まれびと論・24 「走る文化」と「歩く文化」

英語で、走ることを「ラン」という。なんだか楽しそうな響きです。つまりそれは、走ることに対するみずからの感慨を表現しているのでしょう。
一方やまとことばの「はしる」は、みずからの感慨というより、走るさまを眺めている感慨のような響きです。
「は」は、「はてな」とか「はかない」というようなよくわからないさまに対する感慨。「し」は、「しいん」と静まり返ったり「しっしっ」と追い払ったり・・・・・・ようするに「はしる」とは、いきなりやって来てたちまち通り過ぎてゆくもののことを言っているのではないだろうか。だから、「旬のはしり」とか「はしり水」とか、そんな言い方が妙にしっくりしている。
「先走る」とか「策に走る」などと、焦ったり余計なことをしたりすることを「走る」ともいう。日本人にとって「走る」ことは、けっして楽しいことではなかったらしい。
そしてそれがみずからの感慨ではないということは、他人が走っているのを眺めている感慨でもない、ということも意味するのかもしれない。つまり、昔の日本人は、誰も走らなかった。その言葉は、ただもう物や事柄が早く動くさまを表現しているだけだったのではないだろうか。
ヨーロッパには、自由に駆け回る平原があった。しかし日本列島は、縄文時代から古代まで、平地のほとんどは湿地帯だった。
縄文人は、山の民だった。起伏の急な山を駆け回ることはできない。歩き回るだけだ。日本列島には、走るという伝統がない。江戸時代になっても、走るということをしていたのは、飛脚などの一部の人だけだった。着物は、もともと走ることには向いていない衣装です。
オリンピックでかけっこに勝てないのは、当然の話です。
その代わり、山歩きの伝統はある。山伏などは、秋田の山奥と吉野の山中を山伝いに何度も往復していた。西洋人に比べて足が短いという形質も、そういう伝統からきているのでしょう。
能の舞だって、歩くことしかしなかった民族の文化であるのかもしれない。
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二本の足で立っていることは、とても不安定で鬱陶しい状態です。しかし原初の人類は、それを引き受けた。棒を持つためとか遠くを見るためとか、そんなことは猿でもしているし、そんなことをしていないときでも人類は立ちつづけるようになったのです。つまり、そうやって立ちつづけようとする衝動が起きることはありえないわけで、いやいや立ちつづけたのです。いやいや立ち上がったのです。他の動物との生存競争に勝ち抜いてゆくためには、棒を持ったり遠くを見たりしていないときは、ちゃんと安定した四足歩行の姿勢に戻るべきだったのです。それでも彼らはそうせずに立ちつづけたのであり、そこのところを、世界中の研究者の誰一人として考えていない。
それは、生存競争に勝ち抜くための姿勢ではなかったのです。
すなわち、生きものが生きてゆくいとなみのコンセプト(本質)は生存競争に勝ち抜くことにあるのではない、ということを原初の人類が証明して見せたのです。
生存競争に勝ち抜くことを本能として生きている生きものなんかこの地球上のどこにもいないのであり、あなたたち研究者はそういう視点でものを考えることができないから、いつまでたっても「手に棒を持つため」だの「遠くを見るため」だの「早く走るため」だのという幼稚な論理に振り回されなければならないのだ。
生存競争に勝ち抜くことより快楽の方を優先させてなにが悪いのか。それが、生きものの本質じゃないか。生存競争に勝ち抜くことが快楽だなんて、すくなくともそれは、本質的だとは言えない。もっと深い快楽を知ってしまったものは、もうそんなことには夢中になっていられない。
歩くことは、立ち止まっていることと走ることの「間(ま)」の状態です。走ることは、馬やライオンにかなわない。走るためなら、四足歩行の方が具合がいい。しかし歩くことにかけては、人間は、どんな動物にも負けない。歩くことに、人間の本質がある。
歩くことの本質は、意識が身体から解放されるということにある。立ち止まっていても走っても、意識は身体にとらわれている。
肉体としての身体を忘れている状態で生きてゆくこと、これが直立二足歩行のコンセプトです。直立二足歩行の快楽は、そこにこそある。
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原初の直立二足歩行は、森の中で生まれた。彼らは、ひたすら歩き回っていたのです。
歩き回ることによって、人間は人間になった。
そして数百万年後に、サバンナに出てゆくことによって「走る」ことをおぼえた。すでに「人間」になってしまったものが走ることをおぼえるのと、他の動物が走るのとでは、ちょっと違います。つまり、二本の足で立っていることの鬱陶しさが骨身にしみている人間が走るということは、その鬱陶しさを解体する喜びがある。それは、身体を支配し返す行為です。
「歩く」ことが身体からの解放だとすれば、「走る」ことには、身体を支配する喜びがある。その違いが、やまとことばの情動性にたいする英語の観念(概念)性としてあらわれている。
スプリンターの走りを間近で見たことがありますか。彼はもう、完璧に身体を支配しきっている。
英語は、身体を支配する観念によってつくりだされた言葉であり、やまとことばは身体から解放されてゆく感慨から生まれてきた言葉です。
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山の民として暮らしてきた日本列島の住民は、歩くことを洗練させる歴史を歩んできた。そして、歩いてゆけば、人と出会う。歩くことの文化は、人と出会う文化でもある。
人と出会ってときめいているとき、意識は、みずからの身体にとらわれることから解放されて、他者の身体に憑依している。
歩いてゆかなければ人と出会うことはできないし、人と出会う文化は、意識を身体にとらわれている状態から解放する文化でもある。
海に閉じ込められた日本列島の住民は、意識が身体にとらわれることの鬱陶しさを、ことさら強く思い知らされていた。そこから「歩く文化」が生まれてきた。
「歩く文化」と、畳の上に座って暮らしたり深くお辞儀したりする「伏す文化」。どちらも、じっと立っていることの鬱陶しさからの解放として生まれてきた。
そして、歩く文化も伏す文化も、人との「出会い」のなかで洗練されてきた。
「まれびとの文化」は貴人をもてなす文化だなんて言ってもらっては困るのです。
人と人が「出会う」ということそれじたいを止揚し洗練させてきたのが「まれびとの文化」であり、それは「歩く文化」でもあるのです。
歩いていれば、すれ違う人との出会いにもついときめいたりしてしまうが、走っていれば、「じゃまだ、どけ(GET OUT FROM MY WAY)」と怒鳴るだけです。