「異人論」とネアンデルタール

「異人論」とは、つまるところ「他者論」であり、それは、けっして小さくはない現代的な問題であると同時に、人間存在の根源に関わる問題でもあろうと思えます。
したがってそれは、ただ民俗学の事例をちまちまいじくりまわしているだけですむような問題ではないはずです。
人と人が出会うということ、「異人論」は、すでにそこからはじまっている。
数百万年前の地球上で人類の祖先が直立二足歩行をはじめたとき、目の前の他者はどのようにたちあらわれるようになったのか。その事態は、四足歩行の猿であったときとは、ずいぶん違った意識を人類にもたらしたはずです。
たとえば、その姿勢を常態化することによって人類は、胸、腹、性器等の急所を外に晒してしまうことを余儀なくされた。それは、生きものとして、かなり重大なハンディキャップだったにちがいない。どうぞ攻撃してくださいといっているようなものです。つまり人類は、そういう不安=ハンディキャップを代償にしながら二本の足で立ち上がったのです。
とすれば、人間特有の他者と正面から抱き合うという行為は、そういう不安を宥める機能を持って生まれてきたといえる。もしかしたらそのとき人類は、すでに正常位でセックスをすることをはじめていたのかもしれない。
動物は、背後の敵を警戒して後背位でセックスする、なんて、ただの俗説です。彼らだってべつに、壁を背にしてやっているわけではないのだ。ただ、身体の急所を外に晒さないという体の構造に由来しているだけのことで、それがいちばんやりいいからそうやっているだけでしょう。
しかし人間は、やりいい体位よりも、みずからの不安を宥めるための体位を取るようになった。そしてセックスにそういう契機が加わったからこそ、より大きな快楽を体験し、年中発情しているようにもなっていった。
直立二足歩行をはじめて急所を外に晒してしまうようになった人類にとって、目の前の他者は、急所を攻撃される危険のある相手であると同時に、抱き合ってその急所を隠し合える相手でもあった。たとえば、3メートル離れていれば、向き合っていることじたい不安であるが、おもいきり接近したり抱き合ってしまえば、その不安は消えて、かえってよろこび(快感)となる。おそらくこれが、直立二足歩行をする人類における、他者=異人と出会うという体験の根源であろうと思えます。
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直立二足歩行の姿勢を常態にしている人類にとって、他者は、より不安を刺激される対象であると同時に、その不安を宥めてカタルシスをもたらしてくれる対象でもある。よくもわるくも他者は、みずからの存在の実感を異なる次元に導いてゆく対象として、みずからの前にたちあらわれる。他者は、危険な存在であると同時に、安心を与えてくれる存在でもある。人間にとって他者は、根源的にそういうパラドキシカルな存在であるという意味において、「異人」なのだ。
直立二足歩行は、生き物として自己完結できない姿勢です。自己完結できるなら、他者は、「同人」でもよい。しかし人間は、他者との関係によってはじめてその自覚を体験することができるわけで、自己完結した者どうしとして他者と向き合うことはできない。他者は、つねにみずからの存在を揺らしてくる「異人」としてたちあらわれる。
直立二足歩行は、四足歩行よりもずっと個体どうしがくっつきあうことのできる姿勢です。くっつきあって仲良くしようとして、直立二足歩行をはじめた、ともいえる。というか、たぶん限度を超えて群れが密集してきたとき、くっつきあってもたがいの関係をなんとかうまくやっていくための工夫として、自然にそんな姿勢になっていったのでしょう。
直立二足歩行は、他者を攻撃するためではなく、「祝福する」姿勢である。他者を攻撃しようとし、またみずからも攻撃されるまいとするなら、誰も二本の足で立ち上がったりはしない。それは、祝福し合わないことには維持してゆけない姿勢なのだ。
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「他者」が「異人」としてたちあらわれる観念体験は、すでに人類が直立二足歩行をはじめたときから起こっている。そうして現代人が人間関係に悩んだり精神を病んだりすることも、つまりは、他者が「異人」としてたちあらわれる体験のややこしさから生まれてくるのだろうと思えます。
直立二足歩行はもともと他者を祝福する姿勢であるが、現代においては、そうかんたんに誰も彼ももろ手を上げて祝福してゆくことはできないし、祝福されない淋しさや飢餓感を募らせている人もいれば、また、祝福する心性をまったく喪失して、祝福されることばかりを願っている人もいる。
まあ、いろいろとややこしい世の中になってしまっている。
いずれにせよ、「異人論」は直立二足歩行の開始以来の問題であるのだから、人類の歴史のいろんなメルクマールとなった出来事についても、「異人論」として検証してみる必要があるのかもしれない。
たとえば、「言葉」の起源など、まさにこの問題として考え直してみるべき余地はあるのではないでしょうか。言葉交わすことは、いわば他者とくっつきあっている状態を代理体験する行為です。すくなくとも「知能の発達」がどうの「象徴化の思考」がどうのといってすませている現在の研究者たちには、そうした視点はまったくない。
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人類の歴史は、異人体験の変化や進化として動いてきたのではないか。「知能の発達」など、その「結果」にすぎない。われわれは、「結果」でしかないことを「原因」であるかのように考えてしまう愚を犯してはいないか。まず「異人論」として検証してみる必要があるのではないか。
世の「置換説」の研究者たちがいっている、「4万年前の北ヨーロッパにおける先住者ネアンデルタールとアフリカからの来訪者ホモ・サピエンスとの出会い」という事件など、まさに「異人論」そのものの問題であるはずです。
もし両者が出会っていれば、ネアンデルタールはいったいどんな態度で迎えたのか、ホモ・サピエンスはどんな顔をしてその居留地に入っていったのか。研究者の考えていることなんて、いいかげんなレベルのものばかりです。はじめにホモ・サピエンスネアンデルタールを駆逐したという結論があって、そこから逆算しているだけです。人間というのは異人をどのように迎えるのか、どのように異人として訪ねてゆくのか、そういうことを本気で考えている研究者の存在なんて、僕は知らない。
たとえば、150人のネアンデルタールの群れのそばに300人のホモ・サピエンスが押しかけていって住み着くということが、はたしてあったのか。そんなことは、あるはずがない。たぶん4万年前の地球上に、300人の群れを組織して旅をすることのできる人類なんていなかったはずです。原始人に、そんなことは不可能です。
直立二足歩行する人間ほど他者と関係したがらない存在もなければ、人間ほど他者との関係を必要としている存在もない。そのころの地球上で、もっとも大きな群れを組織できたのは北ヨーロッパネアンデルタールであり、その150人の群れになるまで、人類は、直立二足歩行をはじめてから数百万年の時間を要している。
直立二足歩行する人間にとって他者は、危険な存在であると同時に安心を与えてくれる存在でもある。そういう「異人」であるがゆえに、人は、孤独を愛しもすれば、途方もなく大きな群れの中に身を置くこともできる。ともあれ4万年前の地球上では、アフリカのホモ・サピエンスは、猿よりも小さな規模の家族的小集団で移動生活をしていたし、ネアンデルタールは、より大きな群れ(社会)をつくって生きることにトライしはじめていたわけで、そういう歴史の段階だった。
4万年前の地球上に、ネアンデルタール以上の規模を持った群れなど存在しなかったのだ。存在したというのなら、その仮説の根拠なり考古学的証拠を示してもらいたいものだ。
クロマニヨンが大きな群れをつくっていたということなど、なんの根拠にも証拠にもならない。それは「結果」にすぎない。ホモ・サピエンスがそういう群れを組織して出発したといえる根拠や証拠を示してくれなければ、われわれは納得できない。
一部の研究者は、エジプトあたりから西アジアにいたホモ・サピエンスがどんどん増えてヨーロッパに移住していったのだというが、4万年前のその地にいたのは、ネアンデルタール的な形質の人種ばかりだったのです。そういう証拠しか出てきていない。どんどん増えて、余った人間がわざわざ住みにくい北ヨーロッパに移住していかねばならないような状況だったのなら、いくらでもそこからホモ・サピエンス的な形質の骨が出てくるでしょう。しかし、実際は、なーんも出てきていない。
北ヨーロッパにおけるいくぶんホモ・サピエンス的な形質も加わったクロマニヨンの骨は、突然わいて出てきたような状況で掘り出されているのです。どこかからやってきたというような証拠は、なんにもない。つまり、ネアンデルタールじしんがそんなふうに変っていったのだという状況証拠しかないのです。
そのころ、ホモ・サピエンス的な形質を持った人種が現れてくるのは、西アジアよりもヨーロッパのほうが先だった。アフリカや西アジアホモ・サピエンスがヨーロッパに進出していったのなら、そんなことはありない。アフリカや西アジアホモ・サピエンスがそのまま移動して言ったのではなく、氷河期の厳しい気候が持ち直したり人類の生活レベルが上がるということもあって、ホモ・サピエンスの遺伝子がヨーロッパまで伝播していっただけのはずです。
ただそのとき、ヨーロッパのネアンデルタールのほうが、ホモ・サピエンスの血が混じっても生き延びる能力を持っていたらしい。つまり間氷期とはいえ現代よりずっと寒かったわけで、おそらくヨーロッパのほうが文化や生活のレベルが高く、しかもより厳しい寒さを体験しているから、寒さに弱い子供を手あつく育てるノウハウが進んでいたし、子供じしんにも耐久力があったのでしょう。それにたいして西アジアネアンデルタールの群れでは、ホモ・サピエンスの血が混じった乳幼児は生き延びることができなかったのだ。同じネアンデルタール的な形質の人種でも、北ヨーロッパ西アジアでは、文化も寒さにたいする耐久力もそれなりに違いはあったはずです。現代のヨーロッパ人と西アジアのアラブ人が、同じコーカソイドという人種でもその体質や文化はずいぶん違うように。
南のほうが生活や文化のレベルが高かったと考えるのは、早計です。北のほうが寒いぶんそれだけ大きな群れを組織し、生活や文化のレベルも高かったはずです。現在の地球上でもそうだが、ヨーロッパのクロマニヨンにおいても、北のより寒い土地のほうが狩の技術も生活の文化も進んでいたのです。少なくとも乳幼児を死なせないための防寒の文化的な伝統や乳幼児じしんの体力は、北のほうがレベルは高かったはずです。それでも本格的な氷河期の北ヨーロッパでは、つぎつぎに乳幼児は死んでいったのだろうが、少し気候が持ち直したり、人類の生活文化が向上したこともあって、西アジアと死亡率が逆転した。そうして、ヨーロッパから先に、長生きできるホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアがどんどん増えていった。
氷河期だろうと温暖期だろうと、ネアンデルタール的な形質の人種が住む地域とホモ・サピエンス的な人種の地域との境界では、つねに混血は起きていたはずです。そして、暖かくなるにつれてホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子が北上しながら伝播してゆき、寒くなればネアンデルタールのそれが南下してゆく。べつに、民族の大移動が起きていたわけではない。そんなこといっている「置換説」の学者はずいぶんいるが、彼らの程度の低い妄想にすぎない。
4万年前の西アジアでは、ホモ・サピエンス的な形質の乳幼児は生き延びることができなかったが、ヨーロッパのネアンデルタールにはそれを可能にする体質と文化のレベルがあった。そうして、誰もが長生きできるホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアになっていった。ひとつの群れにひとりのホモ・サピエンス遺伝子のキャリアが生まれただけで、そちらのほうが長生きするのであれば、千年もたてばすべての個体がホモ・サピエンス遺伝子のキャリアになってしまうのだ。
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4万年前の西アジアに、ヨーロッパへの移民を生むようなホモ・サピエンス人口爆発があったかといえば、そんな考古学的証拠は何もない。もちろんアフリカにもなかった。ヨーロッパのクロマニヨンは、湧いて出てきたのです。西アジアからやってきたのではない。
氷河期のそのころ、もし人口が増えるとすれば、一時の激烈な寒さを脱して暮らしやすさを実感していたネアンデルタールにおいてです。ネアンデルタールだけでなく、彼らの狩の獲物である寒冷性の大型草食獣も増えた。
それに対して熱帯種であるホモ・サピエンスにとっては、まだまだ暮らしにくい気候だったはずです。その数万年前の温暖期には、西アジアを覆うほど遺伝子を伝播させたが、まだまだそのレベルの気候ではなかった。したがって、そんなホモ・サピエンスにおいて人口爆発が起きることはありえない。寒いヨーロッパと暑いアフリカの中間に位置する西アジアの人種は、氷河期にはネアンデルタール的な形質になり、温暖期にはホモ・サピエンス的になるというふうに、数万年ごとに形質が変わる傾向にあったが、それは、生活の文化が、気候の変化に対応できるレベルまでまだ発達していなかったことを意味する。
ともあれ、4万年前の地球上に、アフリカや西アジアホモ・サピエンスが大挙して北ヨーロッパに遠征してゆきネアンデルタールと出会う、などという「異人論」の問題はなかったのだ。
そのころの「異人論」を考えるとすれば、それは、近在の群れと群れの関係における遺伝子の交換にある。原始人に、自分たちの生活圏から見える景色の向こうがわまで行こうとするような衝動はなかった。世界は、その範囲で完結している、と思っていた。
しかし彼らだって、隣の群れの存在は知っていたはずです。狩の獲物を追いかけているときに接近遭遇することはあっただろうし、向こうの山の中腹から煙が立ち上っているのを見たりもしていたでしょう。直立二足歩行は、他者との距離を近づけようとする衝動を生む。近づきくっつき合うことによって、安心とカタルシスを得る姿勢です。戦争などというものがなかったその時代において、接近遭遇すれば、近づき、おたがいの存在を確かめ合おうとするでしょう。みずからの群れに不満を覚えた若者は、隣の群れを訪ねてみようとするでしょう。ことにネアンデルタールは、どの群れも同じような文化を持っていた。それは、近在の群れどうしにそういう親しい関係がつくられていたことを意味する。つまり、自然に遺伝子の交換が生まれてくるような関係があった、ということです。もし戦争をしていたのなら、もっと群れの独自性や地域性といったものが顕著に存在していたはずです。
直立二足歩行の本性に加えてネアンデルタールの場合、寒さに耐えるために、なお他者とくっつき合おうとする衝動を強く持っていた。また、もし新参のホモ・サピエンスと戦争になれば、集団で大型草食獣の狩をしていたネアンデルタールのほうが、チームワークでも、体力でも、闘争心でも、はるかにまさっていたはずです。マンモスの狩なら、ネアンデルタールのほうが、マンモスを見たことのないホモ・サピエンスより百倍も上手かったのだ。そんなネアンデルタールが、どうしてむざむざと追い払われたり自滅していったりすることがあろうか。
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そのころまだまだ自然の支配下に置かれていた原始人の生活においては、直立二足歩行の本性である「祝福する」という心性は、北の住人ほど強かった。ネアンデルタールにとってマンモスの狩をすることもまた、ひとつの祝福する行為であり、彼らの「祝祭」だったのだ。
生き物にとって「殺す」という行為は、ひとつの「祝福する」行為でもある。生き物は、生きてあることに執着しつつ、それをこの上なく鬱陶しいことだとも思っている。この生にうんざりすることが、この生を祝福することだ。この生にうんざりしつつ必死に寒さに耐えて暮らしていたネアンデルタールこそ、もっともこの生を祝福している人たちだった。彼らにとって、マンモスを「殺す」ことは、鬱陶しいこの生のいとなみから解放してやることでもあった。善とか悪とかという問題ではない、「異人論」としてそういう観念のはたらきを持っているところが、人間存在のややこしいところです。
この生にうんざりすることがこの生を祝福することであったからこそ、人類はどんなに住みにくいところでも住み着こうとし、地球の隅々まで拡散していったのだ。
「置換説」の研究者たちに言いたい。だいたいあなたたちは、考えることが幼稚で卑しいのだ。文句があるなら、いつでもどうぞ。