「いじめ」の原像

「いじめ」の問題を発言することは、教育の現場にいるわけでもないやつがなにいってやがる、といわれそうな後ろめたさがあります。
だから、こうすればいい、とかというようなことはできればいいたくないし、いえる能力もないと思っています。
しかし、われわれが人間の群れのなかに置かれて生きているかぎり、誰もが「いじめ」の問題と無縁であることはできない。
ストレスとは、何かにいじめられることだ。
仕事のストレスとは、社会のシステムからいじめられることだし、人間関係のストレスは、社会のストレスからいじめられてあることのストレスを解消するために人間どうしがいじめたりいじめられたりすることから起きてくる。
仕事のストレスは、仕事の達成感や報酬というカタルシスで、あるていどは解消することができる。しかし人間関係でいじめられるストレスは、いじめ返す以外にカタルシスは得られない。いじめ返すことができないのなら、それは、どんどん蓄積してゆく。カタルシスとして解消されていないから、それは、いつまでも記憶として残ってゆく。一生消えないトラウマになることも多い。
人は、社会の支配は受け入れる。それを解消するカタルシスを見つけることができるからだ。むしろそのカタルシスのために、積極的に受け入れようとさえする。しかし他者から支配されることのストレスは、けっして解消されない。
子供を育てることは、支配する(いじめる)行為です。なんでもしてやったり、楽しいことをたくさん味わわさせてやることは、支配される(いじめられる)ことのストレスを自覚させないで、いじめ返す機会を与えないことです。だから、潜在意識として蓄積されたそのストレスは、カタルシスを汲み上げることができないまま、どんどん内向してゆくほかない。
反抗期は、親にたいして「いじめ返す」ことを試みている時期でしょう。そこで、いくぶんかの解消を果たす。であれば、反抗期のないいわゆる「いい子」がいじめに走るケースは多いはずです。親にいい顔をして親と仲がよい「いい子」だからいじめをしない、とはいえない。親が、子供を育てることは支配する(いじめる)ことだという後ろめたさを持っていないから、子供がいじめに走る、というケースもある。親にそういう隙がないから、反抗のしようがない。だから、ほかの子供をいじめて、親に支配されて(いじめられて)あることのストレスを解消しようとする。その行為で、反抗期を代替する。親の代わりとなる生贄をつくり出す。どんなに親と仲良くしても、支配されて(いじめられて)きたというストレスは、潜在意識としてどの子供にもある。中学生のいじめがいちばん激しくあからさまであるのは、彼らが「第二反抗期」にさしかかっているからだろうと思えます。
「いじめ」に参加しないと自分がいじめられることになる、という話をよく聞きます。誰の中にもいじめようとする衝動がある、という情況があるからでしょう。
いい世の中、いい家庭では、子供は反抗することができない。
親に反抗したり、友達をいじめたりというような「ガス抜き」に失敗した子供は、家庭内暴力として爆発する。あるいは、不登校になったり、ドロップアウトして町の喧騒に出て行ったりする。
親をいじめ返すという「反抗」は、あったほうがいいと思います。現在の繁栄を謳歌する市民社会において、いじめられるべきは、「子育て」という正義を振りかざして子供を支配して(いじめて)いる親なのだ。
「自分は正しい」という認識をけっして手離そうとしない親や教師や世の中の大人たち、そういう連中が「いじめ」の情況をつくっている。
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空腹だとか息苦しいとか暑い寒いとかということは、意識(観念)が体からいじめられることだ。そして、たとえば必要以上に腹いっぱい食ってばかりいてぶくぶく太ったり、食わないで無理に痩せようとしたりすることは、意識(観念)が体をいじめ返すことだ。
煙草を吸うことはもちろんだろうが、薬を飲んで病気を治そうとすることだって、体を支配しいじめていることだといえなくもない。もともと体には自然治癒力があるのだし、生きようと死のうと体の勝手のはずなのに、それを許さない。これは、「いじめ」でしょう。
現代人は、体を支配しようとする衝動がとても強い。体を支配することが、とうぜんの正義だと思っている。医療によって死なないようにすることは、正義だ。この傾向は、もしかしたら、未来は、もっと強くなるのかもしれない。
死なないように体を支配してゆくことは、普遍的な正義ではなく、現代における「死の恐怖の肥大化」という傾向の上にまつりあげられている正義に過ぎない。死ぬのが怖いぶんだけ、それは正義になる。
そういうことの反省として、「エコロジー」のムーブメントが起きているのかもしれない。
われわれは、体をいじめたり、体からいじめられたりして生きている。
薬を飲んで副作用が出ることは、体がいじめられている状態でしょう。
精神安定剤を飲んで心を落ち着ける。精神が安定しないことなんか、内蔵や皮膚には関係ないことなのに、薬のせいで下痢をしたりじんましんが出たりする。下痢をしたりじんましんが出なければいいといっても、体にとってはそれなりに負担を強いられる事態です。現代人は、そういう「いじめ」を平気でする。平気じゃなくても、しなければ生きてゆけないような情況がある。そういう情況の社会に置かれて生きている。
そのように、現代社会における、身体からいじめられることに耐えられなくて、身体をいじめ返して生きてゆくという情況から、他者にたいする「いじめ」の衝動も生まれてきているのかもしれない。とにもかくにも、「身体=自然」を支配する(いじめ返す)ことが生きることだ、という世の中なのだ。
自分ひとりで生きてゆけない子供たちは、そういう「情況」に、大人たちよりもずっときつく支配されてこの社会に存在している。
社会の「構造」のゆがみは、まず子供や弱い者にあらわれる。
息苦しいこと、空腹であること、暑い寒いということ、痛い痒いということ、そういう身体からいじめられる事態と和解してゆくことが「エコロジー」の思想である、と僕は思っています。
身体を支配する(いじめ返す)のではなく、身体と和解すること。あるいは、死と和解すること。大人たちが、いくぶんなりともそこで和解してゆけなければ、この社会から「いじめ」が減るということもないように思えます。
「いじめ」問題の元凶は、現代人の「身体意識=死生観」にある。教育現場にいるわけでもない者としては、そのことがまず気になります。