まれびと論・33 「にらいかない」は永遠の楽土か

たとえば、若い娘が道端でスカート捲り上げて太腿あたりのストッキングのよじれを直しているところに出会ったら、あなた見ますか。見てしまうでしょう。
ちょっとどきどきして見てしまう。
では、その「どきどき」は、見てはいけないという道徳心がはたらくからか。
そうじゃない。
「見せつけられた」からです。
その「出現」におびえたのです。
たとえそれがすてきな眺めでも、とにかくそれによってあなたの「今ここ」が引き裂かれたのです。自分の心の中に土足で入ってこられたのです。
何かが「出現」することには、「畏れ」がともなう。だから、むかしの高野聖や琵琶法師などの旅する「異人」たちは、みな蓑笠をまとったあわれな乞食姿で村々を訪ねていった。それが、この国における「客=来訪者」のたしなみだった。むかしの家の木戸や茶室のにじり口は、腰をかがめて入るようになっていた。
この国の「かみ」は、けっして「出現」しない。つねに「不在」である。しかし、いつどこでも「出会う」ことができる。これが、この国の信仰のかたちであろうと思えます。
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19世紀のイギリス人は、インドに進出して「東インド会社」という傀儡政権をつくってインドを支配していった。吉本隆明氏は、それは結果的にインドの近代化を進めたのだから「善」である、というようなことをかつて言っていました。くだらない。
それによって、ほんとうにインドの近代化が進んだでしょうか。歴史が証明するところは、逆です。一部の上流階級はそうした文明の恩恵をこうむったとしても、インド全体は、少しも近代化が進まなかった。
そのときインドの民衆は、イギリス人の「出現」におびえたのです。そしてそれがトラウマになって、アジアで一番先に近代文明と出会った国であるにもかかわらず、いちばん遅れた国のひとつになってしまった。
イギリス人は、腰を屈めてインドに入っていったでしょうか。そうじゃない。近代文明を授けてやろう、という態度だった。たとえそれが魅力的な文明であったとしても、インドの民衆は、土足で入ってこられたような恐怖を覚えたのです。そしてその恐怖は根源的なものであり、いつまで経ってもぬぐわれることはなかった。そのときインドの民衆は、むしろ、けんめいに自分たちの文化を守ろうとした。ほおっておけばそのうち壊れるかもしれなかったカースト制度さえも、上流階級と下層階級との格差がさらに広がって、むしろ、なお強化されていったくらいだった。
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この国の中世でも、沖縄の人びとは、それまでまったく没交渉だった本土人の「出現」と出会った。そして、そのときどういう反応をしたでしょうか。本土人は、腰を屈めて入っていったでしょうか。
先制攻撃は、薩摩藩の伝統です。そこから「示現流」という必殺の剣法も生まれてきたし、その戦法を駆使して明治維新には徳川幕府を倒しもした。彼らが、どうやって沖縄に乗り込んでいったか、想像してみてください。
沖縄には沖縄の文化があり、本土には本土の文化と伝統がある。沖縄には本土の昔の姿が残っている、というような差別的優越的な見方はするべきではない。沖縄は、鎌倉時代以降、本土の人間に蹂躙されつづけてきたのであって、本土と仲良く手を携えて歴史を歩んできたわけではない。したがって、本土の古代の文化がそのまま沖縄の人々に受け入れられ根付いていったということもありえない。沖縄の人びとは、蹂躙されつづけながら、けんめいに自分たちの固有の文化を守ってきただけなのだ。
沖縄に残っているのは、沖縄固有の文化です。
たとえば沖縄民謡は、本土の一地方の民謡というような趣ではなく、まったく異質な沖縄独自のスタイルをもっている。
沖縄の人びとがいかに郷土文化を大切にしているかということは、いかに本土や中国大陸から蹂躙されつづけてきたかということと背中合わせのことなのだ。
沖縄に本土のプリミティブな姿を見ようなんて、まったく、のうてんきにもほどがある。
本土の人間が沖縄に進出していったことを、折口氏は、次のように語っている。
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(本土の人間の)南島を求めに出た動機には、こうした楽土への憧れを含んでいたことであろう。ちょうど中世期の欧州人が、こぞって浄土西インドの空想を「アメリカ」に実現したように、これは七島・奄美沖縄諸島を探り得たのだ。しかもその島々の荒男も、おなじくそうした楽土に憧れていたこと、今の世の子孫がなおあるが如くであったろう。
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「楽土への憧れ」だかなんだか知らないが、本土の人間は、沖縄を侵略したのだ。それこそ「中世期の欧州人」が北米のインディアンや中南米インディオに虐殺の限りを尽くしたように、です。
わがままで凶悪な来訪神に手を焼く「あんがまあ」の村芝居は、そういう苦難の歴史から生まれてきたのだ。
まるで本土人が「まれびと」のようにして沖縄を訪れていったような言い方をしてやがる。いい気なものだ。
古代・中世の「まれびと」は、蓑笠をまとった乞食姿で村を訪ねていった。本土人が、そんな身振りで沖縄に上陸していったのでしょうか。
そうやってたまたま上陸していった民間人のあとから、権力者の要請を受けた武装兵が乗り込んで侵略してしまうのです。どこの文明国でもやっているいつものパターンじゃないですか。
鎌倉時代、それまで石器時代のような暮らしを続けていた沖縄に、刀を持って鎧を着けた本土人が乗り込んでいったのです。それはまさしく「鬼」の姿だったことでしょう。
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沖縄の人びとにとっての海の向こうからやって来る「神」は、ほとんど鬼のような恐ろしい存在としてイメージされている。また、そうした神の住む国も、楽土というよりは地獄か何かのような色彩を帯びている。
「にいるすく」は、その代表的な恐ろしい神の国です。
「にいる」は奈落、「すく」は底、という説もあるが、折口氏は、「にいる」の解釈は保留した上で、「すく」は垣・村・塁などを意味する「城」である、という説を採用している。
沖縄には「すく」という名がついた離島がかなりあるらしいから、「底」という意味ではないのはたしかかもしれない。ただ、「すく」がたんなる場所を意味しているだけであるのなら、「にいる」には、「恐ろしい」というような意味があるはずです。そして、折口氏が常世の楽土であるという「にらいかない」の「にらい」も、とうぜん同じ意味になる。
「すく」という言葉は、ほんとうに折口氏らが言うような「城」という意味だろうか。
「す」は、息が滑って出てゆく発声。「擦る」「滑る」の「す」。この場合でいえば、視線が海面を滑ってゆくように遠くを眺めているさま。
「く」は、「くくる」というように、発声するとき、ほんとうに息がくくられ止ってしまうような心地がする。
であれば「すく」とは、「視線の行き止まり(において発見された島)」、ということになる。つまり、「はるかに遠い国」とか、単純に「遠くの島」というていどの意味だったのではないか。
おそらく一般的には、「にらいかない」という言葉が「はるかに遠い国」という意味だと解釈されているのだろうが、その意味は「すく」にあるのであって、「にらいかない」にはない、ということになります。
であれば、折口氏がやりすごした「にいる=にらい」という言葉こそ問題にされなければならない。折口氏にすれば、鬼の住む「にいるすく」にも永遠の楽土である「にらいかない」にも同じ言葉がかぶせられているのだから、それには取り立てていうほどの感慨は含まれていない、たんなる景気づけの接頭語かまくらことばみたいなものであろう、と言いたいのでしょう。
そんなはずがない。この言葉にこそ沖縄の人々の感慨がこめられているのだと、僕は思う。
「にいる=にらい」は「奈落(ならく)」である、という語源説は説得力があります。
「な」は、「なく」とか「ない」というように力ない発声です。それにたいして「に」は、ナ行でもっとも力のこもった発声になる。「にくい」の「に」。「荷(に)」は、力をこめて担ぐもの。
「な」という発声にどんどん力がこもっていって「に」になったのだろうか。いずれにせよ「にいる=にらい」という言葉には、沖縄の人々の恐怖と怒りとやりきれなさがこもっているように思えます。
「にらいかない」の「かない」は、語呂合わせでしょうか。しかしその語感に、楽しげな響きはない。むしろ、嘆いているニュアンスです。「かなわない」とか「おっかない」とか「かなしい」とか、そんな言葉を連想してしまう。それはおそらく「にらい」の反復形式であり、「やれやれ、奈落はやっぱり奈落だ」、あるいは「怖い怖い」、そう言っているかのようです。
暴風は「にいるすく」の洞穴から吹いてくる、と言うらしい。とすれば、「にいる=にらい」とは、押し寄せてくるさまのことを言っているのだろうか。
「睨(にら)む」、という。そして「にらぐ」といえば、鉄に焼きを入れることです。焼けて真赤になった鉄・・・・・・「にら」という音韻には「怒り」や「凶悪さ」を連想させる響きがある。
「に」という音韻は、「にくい」とか「にがい」とか「おに」というように「凶悪・出現」の概念とともに発声される。「新(にい)」とは、初めて現れたもの。そして「母になる」というような接続詞に使われるときは、「到達」を意味する。「煮(に)る」とは、水が湯に到達すること、あるいは生のものが食い物に到達すること。「ら」は、「彼ら」というように、「集合」の概念。「にらい」とは、まさに「押し寄せてくる凶悪な集団」という意味を含んだ言葉のように思えます。
ちなみに「にらい」には「送り返す」という意味もあるらしいのだが、これだって語源的には、「いやなものが現れた(=送りつけられた)」という意味だったはずです。鉄を「にらぐ(焼きを入れる)」のは、鉄を「送り返す」作業です。
いや、「にらいかない」とは、「(いやなものを)彼方に送り返す」という意味でしょうか。
ともあれ僕がこんなにもくだくだしく書いてきたのは、それが最初どんな意味で使われていたかということを問いたいからではありません、どんな感慨でそう発声していたか、ということです。
沖縄の人々が抱く、海の向こうの「神」に対するイメージは、明らかに悲観的です。それを折口氏が、勝手に都合のいいように解釈している。「国文学の発生・まれびとの意義」を読んでみればいい。ひたすら我が田に水を引くような書きざまで「にらいかない」を説明している。
「にらいかない」は、永遠の楽土でもなんでもないのだ。
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本土の人びとが「とこよのくに」を「海の底」に見ようとしたのに対して、しばしば海の彼方の離島を発見する沖縄では、体験的にあくまでそれらの島が対象になっていった。折口氏も「沖縄諸島では、他界を意味する島を海上にあるとする地方が多く、海底にあるというところはまだ聞かない」といっている。
いずれにせよそれらは、あくまで暮らしの経験知から生まれてきたイメージであって、観念的にありもしないものをあるようにイメージしていったのではない。海に囲まれた島国で暮らす人間は、海を見ているがゆえに、観念的な海の向こうというイメージを紡ぐことはできない。人間にとって海は、その向こうをイメージすることを断念させる対象である。なぜなら、陸上生物として、海に住むことはできないからです。
そのように根源的な「断念」するという心の動きを与えてくれるから、人は失恋したときに海を眺めにやって来る。
鎌倉に住んでいるある女性が、こんなふうに言っていました。「今朝の海はめずらしく水平線がくっきりしていて、しばらく立ち尽くしてしまうくらいきれいだったわ」と。それは、断念することを与えられた喜びです。その人は、悔やんでも悔やみきれない思い出をたくさん抱えて生きている人だから、その眺めが誰よりも深く心にしみて、生まれ変わったような心地がしたらしい。
「海の向こうの常世の国からやって来る神が<まれびと>の起源である」などとのうてんきなことをほざいているえらい学者先生には、この気持ちはわかるまい。