「いじめ」という祝祭

まったく、華やいでいやがる・・・・・・。
これは、司馬遼太郎の「峠」という小説の冒頭で主人公がつぶやくせりふです。
北国の秋の終わりころ、人びとは、冬支度のために木に藁を巻いたり漬物にする野菜を買い込んだりと、いっとき活気づいている。
まるで、祝祭の気分だ。
民俗社会の人々は、権力者の過酷な支配(いじめ)を受け入れて生きている。そのストレス(嘆き)から、いっときこういうかたちで解き放たれる。また、雪に閉じ込められる冬は、村の活動が停滞する厳しい季節であると同時に、だからこそ支配のおよばない無主・無縁の世界にまどろむことのできる季節でもある。過酷な支配(いじめ)を受け入れていればこそ、そうした行事や季節にたいするの感慨もひとしおのものがあり、そういうカタルシスを汲み上げながら人びとは生きてきた。
雪国の冬支度は、権力者の支配(いじめ)がひとまず終わることの祝祭なのだ。
しかし、この光景を眺める主人公の気分は複雑です。彼は武士だから、民俗社会の人びとのそのような嘆きはない。また、ひといちばい権威にたいする恐れも憧れも持たない性格でもある。彼は、民俗社会の人びとに共感を寄せつつ、そういういじましさが、ちょいと気に入らない。おまえらそれでいいのか、とも思う。
彼には、そんな暮らしにまどろんでゆきたい気分はない。そんなことより、人間や社会の原理というものが知りたい。こいつらと一緒にまどろんだり華やいだりしているかぎり、それは叶わない。
で、上のようなことをつぶやき、勉学の旅に出る決心をする。
生きることが、ストレスをともなうものであるなら、ストレスから解放される「祝祭」も必要です。主人公だって、生き物であるかぎり空腹だとか暑い寒いというような身体からもたらされるさまざまなストレスからは逃れられないし、人と人の関係の愛だの尊敬だの義理だのというしがらみには、誰よりもうんざりしている。彼は彼なりにそういうかたちで「いじめ」を受けながら、そのストレスを「人間や社会の原理を知る」という方向で解消しようとしていた。彼の「カタルシス=祝祭」は、そこにしかなかった。
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現代の「いじめ」も、ひとつの祝祭であるのかもしれない。
はたから見れば陰湿極まりない「いじめ」も、当人たちは、あっけらかんとおもしろがってやっている場合が多い。たとえば執拗に差別的な言葉を投げ続けるとき、その言葉を吐くことがカタルシスになっている。言葉の起源は、言葉を吐くことのカタルシスによるのであって、知能などというものによるのではない。
しかも、祭りのときの「わっしょい、わっしょい」みたいなもので、同じ言葉を吐き続けることは、ある種の酩酊状態を引き起こす。そのとき「いじめ」の対象をひとつの言葉でしるしづけをし、その言葉を投げ続けるというカタルシス(酩酊状態)が生産されている。
いじめる者たちは、「華やいでいる」のだ。
現代人は、いつも華やいでいないと気がすまないような強迫観念がある。
資本主義とは、祝祭を生産し続ける運動であるのかもしれない。
貨幣による等価交換は「命がけのジャンプ」である、という。「貨幣」という抽象が、なぜ具体的な「商品」と等価であることができるのか。まあこれは社会の仕組みのややこしい問題なのでしょうが、ともかく貨幣は、人の気持ちを酩酊状態にしてしまう魔力を持っている。酩酊状態のときに人は、貨幣の魔力にたいして無力になってしまう。飲み屋に行ったときとか旅行やデートのとき、そういう祝祭空間においては、なにかと財布の紐がゆるんでしまう。
貨幣による等価交換は、ひとつの祝祭行為である。
貨幣による等価交換に浸された現代社会において、人は、つねに「幸せ」という「祝祭=酩酊状態」に身を置き、華やいでいようとする。華やいでいないと生きていることにならないかのような強迫観念がある。
大人たち、すなわち現代市民社会のそんな強迫観念が、子供たちに乗り移って「いじめ」が起きている。
そしていじめられている子供は、けんめいに「人間や社会の原理」について考えている。その結論が「死んで神になる」という祝祭=カタルシスであったとしても、です。「人間や社会の原理」をけんめいに考えたものでなければ、そんな結論は引き出せない。
奔放に生きた「峠」の主人公のその心性は、じつは、いじめられる者のそれであったのだ。
まったく、華やいでいやがる・・・・・・このつぶやきは、「人間や社会の原理」を考え続けた司馬遼太郎の、現代市民社会にたいする複雑な思いでもあったのかもしれない。