まれびと論・26 「あるじ」と「ぬし」

折口氏の「まれびと論」によれば、たとえば平安時代藤原氏天皇を自分の家に迎えるように、「貴人をもてなす」ことが「まれびとの文化」の原型である、ということになっています。日本列島における「主客の関係」の本質はそこにこそあるのだ、と彼は主張している。だがそれは、現代のこの国のフーゾク産業のように、「まれびとの文化」として関係をあいまいににしたまま「出会い」そのものを止揚してゆくのではなく、貴人と「仲間になる=関係を結ぶ」ためのもてなしです。貴人もまた、仲間にしてやるための品定めとしてやってくる。つまり欧米のフーゾクのように、やるかやらないかの関係です。
そこで折口氏は、こういう。
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主人を「あるじ」というのは原義ではない。「あるじする人」なるがゆえに言うのである。「あるじ」とは、饗応のことである。「まれびと」を迎えて、「あるじする」から転じて主客を表す名詞に転じたのもおもしろい。
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ここでいう「まれびと」とは、貴人のことです。
客があってはじめて「あるじ」という立場が成立する。妻や子供がいて、はじめて「主人」という。彼は、はじめから「あるじ」であるのではなく、「あるじになる」のです。「饗応」しなければ「あるじ」とは言えない。「饗応」する前のただ出会っている状態においては、「あるじ」とはいわない。「饗応」して、はじめて「あるじ」になる。「あるじする」が「あるじ」になったということは、そういうことを意味する。それは、存在そのものを指す名詞ではなかった。
「主従関係」などというように、「あるじする」とは、「仲間になる」とか「優位に立つ」とか、そういう意味でしょう。「仲間」という関係のないところに「あるじ」という言葉は存在しない。つまりそれは、共同体が発展し、そういう仲間関係をつくってゆく権力行為のなかから生まれてきた言葉だということです。
それは、「まれびとの文化」の起源において存在していた言葉ではない。
やまとことばには、もともと「主(ぬし)」という言葉があったはずです。「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の「ぬし」です。知っていながら折口氏は、あえて「あるじ」という言葉にこだわっていった。そこがいやらしいところです。自分ではかるく知識を披瀝して見せただけのつもりかもしれないが、なにかいやらしい作為がそこからのぞいている。
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「まれびとの文化」の起源のころは、「ぬし」といっていたのだ。
そしてたぶん、客のことは「おと」といっていた。「訪(おと)なふ」の「おと」です。
「ぬし」と「おと」、です。
「おと」とは、来訪したものが戸(と)の前に立つことです。だから、来訪者のことも「おと」といっていたはずです。「甲乙」とは、「主客」という意味でしょう。その「乙」を、古代では「おと」といっていた。
古代人(縄文人)は、現代で使われている「音」のことは、「こえ」とか「音(ね)」といっていた。「おと」は、あくまでも「おとなふ」の「おと」だった。それが、住宅が頑丈になってきて戸を叩く習慣が生まれてきたことによって「おと」が音になったのだ。
そして「ぬし」は、以前にも書いたように、ひとつところにじっとしている孤独な人のことです。「ぬ」は、あいまいな心地から生まれてくる声。「し」は、しいんと静かで動かないことにたいする感慨。「島(しま)」は、海の「間(ま)」に浮かんでじっと動かないもののことです。
孤独でさびしい人のことを「ぬし」という。「あるじ」などというえらそげな存在が「まれびとの文化」を生み出したのではないのだ。
フーゾク嬢は、そのわびしい部屋の「ぬし」です。彼女らはそこが自分の部屋であるかのように振舞っているし、その雰囲気を感じて客もまた、おとづれ人として、どこかしら身をかがめる気分になっている。だからあんがいトラブルが起きないのであり、それが「まれびとの文化」です。
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「まれびとの文化」は、縄文人・古代人の「出会う」ということそれじたいにおいてときめく体験から始まったのであって、折口氏がいうような貴人や神の尊さやめでたさを祝福してもてなすことからではない。
折口氏によれば、「まれびとの文化」はまず支配階級で生まれ、それがやがて下々(しもじも)に降りてきた、ということになります。下々の者は、支配階級が貴人をもてなすのをまねて客を祝福してもてなすことを覚えていったのだとか。
たとえば、平安時代藤原氏天皇の来訪をもてなすために用意していた漆塗りの食器は、門外不出の神器として代々に伝えられていた、と折口は言う。
権力者たちのそういう習俗が、やがて下々のところにも降りていって、中世の「椀貸し」の習俗が生まれてきたのだとか。それは、村びとの誰かが客を招くのに漆器を持っていなかったり足りなかったりしたとき、ある穴の前に行って何人前の漆器を貸して欲しいと書付をして置いておくと、翌日それだけの数が穴の前に出されている、という村の相互扶助の習俗のことです。
しかし、漆塗りの食器で客を迎えることなど、べつに藤原氏に教えてもらわなくても、縄文時代からなされていたことです。つまりそれは、もともと庶民の習俗だったのであり、話が逆なのです。日本列島の住民は、縄文以来、漆器にたいする愛着がことのほか深い民族だったのです。
また折口氏はこのことを、めったにやってくることのない「賓客」を迎えるに当たっていかに彼らが苦労をしていたかが偲ばれる、などとおためごかしなことをいっているのだが、食器もろくに揃えられないような貧しい村びとのところに、「賓客」などやってくるはずがないじゃないですか。それに、そんな習俗が日常的に行われていたということは、いつもどこかの家に客が来ていたということを意味する。めったにやってこないのなら、習俗にはならないでしょう。村びとは、お客ならどんな身分であろうと歓迎したのだ。だから「椀貸し」の習俗が生まれてきたのであって、「賓客」もくそもあるものか。
それは、純粋に庶民の生活の中から生まれてきた習俗であって、支配者のもったいぶった権威主義のおこぼれをちょうだいしたわけではないのだ。
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縄文人が、なぜ漆塗りを覚えたのか。
大陸から、人がやって来て伝えたのだという歴史家もいるらしいのだけれど、ろくな船もなかった縄文時代に大陸から人が来るはずがない。漆の木はもともと日本列島にはないものだったからそういう説が出てくるのだが、じっさいには、海流に乗って種が漂着して自生していったのでしょう。
漆の技術なんて、けっしてかんたんじゃない。それをなぜ縄文人が自力で習得していったかといえば、それほどの客をもてなそうとする気持に熱く切なるものがあったからでしょう。それをおぼえるまでには、おそらく無数の試行錯誤があったはずです。
漆なんて、生きてゆくのにぜひとも必要なものでもない。それなのに、夢中になってその技術の習得に取り組んでいったのです。
山間地に小さな集落をつくって暮らしていた縄文の女たちにとって、山野をさすらう男たちの来訪を迎えることは、食うことよりももっと大事なことだったのだ。華やかな装飾の縄文土器にせよ、日本列島の客をもてなす文化はここから始まっているのです。
そのときすでに「まれびとの文化」が生まれていたのだ。
原始時代の縄文人がけんめいに漆の技術をおぼえて客をもてなそうとしていたことは、藤原氏がその「神器」とやらで天皇をもてなしていたことなどより、はるかに純粋で豊かな「まれびと」を迎える心性がはたらいていたにちがいない。
何度でも言います。「賓客」を迎えることから「まれびとの文化」が始まったのではない。神だろうとなんだろうと、歴史上に「貴人」などという人種がいっさい存在しなかった時代にすでに「まれびとの文化」は生まれていたのだし、じっさいそういう人種がいなくなりつつある市民社会の現在においても、その水脈は途絶えていないはずです。