「いじめ返す」ということ

人間が生き物であるかぎり、誰もが「いじめ」を受けて存在している。
空腹であるとか暑いとか寒いとか痛いとか疲れたとか、身体の苦痛を察知することは、意識(観念)が身体から「いじめ」を受けている状態です。だから意識(観念)は、身体を支配していじめ返す。
この生は、根源的には「いじめ」を受ける状態において発生する。
いじめるとは、「いじめ返す」ことです。「いじめ」を受けていなければ、いじめようとする衝動は起きてこない。
身体を支配しようとする傾向の強い人は、それだけ強く身体から「いじめ」を受けて、和解している部分が少ないことを意味する。身体を支配しようとする傾向は、身体にたいするルサンチマンです。
女は、毎月の生理とか、社会的に身体の隠さねばならない部分がたくさんあるとか、男よりはるかに多く身体からの「いじめ」を受けている。だから、より強くみずからの身体を支配しようとする。
化粧をすることも、ひとつの身体支配でしょう。そして身体を支配しようとするから、身体の自由な動きを制限してしまい、運動神経が鈍い。
女は、身体をいじめることに、男よりもためらいやとまどいが少ない。だから、拒食症になったり手首を切ったりというような極端なこともしてしまう。
いじめるとは、「いじめ返す」ことの祝祭なのだ。
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この社会の人間関係において、いじめられた相手に「いじめ返す」ということは、なかなかむずかしい。親と子、教師と生徒、会社の上司と部下、軍隊の上官と兵卒、封建領主と農民、こうした関係で「いじめ返す」ことのできるのは、「親と子」くらいでしょう。しかし現代では、飴玉をしゃぶらせるような支配にまるめこまれて、「反抗」といういじめ返す機会を奪われてしまっている。
「いじめ返す」機会を奪われたとき、その衝動が第三者に向けられる。
親や教師にたいする「反抗」の機会を失った子供が、クラスの中で「いじめ」に走る。そしていじめられた子供は、親から聞かれてもなかなかそのことを話そうとしない。いじめられている子供ほど、親の思う通りにならない子供もない。そのとき子供は、親を途方に暮れさせるというかたちで「いじめ」を試みているのかもしれない。
いずれにせよ、まずはじめに「いじめられている」という事態がある。そこからしか「いじめ」の衝動は生まれてこない。
いじめっ子は、親や教師の支配に従順だ。かんたんに親や教師になついてゆく。しかしそういう処世術が、彼らの支配されてあることにたいするルサンチマンを強くし、「いじめ」の衝動を生んでいる。
であれば、そういうルサンチマンを抱えていない子供は「いじめ」の対象となる。
いじめられる子供は、親や教師にかんたんになついてゆかない傾向を持っている場合が多い。なついていかないから、支配されてあることのルサンチマンもないのだが、そういう子供は、教師の思う通りに動かせない、かわいげがない存在になる。そうして教師は、ほかの生徒に、知らず知らず、あいつはいじめてもいいんだよ、という秋波を送ってしまう。
支配に従順でなついてくる子供は、教師も叱れないし、親も「うちの子にかぎって」と思う。だから、いじめられている子やその親に訴えられても、親も教師も一緒になっていじめっ子をかばう。
この循環構造が、「いじめ」の温床になっている。
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親や教師の支配に従順でなついてゆくということは、親や教師にいじめられている、ということです。そのストレスから、クラスの第三者をいじめようとする衝動が生まれてくる。親や教師のいうことをよく聞く「いい子」だから「いじめ」をしないと思ったら、のんきすぎます。むしろそういう「いい子」のほうが、「いじめ」という祝祭を必要としている。
かわいがられようと怒鳴られようと、支配されていることに変わりはない。現代ほど、家や学校による支配の濃密な時代もない。核家族の親たちも、教育環境の整った学校も、子供をいじくりまわすことがしつけであり教育だと思っている。大人たちは、子供をいじくりまわさずにいられない強迫観念があり、いじくりまわすことの恍惚を「祝祭」にして生きている。
それほどに、現代社会のシステムからの「支配=いじめ」がきついからでしょう。
社会のシステムにうまく順応してゆけば、誰もが「幸せ」になることができる世の中です。しかしそのときわれわれは、システムから幸せにしてもらっているのであり、幸せであるということは、それだけシステムからきつく支配されている、ということです。幸せになる、ということは、物理的にも精神的にも、システムからの支配に従順になってゆくことです。幸せであることにまどろみながら、支配されて(いじめられて)あることのストレスを意識下にためこんでゆくことです。
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大人たちが、システムからの支配(いじめ)を受けながら幸せであることにまどろんでゆくためには、子供を支配しいじくりまわすという祝祭行為はどうしても必要です。
であれば、子供たちだって、とうぜんその支配からの解放(避難)としての「いじめ」という祝祭を渇望するようになってくる。
彼らは、いじめられる子供が色濃く「差異」を持っているからといって、なぜいらだつのか。そこに、親や教師の支配からの逸脱=解放を見てしまうからでしょう。
親や教師もいじめる子供たちも、支配の内部にまどろんでいようとしている。まどろみつつ、ルサンチマンを募らせている。ルサンチマンを吐き出さなければ、まどろんでいることはできない。
支配の内部にまどろんでゆくことが「解放」になっている。いじめられる子供は、そのまどろみを覚ます「異物」として立ちあらわれる。
支配を受けることの「まどろみ」と「嘆き」。現代のおいては、「まどろみ」だけが自覚されて、「嘆き」が意識下に隠されてしまっている。いじめる子供たちは、親や教師に支配されてあることの「嘆き」を自覚していないから、支配から逸脱して「差異」を持った子供と和解できない。「嘆き」を自覚して逸脱しようとする衝動を持っていないから、逸脱した存在と和解できない。
余談ですが、日本列島の民俗社会の人々は、そういう「嘆き」を自覚していたから、逸脱した存在としての漂泊する「異人=まれびと」を歓待し、そこから逸脱してゆくカタルシスを汲み上げていった。前近代の民俗社会に、現代市民社会のような「支配されてあることのまどろみ」はなかった。
いじめる子供たちは、支配から逸脱してゆくことのカタルシスを知らないから「いじめ」をする。親と教師が、よってたかってそういう子供にしてしまっている。まあそういう子供でも、高校生くらいになれば、親や教師の支配から逸脱して自分たちだけの世界を持つようになるわけで、そこではじめて「支配されてあることの嘆き」というこの生の自然(司馬遼太郎いうところの「人間の原理」)と出会う。
とにかく、人間は、先験的に「いじめ」を受けて存在しているのだから、あたりまえに生きていればその「嘆き」は持ってしまうのであり、持つまいとすればどうしても無理やゆがみが出てきてしまう。
社会のシステムという支配の内部にまどろんでゆくことは、けっこう不自然なサーカスであるように思えます。そういうことを、現代の「いじめ」問題が教えてくれている。