まれびと論・36 常世

日本人は、なぜ忘れっぽいのか。
そのつどそのつどみずからの生を完結させてゆく身振りと心の動きを持っているからでしょう。
誰もが、どこかしらに、過去も未来もなく「今ここ」を生きようとする身振りと心の動きを持っている。
「今ここ」を生きるとは、過去をすっきりと終わらせてしまうこと。そういうカタルシスを汲み上げてゆくのが、この国の伝統的な信仰のかたちなのではないだろうか。
したがって折口氏の次のような記述に対して、肯くことはできない。
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常世」が永久の齢・長寿などの用語例を持ったのは、語のほうからも、祖先の霊という考えの上に、「よ」に齢(よ)の連想が働いたからである。常闇の国から、段々不死の国という風に転じていったのである。しかも「よ」という語には、古代から近代まで、穀物あるいはその成熟の意味があった。「とこよ」はさらに、豊饒あるいは富の国なる連想を伴うようになった。常世とひとつに考えられやすい「わたつみの国」は、人間の富の支配者であった上に、ときどき潮に乗って、彼岸の肥沃を思わせるような異様な果実などの流れよることなどがあるため、空想はいよいよ濃くなり色どられてゆく。
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古代における富や不死への憧れなど、一部の権力者や僧侶たちの妄想に過ぎない。
問題は「よ」という言葉です。
「よ」という発声には、身体が一瞬消えるような感覚があります。
古代人は、消えてゆくものを「よ」といった。夜(よ)は光が消えてゆくことだし、齢(よ)=命も消えてゆく。そして世(よ)も、命と共に消えてゆく。彼らに、世(よ)=社会という意識はほとんどなかった。「この世」は「この生」、すなわち「現世」のことであり、社会のことは「世の中」といった。社会が世(よ)であるのではなく、世(よ)の「中」にあるのが社会なのだ。
「ようやく(終わる)」といえば、前のわずらわしい状態が消えたことの安堵を表現しているのであって、成熟を自慢するニュアンスは薄い。すなわち、収穫のよろこびとは、つらい労働が終わったことのよろこびが第一にあるのであって、富を得たという意識は二次的なものに過ぎない。一日の労働を終えたとき、これでいくら稼いだという意識が真っ先にやって来る人はめったにいない。
「よろこび」の「よ」は、「終わる」こと。
何かを得たいということよりも、何かから解放されたいという願い、人間の信仰の根にあるものはそれなのだ。なにが欲しいのでもない、生きてあることの「穢れ」をぬぐいたい、まずそれがある。
常世」信仰で富や不死を得た古代人がいるのか。そんな妄想を抱いたのは、権力者や僧侶だけなのだ。そんな妄想が日本列島の古代人すべてに広がるはずがないじゃないか。
「よ」の音に、「成熟」の語感はない。それは、折口氏のこじつけに過ぎない。
成熟のことは、「ゆ」といった。「湯(ゆ)」は水の成熟であり、「夢(ゆめ)」は眠りの成熟の結果。「ゆ」と発声するとき、たしかに腹のあたりで血がみなぎってくるような感覚がある。「豊(ゆたか)」や「裕福(ゆうふく)」の「ゆ」です。
大陸から常世信仰が入ってきて、権力者たちは、「よ=消滅」という言葉を「ゆ=成熟・結果」のような意味に使い始めた。「あの世(よ)」をも、自分たちの思いのままになっている「世の中(共同体)」のように扱えないかと願うようになっていった。それが、権力者たちの「常世信仰」のかたちでしょう。
つまり、死んだら常夜の「黄泉の国」に行くという日本列島ほんらいの世界観を、さらにその向こうには永遠の「常世の国」がある、というかたちに「成熟(肥大化)」させようとした。