自分の身体の「不在」という空間=状況をつくり出してゆくことが、「動く」という行為です。
直立二足歩行は、自分が立っている場所を強く意識する姿勢です。その場所をできるだけ狭く限定して他者との間に安定した空間をつくろうとしたのが、直立二足歩行の起源におけるコンセプトです。
だから人間は、それだけ強くみずからの存在と不在を意識している。存在と不在を意識することが人間であることの証しである、ともいえる。
また、直立二足歩行は、とても不安定で居心地の悪い姿勢です。したがって身体の存在を認識することはひとつの苦痛であり、歩くという行為は、身体を意識することから解放されるカタルシスをもたらす。歩けば、身体のことなど忘れている。忘れることができる姿勢であるのが、直立二足歩行です。
歩いているときの意識は、つねに直前の、現在においてはもはや「不在」でしかない身体を、身体として認識している。それは、身体が存在することの苦痛を嘆きとして抱えている人間存在にとって、カタルシスなのだ。
人間は、身体の消失=不在においてカタルシスを体験する。
「不在」を嘆くこと、それじたいがカタルシスなのだ。
そうして海に閉じ込められた日本列島の縄文人・古代人は、水平線の向こうは「なにもない」と認識(絶望)した。その向こうは「奈落」である、と。すなわち「不在」である、と認識した。
日本列島の住民は、先験的に「不在」の嘆きを負っている。しかしそれは、「不在」を認識することのカタルシスを知っている、ということでもある。
おそらく「もののあはれを知る」という体験も、そのような日本列島の住民であることの与件=歴史の上に成り立っている。
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われわれは、夜において、もっとも強く太陽を意識する。正確に言えば、空が白み始める直前の「あかつき」の闇の時間にこそ、もっとも強く太陽が意識される。また、暮れかたの「く」という音韻には、隠れてしまった太陽への嘆きがこめられている。太陽を思うことの「もののあはれ」は「あかつき」と「暮れかた」に体験された。太陽の不在を嘆くことから、太陽(天照大神)にたいする信仰が生まれてきた。
古代は太陽のことを「日(ひ)」といったのだが、その語源は、夜に「秘匿(ひとく)」されてあるという意味、の「ひ」であろうと思えます。
「ひ」という音韻には、明るく照りつけるさまを表現する響きはない。「秘密」の「ひ」、「ひっそり」の「ひ」です。であれば同様に「火」もまた、燃えさかるさまを表しているのではなく、その「不在」の不便さと心細さを嘆く感慨から生まれてきた言葉であろうと推測できます。大陸では、火のことを「か」というが、まさしく燃えさかるさまそのものの語感です。「ひ」は、それとは正反対の語感です。そのへんにも、存在を止揚する「からごころ」と不在を嘆く「やまとごころ」の対照が表れている。
もののあはれ」は、人の心の動きの根源にある「不在」を嘆くことのカタルシスを表象している。
したがって、折口氏のいうような、ありもしない海のかなたの「常世の国」をまるで実在するかのようにイメージしてゆく心の動きは、日本列島においては生まれてくるはずがないのです。水平線の向こうは「なにもない」と嘆くことが「やまとごころ」であり、「もののあはれ」です。