まれびと論・25 「出会う」ということ

ヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」という映画で、ちょっと変わったアメリカのフーゾク営業が紹介されています。
日本では、「ファッション・マッサージ」とかの本番をやらせないシステムの店でも、女は、素性の知れないその客の前でかんたんに裸になる。ずいぶん無防備な態度だと思うのだけれど、それでたいしてトラブルもなく、客はそのシステムに素直に従っている。
この国には、女がやらせてくれなければそれに従う文化がある。そういう文化の上に、現代のフーゾク産業が成り立っている。
アメリカでは、こうはいかなでしょう。この国のようなことをやっていれば、トラブルはいくらでも起きてくるにちがいない。
やらせるかやらせないか、その中間=間(ま)はない。
そういう状況から考え出されたのが、映画で紹介された次のようなシステムらしい。
客と女は、まずガラスの仕切りをはさんだ別の個室で向かい合う。そしてこのガラスは、男の方からは見えるが、女からは見えないようになっている。ここがみそなのでしょうね。これによって、男の「自我」が守られ、しかもレイプの衝動が封殺される。
日本人は「自我」が希薄だから、女に見られることを受け入れられるが、アメリカ人は「自我」が強いから、見られてしまったからには、やらずにいられなくなるか、徹底的にジェントルマンを気取るか、どちらかしかない。
この状況で、男は女をデートに誘う。断られても、自分の見掛けが不細工だったからと気に病む必要がないから、安心して誘おうとすることができる。
そして、女のがわの「自我」も守られている。そこで裸になっても、鏡の前に立っているようなものだから、見られているという屈辱感は少ない。そうやってさんざん挑発しておいて、最後にデートを断る自由も保証されている。
「自我」の強い人たちの、ややこしいフーゾクです。
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ガラス越しの彼らは、まだ出会っていない。出会ってしまえば、やるかやらないかになってしまう。
彼らにとって「他者=異人」と出会うことは、ひとつの緊張感や恐れをはらむ事件であるが、この国の文化においては、それが消去されている。
つまりその出会いの場が、たがいの身振りとして、関係の存在しない場として了解されている。だから、レイプしようとしないし、されるかもしれないという心配もしない。そうやって、ただもう「出会っている」ということそれじたいが止揚されている。
アメリカ人の「自我」は、関係を持つか持たないかを選択することによって保証される。しかしこの国においては、関係を持つことと持たないことの「間(ま)」が、「出会い」の場として希求されている。
彼らは、身体を支配する喜びを知っている。みずからの身体を支配してゆくように、他者の身体をレイプする。
われわれは、みずからの身体を支配してゆく能動性を持っていないから、レイプもようしない。もちろん誰の中にもみずからの身体を支配してゆく観念のはたらきはあるのだが、伝統的な文化として、われわれは身体を支配してゆく身振りを持っていない。
そこで客とフーゾク嬢は、「出会った」のであって、「関係を持った」のではない。したがって彼女らに後ろめたさは希薄であり、客もまた、そこに何かしらの純粋で固有の体験をしている。つまり、そんな猥雑でみすぼらしい空間でも、たがいにいくぶんかの「出会いのときめき」を体験しているのであり、そういう「まれびとの文化」の上にこの国のフーゾク産業が成り立っている。
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日本列島における「主客の関係」の文化は、欧米のそれとはかなり違う。欧米がそこで関係を結んで仲間になろうとするのに対して、日本列島では、けっして仲間になることなく「主客の関係」という出会いの場そのものを止揚してゆく。仲間にならない文化だからこそ、「公共心」が育たない。
しかしだからこそ、裸で抱き合っても本番はやらせないという「ファッション・マッサージ」というシステムが成立する。こんな危なっかしいことを、女の子もよく平気でやっていられるなあと思いませんか。それが、この国の「主客の関係」の文化、すなわち「まれびとの文化」であるらしい。