2007-01-01から1年間の記事一覧

アンチ「私家版・ユダヤ文化論」・1

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」を読んだので、自分も、ユダヤ人について考えてみることにしました。 僕は大雑把な人間だから、大雑把な言い方をしかできない。「ユダヤ人」について何を知っているわけでもないし、研究者のような「調べる」ということの…

人類史における共同体(国家)の発生

太平洋戦争のときの軍隊において、勇敢に戦ったのは東北出身の人たちの部隊で、それに比べて関西出身の人たちはからきし根性がなかった、といわれています。 寒い地方の人たちは、寄り集まって祝福し合おうとする心性が濃密です。だったら勇敢に戦うはずがな…

人類の歴史と知能の発達

人間のように「個人」あるいは「自己」という意識の強い生きものが、寄り集まって大きな群れを形成してゆくには、それなりに高度な知能を必要とする。ネアンデルタールの脳容量が現代人よりも大きいほどになっていったのは、それなりに無理をして大きな群れ…

人類拡散の逆説

5万年前の北ヨーロッパで、大きな群れの中に寄り集まりながら寒さに耐えて暮らしていたネアンデルタールは、大量の脂肪分を摂取するために、チームワークによるマンモスなどの大型草食獣の狩をしていた。彼らは、そのさいによく骨折をしたりしていたという…

「村上春樹にご用心」だってさ・2

読者が、村上春樹の小説からイメージする世の中に対する役に立ち方は、とてもおしゃれであるらしい。 それを、内田樹氏は、「村上春樹にご用心」という本の中で、次のように解説してくれる。 ・・・・・・ 私たちの世界にはときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪…

「村上春樹にご用心」だってさ・1

最近、内田樹氏のそういう村上春樹論の本が出て、それを高く評価していた友人がいたので、僕も買って読んでみました。 僕も、村上春樹の小説は、大好きです。川端康成と村上春樹の本なら、いつどんなときでも時間を忘れて読んでしまうことができる。そういう…

人間性の歴史・1

数百万年前の直立二足歩行の開始から、現代まで・・・・・・人類の歴史をトータルに考えてみたい、とこのごろ思っています。 いまどきの古人類学や考古学の研究者たちは、そういう視点に立った人間観というか哲学が貧困なまま、「歴史おたく」よろしく、ちまちまと…

歴史と人間の本性

司馬遼太郎氏は、僕のもっとも信頼できる歴史家の一人ですが、その対談集を読んでいて、ちょっと違うのではないかと思う個所がありました。 ・・・・・・ 「考えてみますと、日本の歴史というのはある意味で縄文式のころから、餓えるかもしれないという恐怖心の歴…

人類拡散とネアンデルタールの言語能力

原始人は、「旅」なんかしなかった。 人類拡散を、「旅のロマン」のごときレベルで語ってもらっては困ります。 原始人は、誰もが、まわりの見える景色が世界のすべてだと思って暮らしていたのだ。 アフリカのサバンナで暮らしている者たちが4万年前の極寒の…

人類拡散について

およそ250万年前、アフリカの森林に生息していた人類の祖先は、地球気候の寒冷化による森林の減少にともない、サバンナに出てきた。放り出された、というべきでしょうか。 このとき、群れごとサバンナに出てきたかといえば、そうではないと思う。森林が狭…

ネアンデルタールの心

寒い北の地で暮らす者たちは、他者にたいするせつないほどの豊かで熱い心映えをそなえている・・・・・・石川啄木や太宰治や寺山修司といった天才は、そういう土地柄から生まれてきた。また、落武者である義経を受け入れた藤原氏の態度や、安宅関で主人である義経…

「置換説」なんてくだらない

赤澤威先生だろうとストリンガーだろうと、子供だましみたいな分析をもったいぶって吹聴しまくるばかりで、まったく頭にくる。彼らの言うことなんか、分析にすらなっていない。 たとえば赤澤先生の「ネアンデルタール・ミッション」にいたってはもう、小学生…

「異人論」とネアンデルタール・2

4万年前の北ヨーロッパで、アフリカからやってきたホモ・サピエンスが先住民であるネアンデルタールの生息域を侵食し、絶滅させてしまった・・・・・・こういう途方もない仮説がなぜあたりまえのように現在のこの国の研究者のあいだに流通しているのか、まったく…

「異人論」とネアンデルタール

「異人論」とは、つまるところ「他者論」であり、それは、けっして小さくはない現代的な問題であると同時に、人間存在の根源に関わる問題でもあろうと思えます。 したがってそれは、ただ民俗学の事例をちまちまいじくりまわしているだけですむような問題では…

ネアンデルタールは、ほんとうに滅んだのか。

世の研究者に対する不満をもうひとつ。 4万年前から3万年前のヨーロッパで先住民であるネアンデルタールにとって代わったといわれているクロマニヨンは、アフリカから移住してきたホモ・サピエンスではなく、じつはホモ・サピエンスのミトコンドリア遺伝子…

「異人論」の本質について考える

「異人」について語ることは、つまるところ「他者」について語ることであろうと思えます。いつの時代も、人は、他者との関係に四苦八苦して生きている。生きものの世界は、つまるところ、男=オスと女=メスという「異人」どうしの関係の上に成り立っている。…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・17

人類が最初に見つけた「神」は、いい神だったのか、それとも祟る神だったのか。べつにどちらでもないでしょう。ただもう、人間にはない力や現象に驚き畏れただけだ。ことに原始時代の日本列島では、虫や草でも神だったわけで、いい神か悪い神かというような…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・16

「怨霊」のイメージは、日本列島の共同体のかたちが整備されてくるとともに、権力社会の権力闘争から、すなわち権力者の監視しようとせずにいられない意識が監視されているという強迫観念となって生まれてきた。 民衆は、権力者に監視されているという状況を…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・15

「今ここ」の世界(他者)に反応し祝福することは、みずからの身体の苦痛を嘆くという体験を契機にしている。そこから、身体=苦痛が消えてゆくことが、世界(他者)に反応し祝福することです。海に閉じ込められた日本列島の住民はそういう習性を持ってしま…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・14

他者の差異性を祝福すること。日本人には「他者」がない、とよくいわれるが、縄文人はどの民族よりも男と女の非対称性を意識していた。日本列島にはそういう伝統がある。 1万年前からの8千年間、縄文人は男と女が別々に暮らしていた。男は山野をさすらい、…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・13

世の中には、いろんな人間がいる。 しかし支配者は、そうは思っていない。支配者と被支配者の二種類の人間がいるだけだ、と思っている。彼にとって被支配者である民衆の群れは、ひとりひとりの違う人間としてではなく、ひとつのかたまりとして認識されている…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・12

知らない者どうしが出会って祝福しあう一瞬のときめき、それは、「愛」というよりもひとつの「奇跡」であり、人は、この社会のシステムから「監視される」しんどさが身にしみてどこかに逃げ出したいと思うとき、慣れ親しんだ者どうしの予定調和の安らぎより…

閑話休題・ネアンデルタールが歯を磨いていたわけ

最近、そういうニュースが話題になっているらしい。 そしてこのことを、ほとんどの研究者は、彼らがきれい好きだったとか、歯の健康に気を使っていたとか、そんなことばかりいっている。 まったく、ばかじゃないかと思う。 虫歯は、歯に付いた歯垢が歯肉をむ…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・11

海に囲まれた島国である日本列島の住民は、「監視」されることの息苦しさと痛さが骨身にしみているからこそ、「祝福」せずにいられない衝動もつねに疼いていた。狭い島国であれば「監視」されることは避けがたいし、「祝福」し合わなければ生きていけない。 …

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・10

正直にいえば、僕は、「御霊信仰」に関する文献なんか、なんにも読んでいません。 ただ、小松和彦氏の「悪霊論」という著作の中の「支配者と御霊信仰」と題された論文にたいして、そんなことあるものか、と思う個所がいくつもあって、その根拠を「異論」とし…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・9

M・フーコーは、「権力とは、監視することである」と言った。 何のために監視するかではない。監視せずにいられない者が、権力者になるのだ。 それは、彼らの身体意識から発している。 「見える」という反応と、志向的に「見る」ということとは、ちょっと違…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・8

日本列島における支配者と民衆の「身体意識」について、もう少し考えてみたいと思います。 「意識」は、空腹であるとか暑い寒いとか痛いとか苦しいとか、身体の苦痛として発生する。そうやって「意識」は、身体の存在と出会っている。 われわれは、自分の背…

閑話休題・17歳の「いじめ」

17、8歳といえば、気持が家からも社会からも離れて、人生でいちばん「いじめ」とは無縁の年頃のはずなのに、それでもせずにいられない少年たちがいるということを知らされるのは、何かやりきれない思いが募ります。 先日、そうやっていじめぬかれたあげく…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・7

先を読む能力は、ひとつの強迫観念です。「怨霊」のイメージは、そこで培養される。 そろそろ空腹の苦痛がやってきそうだから、その前に食っておかねばならない、と思う。そんなこと、空腹になったら食えばいいだけなのだが、先を読む能力に長けて強迫観念の…

「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・6

もっとも原初的な「非業の死」とは、殺された死、ということになるのでしょうか。狼や熊に襲われるのはまだ事故ともいえるが、人に殺されることは、本人もまわりも、悔やんでも悔やみきれない。身体は消えても、霊魂だけが宙をさまよっている。 原始人の意識…