世界は輝いているか……ここだけの現代貨幣理論

承前

貨幣の起源と本質について考えてゆくと、MMTがそれと矛盾していないことがわかる。

ips細胞だって、細胞の起源と本質にかなっているから実現したのだろう。

人間社会の多くの問題は、とりあえず起源のところまでさかのぼって考えてみないと解決の糸口が見えてこないという側面があるし、それが究極の未来のかたちでもある。

起源=本質を突き止めることによってイノベーションが起きてくる、ともいえる。

現在のこの国の政治はそうした基礎研究に投資することを削って、上滑りしながら「今ここ」の損得勘定に上に成り立つ実学ばかりを奨励しているらしい。そういう風潮だから、MMTの理論も既存の経済学者たちから毛嫌いされてしまう。

MMTは、「貨幣は<交換>の道具である」というこれまでの常識には当てはまらない。だから「天動説に対する地動説である」といわれたりするわけだが、その認識の根本は「貨幣の本質は<交換の不可能性>に上に成り立っており、それは<現れて消えてゆくもの>である」ということにある。

銀行が貸した貨幣は、そこに書き込まれた数字として出現したものであって、顧客から預かっている預金を流用しているのではない。そして、借主がそれを返せば、その金額はこの世から消えてしまう。そのようにして、この世の貨幣はすべて「現れて消えてゆくもの」として成り立っている。

商品を買うことは、自分の財布から貨幣が消えてなくなることである。そのとき買い手は、その「喪失感」を抱きすくめるようにして貨幣を支払っている。そして売り手は、そこに貨幣が出現したことにときめいている。

その「喪失感」のカタルシスにこそ、人としての「快楽」の本質が宿っているのであり、そこに付け込んで「商品を売る」という行為が成り立っている。商品は最初からその金額の価値があるのではない。売れることによって、はじめてそこに価値=金額が出現するのであり、売れなければそれは1円の価値もない。売買が成立するとき、その1円の価値もないものをきっかけにしてそこに1000円が出現するのであって、1000円のものを1000円で売って「等価交換」しているのではない。とにかく、売れなければ1円の価値もないものなのだ。最初から1000円の価値を持っているのではない。1000円の価値は、売れたときにはじめて「出現」する。そして、買い手の財布から1000円が消えてゆく。

貨幣は「現れて消えてゆくもの」としてこの世界を駆け巡っている。

貨幣だって、生まれてきて死んでゆくものなのだ。人はこの生を思い死を思う存在だから、貨幣を生み出した。

MMTは、モダン=現代だけの貨幣理論ではない。貨幣はもう、きらきら光る貝殻や石粒だった起源のときからそういうものだったのだ。

 

この世界のすべての神羅万象が「現れて消えてゆくもの」であり、そういう現象に対してときめいたりかなしんだりしながら人類の歴史が進化発展してきた。

言葉=音声だって、現れて消えてゆくものだろう。そのことの不思議に関心を深くしながら、しだいに「言葉」というかたちになっていった。

人類はもともとさまざまな音声を発する猿だった。さまざまな心模様を持っていて、さまざまな音声を発する。しかし、人の心なんかわからない。わかるのは、音声が心をあらわしているということであり、聞くものは音声を心として受け止める。音声が心なのだ。心と心が通じ合うことなんか不可能だからこそ、音声があらわす心模様を共有してゆこうとする。

心に価値があるのではない、音声そのものに価値がある。音声は、光の輝きと同じように、「異次元の世界」からやってきて、またそこに向かって消えてゆくものである。

まあ原始社会はだれもが他愛なくときめき合い助け合っていたから、他者の心がわからなくても、他者の心を疑うということはしなかった、だから、言葉があらわしている心を信じることができた。心そのものを信じたのではない、言葉を信じたのだ。

現在でも、人は言葉=音声を信じている。だから、だまされたりする。

人は、他者の発した言葉を、自分の言葉として受け止める。他者が「リンゴ」というとき、他者にとっての「リンゴ」の意味と自分にとっての「リンゴ」の意味が同じかどうかはわからない。しかし、「リンゴ」という言葉そのものは信じている。

商品の1000円という価格=価値はお金を払う買う側の者にとっての価値であって、売る側の者にとっての価値ではない。まあ売る側は、おおむね700円か800円の価値しか見ていない。「等価交換の不可能性」、その「交換=売買」は、買う側の勝手な商品の価値に対する信憑と貨幣を喪失することのカタルシスの上に成り立っている。

言葉だって「伝達の不可能性」を負っているのだが、それでも言葉そのものは信じられている。その「伝達」は、聞く者の勝手な言葉に対する信憑の上に成り立っている。そして人の言葉に対する信憑は、言葉=音声が「現れて消えてゆくもの」であるこことの、その「超越性=異次元性」に対する遠いあこがれの上に成り立っている。

言葉だって、光の輝きと同様に、「異次元の世界」からの贈りものであって、自分の脳の中に収められてあるのではない。脳の外のどこかから脳の中に入り込んでくるかたちで言葉を浮かべている。人は、言葉を脳の中に記憶しているのではない、そのつど「思い出す」のだ。言葉で思考しているのではない、思考の結果として言葉が下りてくる。

人類は、二本の足で立ち上がることによって「異次元の世界」を見つけてしまった。それは、宇宙の果てであると同時に、「今ここ」の裂け目の向こう側にある。そうしてそれはまた、「死者」の世界でもある。死を思え、死者のことを思え……その「異次元の世界」に対する遠いあこがれ、すなわちそういう「メタ思考」とともに貨幣や言葉が生み出されてきたわけで、「メタ思考」は人間が人間であることの証しであり、それがなければ人類史のイノベーションや進化発展はなかった。

 

言葉の起源は、「やあ」とか「おい」とか「ねえ」とか、そのような他者への「捧げもの」であったはずだ。その延長として「おはよう」とか「さようなら」とか「ありがとう」というような言葉が生まれてきた。貨幣の本質が「浄財」であることにあるように、言葉の基礎と本質もまた、他者への「捧げもの」であることにある。

人間とは、「捧げもの」をする存在である。それによって「原始共産制」が成り立っていたのだし、それゆえにこそ猿のレベルを超えた際限もなく大きな集団をいとなむことができるようになっていった。

人類の集団というか社会は、「捧げもの」の関係が豊かに生成することによって活性化してゆく。「捧げものをする」とは、「自分の大切なものを失う」ということであり、「大切なもの」の究極・根源は「自分」であり「自分の命」であるのだろう。人が「捧げものをする」とき、心の底において「自分」および「自分の命」を差し出そうとする衝動がはたらいている。

「自分」および「自分の命」が「消えてゆく」ことのカタルシスというものがある。そうやって人は、「われを忘れて」何かにときめき熱中し感動してゆく。だれにとってもこの生は本質的根源的には「悲劇」であり、だからそうしたことが起きるのだし、そこにカタルシス=快楽を覚える。「捧げもの」の関係が豊かに生成している集団=社会とは、「豊かにときめき合い助け合っている」ということだ。

だれもが「自分」および「自分の命」を守ろうとしているのなら、「他者」および「他者の命」を守ろうとする必要なんかない。意識が自分に向いているということは、他者に向いていないということだ。そうやってときめき合い助け合う関係が希薄になっている集団は、停滞し縮小してゆくほかない。それはまさに、現在のこの国の状況だろう。

この停滞と縮小から脱出する方法はあるのか?われわれはそれを、貨幣や言葉の起源と本質から学ぶことができる。

 

MMTの理論は「貨幣は本質において<現れて消えてゆくもの>である」という認識の上に成り立っている。つまり、現在の資本主義社会において貨幣を介在して生み出されむさぼり取られている「利潤」は、貨幣の「現れて消えてゆくもの」という本質によって無効化することができる、といっている。

貨幣は、商品の売買の際に「交換の道具」として先験的に存在しているものではない。商品の売買の結果として「現れて消えてゆくもの」なのだ。1000円の値札が付いているから、1000円の紙幣が財布から現れ、そして買い手のもとから消えてゆく。買わなければ、財布の中の1000円なんかただの紙切れだし、売れなければその商品に1円の値打ちもない。

貨幣は、先験的に存在する「交換の道具」ではない。言葉のように、その瞬間に「現れて消えてゆくもの」なのだ。MMTの理論には、そういう認識がある。だから、とても魅力的だし、本質的でもある。しかしどんなに高名な経済学者だろうと、貨幣が「交換の道具」として先験的に存在するという前提で考えているかぎり、この理論を理解するのはとても困難なことであるらしい。彼らは、MMTのいう「消えてゆく・消すことができる」という認識が癇にさわるのだとしたら、それは彼らの潜在意識としての「死の恐怖」からくるのかもしれない。もしくは「生命賛歌」「等価交換」「平等」等々、そういういわば近代合理主義の前提をひっくり返されることが気に入らない。

「生命賛歌」は現在の世界の「正義」である。そういう「正義」に縛られている者たちはMMTを理解できない。彼らは善人で、われわれは人間のクズだ。

自分なんか生きてる値打ちもない人間のクズだ、と思って何が悪い?だからこそ、まわりの人たちには「生きていてほしい」と願う。まわりの人たちが生きていてくれなければ、自分は生きていられない。

今や「自己肯定感」とやらが素晴らしいとされている世の中だが、人が人であることの自然・本質は「自己否定」することにあり、それを否定するべきではない。その「自己否定」の気持ちに寄り添うということが、なぜできないのか。

だれもが「自分には生きる価値がある、生きていたい」と思っているのなら、だれも他者に対して「生きていてほしい」と願う必要がない。それでいいのか?そういう社会は、停滞し、衰弱してゆく。それが現在の世界だろう。

人間は、「生きてることなんか面倒くさい、生きていたくない」という思いが起きてくるような存在の仕方をしている。

しかしそれでも世界は輝いている。

人が生きているのは、「生きていたい」と思うからでも「生きることには価値がある」と思うからでもない。われわれは、「世界の輝き」によって生かされてある。

人類にとって貨幣や言葉は「世界の輝き」の形見であり、「世界の輝き」は「現れて消えてゆくもの」である。

「みんな死んでゆく」ということは、とりあえず「みんな生きている」ということでもあり、死に対する親密さの上にこの生が成り立っている。この生を否定することは、死に対する親密さの上に成り立ったこの生を肯定することでもある。この生のはたらきは、「消えてゆく」ことのカタルシスとともに活性化してゆく。貨幣が「消えてゆくもの」であるということは、この生が死に対する親密さの上に成り立っているということでもある。貨幣が「現れて消えてゆくもの」であるということには、彼らが考えているよりももっと深い意味がある。

 

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