ネアンデルタールの心

寒い北の地で暮らす者たちは、他者にたいするせつないほどの豊かで熱い心映えをそなえている・・・・・・石川啄木太宰治寺山修司といった天才は、そういう土地柄から生まれてきた。また、落武者である義経を受け入れた藤原氏の態度や、安宅関で主人である義経を打ち据える弁慶の姿に心を動かされた奉行のエピソードなどにも、東北ならでは趣がある。こんなことをいえばずいぶん非科学的な話に聞こえるが、ほんらい熱帯種である人類が極寒のシベリアやアラスカまで拡散していったもっとも大きな理由は、つまるところ「他者=異人との出会いのときめき」にあるのだと思えます。
研究者のいう「狩の獲物を追いかけて」とか「好奇心にせかされて」とか、そういう説明のほうがよほど無知で非科学的なのではないか。
彼らは、北に「住み着いた」のです。屈強な大人や若者たちが出かけていって戻ってきた、という話ではないのです。弱い女や子供や赤ん坊までもその地で暮らすようになっていったのです。そういうことが、「狩の獲物を追いかけて」とか「好奇心にせかされて」、などという安直な理由だけで実現するはずないじゃないですか。女はもともとそういう冒険を嫌う人種であるし、子供や赤ん坊にはそんな厳しい環境で生きてゆく体力はない。それでもなぜ、そんなところにまでも住み着いていったのか。
研究者たちは、「移動していった」というレベルで思考が停止してしまって、「住み着いていった」ということまで頭がまわっていない。研究者なんて、そのていどの人種らしい。
そりゃあ大人は、少々寒くても生き延びることができる。しかし、乳幼児は、そうはいかない。ただでさえ体力のない乳幼児だが、おまけに人間の場合は、産道が狭いために、未熟児として生まれてくる。生まれたばかりの人間の赤ん坊は、見ることも、自分で動きまわることもできない。ちょっとほったらかしにしておけば、かんたんに死んでしまう。
ネアンデルタールの場合、まず200万年前にアフリカから拡散していった人類が100万年かけてじわじわと北ヨーロッパにたどり着き、そこからまた100万年かけて、どうすれば体力のない乳幼児を育ててゆけるかということを試行錯誤してきた、という伝統がある。そういう気が遠くなるほどの長い歴史と伝統があって、はじめて人間の乳幼児が極寒の地で生き延びることのできる生態を持つことができたのだ。
4万年前の氷河期の北ヨーロッパで、いきなり熱帯種であるアフリカのホモ・サピエンスの赤ん坊を育てたら、十中八、九死んでしまうにちがいない。現在の「置換説」は、はじめに置換ありきで、そういうことの検証がじつにいいかげんなのだ。
極寒の地で生まれた赤ん坊は、一刻も早く危険な乳幼児期を通過しなければならない。早熟で頑丈な体をもって生まれた子供だけが大人になるまで生き延びることができる。おそらく200万年かけてネアンデルタールは、そういう子供ばかり生まれる頑丈な体型の人種になっていった。
しかしなんといっても赤ん坊はあくまで赤ん坊であり、彼らがそんな体質を持っていても、氷河期になれば死んでゆく乳幼児はたくさんいたらしい。ネアンデルタールの遺跡から発掘される骨の半分は、子供のものであるのだとか。つまり、それだけ乳幼児の死亡率が高く、また、ほんらいならもろくて後の時代まで残りにくいはずの乳幼児の骨がたくさん残っているということは、それだけ乳幼児ほど手あつく葬っていたことを意味する。
彼らは、掌中の玉を抱くように、懸命に赤ん坊を育てていた。おそらくその気持のこめ方は、温暖なアフリカのホモ・サピエンスの比ではなかったでしょう。
アフリカのホモ・サピエンスは、移動生活をしているから、毎年のように子供を産むことはできない。大型肉食獣から襲われる危険のあるサバンナで、一人の女が、一度に二人も三人も子供を抱えて移動して行くことはできない。そういうことを考えれば、せいぜい4、5年にひとり産むのがやっとでしょう。しかも、一夫多妻の集団だから、あるていどの歳になれば、子供を生む役割から離れてしまう。ホモ・サピエンスの女は、生涯にあまり多くの子供は産まなかった。そしてそれでも彼らの社会が維持されていたのは、乳幼児の死亡率があまり高くなかったからだろうし、であれば、ネアンデルタールほど切実な思いをこめて育てるということもなかったにちがいない。
たぶんネアンデルタールは、洞窟の中で、懸命に暖めながら育てていたのでしょう。それはちょっと、ビニールハウスの促成栽培に似ていなくもない。そういうところにも、ネアンデルタールの子供の成長が早くなっていった一因があるのかもしれない。植物の樹木は南ほど早く成長するが、動物は、逆の場合が多い。とはいえ、それでも死んでゆく乳幼児はあとをたたず、ネアンデルタールの女は、その30数年の生涯で、平均7、8人の子供を産んでいただろうといわれている。彼らはホモ・サピエンスのように移動生活をしていなかったからそれが可能だったのだが、それほどたくさんの思いを込めて育てても、たくさん死んでゆく。だから、積極的にセックスしていって、たくさん産みつづけねばならない。赤ん坊に死なれた女は、その反動でひどく発情するものらしい。それ以外に彼女らを慰めることはできない。とにかくネアンデルタールの女たちは、二重にも三重にも生きることに対する物狂おしさを抱えていた。
そして男たちも、そんな女たちのもとで人生の第1歩を印して育ってきたのだから、この人生や他者にたいする思いは、さまざまに胸に満ちてくるものがあったにちがいない。そういう物狂おしさこそ、北で暮らす人々の心映えであり、それによって人類は地球の隅々まで拡散していったのだ。
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この国のネアンデルタール研究の権威である赤澤威先生は、「ネアンデルタールの心が知りたい」という。そしてそのためには、ネアンデルタールの脳を研究して、彼らの知能をさぐってゆかねばならない、という。たとえば、自然を知る「博物的知能」とか、石器などをあつかう「技術的知能」とか、言葉を交わす「言語的知能」とか、そういう「知能指数」が、ホモ・サピエンスであるクロマニヨンとどのていどの開きがあったのかということを確かめ、それによって「置換説」をさらに確実なものにしてゆこうというわけです。
くだらない。あほじゃないか、と思う。
「知識を身につける」ことと、「心のはたらき」をいっしょくたにして考えるのは、あまりにも大雑把過ぎます。この学者の「教養」のていどが知れる、というものです。
ネアンデルタールの骨格がだんだんクロマニヨン的になってゆくという過程を、現在の考古学の資料だけで裏付けることは不可能でしょう。しかし、「知能指数」の差をはかる物差しとして、ネアンデルタールの後期の石器文化とクロマニヨンの初期のそれとのあいだには、はっきりとしたレベルの差というものはないのです。骨格はまだネアンデルタールでありながら、石器文化はすでにクロマニヨンのレベルになっていたという例(シャテルペロン文化)は、いくらでもある。
ネアンデルタールがどんな心の持ち主であったのかという問題は、彼らがどんな暮らしをしていたかという問題であって、赤澤先生が言うような、頭の骨がどんなかっこうをしていたかとか、知能のレベルがどうだったかとか、そんなことではないのだ。そんなレベルで「心」を語ることがどんなに幼稚で愚劣なことかということを、学者なら少しは思い知ったほうがよい。
赤澤先生が僕よりも深く「ネアンデルタールの心」について考えていると証明できる人がいるのなら、どうか教えてくださいよ。
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この世に生まれ出た赤ん坊は、まず、母親という「異人」との出会いを体験する。もしかしたら、人の「心」の質的なかたちは、おおよそこの体験によってつくられてしまうのかもしれない。極端な言い方をすれば、アフリカのホモ・サピエンスの母親にとっての子供は移動の荷物に過ぎないが、ネアンデルタールの母親にとっての、寒さの中でいつ死んでしまうかわからない赤ん坊は、泊まっていってくれとたのんでもすでに帰り支度をはじめている賓客のような存在だったのかもしれない。ネアンデルタールの母親は、そういう物狂おしい思いで子供を育てていたし、子供がそういう育てられ方をする土壌から「哲学」とか「思想」という学問も生まれてきたのだ。
どちらがいいとか悪いとかということではないですよ。どちらにも一長一短はある。いえることはただ、アフリカのホモ・サピエンスの子供と北ヨーロッパネアンデルタールの子供とでは、ずいぶん違う育てられ方をしたということです。両者の心の違いはそういうところにあるのであって、知能がどうのという問題ではない。
たぶん、母親のことだけではない。生まれたばかりの子供は、まず、大人という「異人」の中に投げ入れられる。そこで、心のかたちがなかば決定される。大人という「社会」、われわれの心は、よくもわるくも「社会性」としてかたちづくられてしまっている。その「社会性」が他者=異人との出会いのときめきの上にかたちづくられる場合もあれば、大人の支配に順応してゆくというかたちになることもある。
現代社会の子育てにおいては、おそらく後者の社会性=共同性を強くかぶせられてしまうことが多い。現代の赤ん坊は、ネアンデルタールのような、油断したら「死んでしまう」という切り札が奪われている。また、ホモ・サピエンスのように「荷物」として移動させられるわけでもない。もう大人たちに、好き勝手にいじくりまわされてしまう。好き勝手によろこばされてしまう。だから、大人たちの支配(=共同性)に従順になりすぎ、その後に子供どうしの関係が生まれてくる幼児期の通過がぎこちなくなったりする。つまり、大人との関係(=大人に支配されること)にたいする「無関心」や「拒否反応」を持っていない子供が、やがて「いじめ」に走るようになる。「いじめ」とは、大人とのそうした関係にまどろみつづけようとする衝動でもあるのだ。
ネアンデルタールの子供は、自分で生き延びる体力を持たなければ乳幼児期を通過できない。母親は、不安でしょうがない目をして育てている。だから、母親に自分の成長を任せてしまうことができない。彼らは、肉体的にも精神的にも、自分で自分を成長させようとする衝動を持っている。
ネアンデルタールの女がたくさん子供を産んでいたということは、彼女らは、つねに赤ん坊を育てているか男とセックスしてばかりいるかで、あるていど成長した子供はほおっておかれていた、ということを意味する。ネアンデルタールの子供たちは、子供だけの社会を持っていた。彼らは、セックスばかりしている大人たちと、つぎつぎ死んでゆく赤ん坊とのあいだに置かれて、すでに、人はなぜ死ぬのかという「哲学」や、男と女の関係や社会はどうあるべきかという「思想」の問題と出会って生きていたのだ。そんな状況なのだから、子供だけの社会をつくってゆかざるを得なかった。「いじめ」なんかしている暇はなかった。ネアンデルタールは、大人も子供も、寒さに耐えて生きてゆくために、寄り集まって祝福し合う関係ばかりを追求していた。
ネアンデルタールの社会においては、誰にとっても、すべての他者が「異人」だった。その厳しい寒さゆえに、誰もが死と背中合わせに存在している孤立した個人であると同時に、誰もひとりで生きてゆくことはできなかった。
彼らが「家族」という単位を持たなかったのは、誰もが孤立した存在として他者を祝福していたからだ。
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北の民が抱いているせつないほどの人恋しさ、それが人類の地球拡散を実現させたのであり、学問や芸術だってそこから生まれてきたのだ。
いっぽう、政治性や共同性は、氷河期明けの、農業に適した温暖な地域(たとえば四大文明発祥の地)でまず発達した。それは、子供の安全な成長が保障されているために、親が子供を支配するというかたちで社会の共同性を植え付けてしまうことができるからでしょう。
国家の共同性は、住みよい土地でまず発達した。現代の住みよい暮らしは、都市においてしか得られない。都市が、住みよい暮らしを保証してくれる。人が住みよい暮らしを願うのは、住みよい暮らしを願うような社会に生きているからだ。それは、人間の普遍的な願いでもなんでもない。普遍的な願い、などというものはない。願いは、「状況」から生まれるのであって、先験的に持っているのではない。われわれ現代人が住みよい暮らしを願うのは、住みよい暮らしを願うように飼育されて育ってきたからだ。それだけのことだ。
人類は、どんなに住みにくい土地にも住み着いていった。そのとき人類の願いは、住みにくさと和解することであって、住みよい暮らしを得ることではなかった。住みよい暮らしを得るためだったら、誰も氷河期の北ヨーロッパやシベリアなんぞに住み着きはしない。
意識は「状況」の中で発生する。そして「状況」と和解しようとする。空腹になって物を食うのは、空腹から逃れようとするのではなく、空腹を「祝福する」行為だ。誰も、「食いたい」と思って食うことはできない。すでに食っているのだから、「食いたい」と思いようがない。食っていない状況だから、「食いたい」と思うことができる。「食いたい」という願いは、食っていない「状況」でしか成り立たない。すでに買ってしまったものを、「買いたい」とは思わない。食うよろこびは、空腹を「祝福する」よろこび、すなわち空腹という「状況」と和解するよろこびにほかならない。
われわれは、住みよい暮らしを願うことによって、そういう願いが生まれてくる「状況=共同性」を祝福し和解している。もしもそういう「状況=共同性」と和解しないのなら、あるいはそれが与えられていないのなら、住みにくさを祝福し和解してゆくことができる。
原発なんかいらない、と叫ぶことは、つまるところ、住みよい暮らしなんかいらない、と叫ぶことだ。われわれのどこかしらに、住みにくさと和解していった原始時代の記憶があるらしい。それは、他者という「異人」を祝福し、そこからカタルシスをくみ上げてゆくことの記憶でもある。人間が直立二足歩行する生き物であるかぎり、その記憶はどうしてもついてまわるし、最後には、やっぱりそこに行き着くのかもしれない。
住みよい暮らしを願うことなんか、人間の先験的普遍的な願いでもなんでもない。原始人にそんなスケベ根性などなかったから、どんなに住みにくい土地にも移住していったのだ。いや現代のブラジルの奥地に移民していった人たちだって、動機はなんであれ、住みにくさと和解しながら住み着いていったのでしょう。他者を祝福する体験さえあれば、人間はどんな住みにくい土地にだって住み着いてしまう。逆にいえば、「住みよい」とは、祝福し合う体験があるということであって、うまいものが食えるとか、いい暮らしができるとか、そんなことはたいした問題ではない。
直立二足歩行の開始以来、人類の歴史は、他者=異人との関係で動いてきたのだ。赤澤先生たちのいう「知能の発達」などということは、歴史を動かした「原因」ではなく、歴史が動いてきたことの「結果」に過ぎない。ネアンデルタールの頭骸骨の形を調べて、彼らの「心」の何がわかるというのか。そういうことを知ろうとするなら、彼らが、極寒の気候のもとで、他者とのどんな関係を築いて暮らしていたかを類推してゆくしかないのだ。