人類拡散について

およそ250万年前、アフリカの森林に生息していた人類の祖先は、地球気候の寒冷化による森林の減少にともない、サバンナに出てきた。放り出された、というべきでしょうか。
このとき、群れごとサバンナに出てきたかといえば、そうではないと思う。森林が狭くなったために、群れからはじき出された少数が出てきたのでしょう。そういう者たちがさまよいながら同じように群れからとび出してきた者と出会い、新しい群れをつくってゆくという余剰のスペースが、森林の中にはもう残っていなかった。
森林がまったくなくなってしまったわけではないし、ほんらい群れは、移動しようとする衝動(あるいは本能)を持っていない。住み着こうとするのが人間の本性であり、移動してゆくのは、いつだって群れから追われた者やみずからとび出していった少数の者たちだったのだ。
ことに、森林からサバンナに移って暮らすということは、人類の歴史の革命的な大転換だったはずです。保守的な大人たちが、そんなことをしようとするはずがない。いや、最初は、誰もしようとしなかったでしょう。それでも、急激な森林域の減少は、しかたなくそこに押し出されてゆく者を生み出した。
こんなことは、おそらく人間だから起きたのだ。チンパンジーなら、あくまでテリトリーの奪い合いに終始して、けっして出てくるということはしない。そうして、けっきょくは、現代の彼らの状況が示すように、しだいに生息数を減らしてゆくだけでしょう。
しかし原始人は、テリトリーの奪い合いをけっしてしなかった。しなくなることによって、「人間」になったのだ。それが、直立二足歩行によって生まれてきた新しい生態だったのだ。しなかったから、やむなくサバンナに押し出される者が生まれてきたのだ。
現在の研究者たちがいうような、新天地をもとめて飛び出してきた、というようなことがあるはずない。それは、そんな尻軽なスケベ根性だけで踏み切れるようなことではなかったのだ。現代人が田舎を捨てて都会に出て行くというのとは、わけがちがう。種としての生態を根底から変えていかないと生き延びることのできない場所だったのだ。それまでと同じ食い物なんか何もないし、大型肉食獣という外敵はうじゃうじゃいる。たぶん最初は、昼間に活動することなんか、とてもじゃないができなかったにちがいない。
それでも、屍肉漁りを覚えたりしてそんな最悪の環境をなんとか生き延びることができたのは、テリトリー争いをしないという生態を持っていたからでしょう。テリトリー争いをする衝動が少しでもあったら、ぜったいにサバンナになんか出てきたりはしない。
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最初にサバンナに出てきたのは、ごく少数の、元気があって向こう見ずな若者だけだったはずです。男ばかりだったのか、女も混じっていたのか、それはわからない。ただ、森林の中で女を奪ってサバンナに逃げ込めば、そこまでは誰も追いかけてこない。チンパンジーの群れでは、若いオスには、ほとんど性交の機会はない。人間の群れでもそうだったのだとしたら、サバンナ暮らしをはじめることは、若い男が女を得るための絶好の機会だったのかもしれない。そのとき人類がサバンナ暮らしをはじめることのメリットは、それ以外に考えられない。
人間のような雑食動物は、食い物に命をかけるということはしない。木の根をかじって生きていてもかまわない。実際、森林がどんどん貧弱になっていって、木の実のなる大きな木はなくなり、木の根ばかりかじって生きていた群れもあったはずです。また、サバンナで屍肉漁りをするようになったのも、好奇心からではなく、食いものなら何でもよかったからでしょう。
そのとき原始人に命をかけるものがあるとすれば、それは、女でしょう。サバンナは、女を確保するのに具合のいい場所だった。誰も奪いに来ないし、大きな群れで行動しているわけではないから、奪い合いになることもない。
サバンナの民は、大きな集団をつくらない。ごく少数の家族的集団で行動する。大きな群れで行動していたら、目立つし、移動の速度も落ちるから、大型草食獣の餌食になりやすい。それに直立二足歩行する人間は、群れでかたまって走り出すと将棋倒しになりやすい。だから、牛や馬の群れのように、みんなが同じ方向に走り出すということができず、すぐ散り散りになってしまう。サバンナでは、必要以上に大きな群れをつくると、かえって散り散りになってしまう。もうどうあっても、小さな集団になるしかない。気の合う家族的集団以上の規模にはならない。
また、大きな群れでみんなで助け合うということがないから、生き延びるためには、個人の能力だけが頼りになる。で、能力のある男は何人もの女を持つことができるが、ない者はひとりも持てない。
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サバンナでは、群れをつくって暮らすことはできない。
おそらくそのころ人類は、サバンナに出て暮らす者と、少ない茂みにしがみついて群れを守ってゆこうとする者の、二つの生態に分かれていったのだろうと思えます。
前者は、機敏な動きができる華奢な体型(ホモ・ハビリス系)の種族になり、木の根をかじって生き延びていた後者は、頑丈な体型(パラントロプス系)の種族になっていった。
では、この両者のどちらがアフリカの外へと拡散していったのか。
研究者のほとんどは、前者のホモ・ハビリス系だといっています。華奢な体型で機敏な動きができるのだから、そちらのほうが移動の能力も高いのは当然じゃないか、というわけです。
しかし、拡散してゆくというのは、そういう能力の問題ではない。サバンナの暮らしは、個人の能力が優先される。どこに獲物がいてどんなふうに動けばいいかとか、そういう能力は、勝手知ったる住み慣れた土地でこそ発揮される。みずからの移動エリアの中で活動すればこそ、多くの女を獲得することもできる。もし外に出て行ったら、女はもう獲得できない。サバンナの民は、けっしてみずからの移動エリアの外に出て行かない。みずからの移動エリアのネットワークで女を交換したり買い取ったりしてゆく。地元での経験値の高いものほど得する社会なのだ。また能力の低い者も、外に出てゆけば、もっと無力になってしまう。だから、誰も出てゆこうとしない。
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チンパンジーをはじめとする猿の群れは、たいていボスがいて、ボスがメスを独占している。では、200万年前の人間の群れにも、ボスがいただろうか。リーダー的な存在の者は、いたかもしれない。しかし原始的な人間の群れの場合、リーダーは、みんなに奉仕する立場であったらしい。みんなが上手く暮らしていけるようにあんばいしないと、リーダーの座からひきずりおろされてしまうのだ。
直立二足歩行する人間の群れは、他者を祝福しようとする衝動の上に成り立っている。そういう衝動によってみんなに奉仕したい者が、リーダーにさせてもらうのだ。また、誰もが他者を祝福しようとする衝動を強く持っているから、それぞれ勝手にカップルができてしまって、リーダーといえどもそれを阻止することはできない。猿の群れでは、人間ほど祝福しようとする衝動が強くないから、ボスが独占してしまうことができるのだ、
サバンナの民の女もまた、食い物を与えてくれる相手という制限があるから、男を祝福する心もまた制限されている。だから、能力のある男が独占できる。
それに対して群れの中の女は、どの男のものにもならない。相手は、そのときどきで変わっていったにちがいない。淋しいときと楽しいとき、体の調子がいいときと悪いとき、そのときどきで祝福したい相手は男も女も違ってくる。群れで動いていれば、個人の能力の優劣があまり出てこない。みんな一緒に食い物にありつき、餓えるときも一緒。だから、サバンナの民のような利害関係も生まれてこない。しかも人間は、猿と違って、一年中発情している。極端にいえばつまり、そのとき目の前に立っている相手が祝福されるのだ。個人差も利害関係もないから、そうやって任意に男女がくっついてしまう。べつに、一人に一人ずつとか、そういうことではない。たぶん、原始時代の群れに、「家族」という単位などなかった。
しかしそうした乱婚の状況に若者が新しく参加してゆくことは、けっしてかんたんなことではない。身体的にも技術的にもハンデがある。それに、大人の男も女も慣れ親しんだ相手を選びがちだし、まだ早いと押さえつけられこともある。ちなみに、原始社会における若い娘は、現代ほど大人の男たちからありがたれることもなく、むしろ敬遠されがちだったのだとか。
そこで、群れの外で若者どうしの関係をつくろうとする動きが出てくる。最初はたんなる遊びの場だったのが、近在の若者も集まってきて、いつの間にか独立した群れになってゆく。
原始人にとっての群れは、祝福しあう場だった。その関係から疎外された若者たちが集まって、新たな祝福し合う場をつくってゆく。そうやって人類は、拡散していったのではないだろうか。すくなくとも200万年前の原始人において、食い物は生産するものではなく目の前にあるものを食っていただけなのだから、拡散してゆく契機にはならなかった。大人と若者とか、男と女とか、そういう「他者との関係」が拡散の動きをつくっていったのではないだろうか。
その群れが、結束しようとすればするほど、若者ははじき出されねばならなくなる。そのとき成長して新たに群れの大人たちの関係に参加してゆこうとする若者は、いわば侵入者として、不可避的に群れの結束を阻害する存在になってしまう。結束力の強い群れほど、若者をはじき出してしまう。厳しい状況に置かれている群れはそれだけ強く結束しようとし、その結束の強さが若者をはじき出してしまう。
すなわち人類最初の出アフリカは、移動生活をしていたサバンナの民が、そのフットワークのよさで拡散していったのではない。サバンナの生活ができない者たちが、群れにしがみついてどこにもゆくまいとしたからこそ、そこからはじき出される若者が生まれ、結果的にそれが人類の生息域を広げてゆくことになったのだ。
人類拡散とは、群れの外に新しい群れが生まれてゆくという現象が継続されて人類の生息域が広がっていっただけのことであり、べつに群れごと移住していったとか、そういうことではないのだ。
サバンナの民は、群れを解体してサバンナに定着していった。それにたいしてサバンナの暮らしに移行できなかった者たちは、群れにしがみつき、しがみつくあまり、成長してきた若者をたえず群れから吐き出しつづけた。そうして直立二足歩行する人間の若者たちは、けっして大人たちのテリトリーを奪ってしまおうとはしなかった。あくまでその外側に、新しい群れとテリトリーをつくっていった。彼らは、群れをとび出した時点で、すでにもとの群れにたいする関心は消え、新しく寄り集まって来た者どうしの祝福し合う関係ばかりに関心が向いていた。つまり、そういうかたちで群れの伝統を引き継いでいったのだ。
親と一緒に暮らしていれば「親殺し」の衝動を持つが、離れてしまえば、親のことは忘れてしまうか懐かしく思うかのどちらかであり、それが、人間の若者の根源的な生態なのだ。子供は、家の中(親のもと)では、性衝動を封じ込められている。外に出れば、その衝動が解放される。200万年前の人類拡散も、まあそんなような構造から生まれてきたのでしょう。彼らは、「性衝動の解放」として新しく出会った他者を祝福し、新しい土地に新しい群れをつくっていったのだ。
200万年前のアフリカには、そうした異なる二つの生態を持った人類が生息していた。
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というわけで、最初にアフリカの外まで拡散していったのは、サバンナの民であるホモ・ハビリス系の人類ではなく、狭い森林で木の根をかじりながら群れをつくって暮らしていた、パラントロプス系の頑丈な体型をした人類だった。
中央アジアのドマニシで発掘された、200万年前のアフリカ以外で最古の人類の骨は、長身で華奢な体型のホモ・ハビリス系ではなく、小柄で頑丈な体型のパラントロプス系だった。
しかし、両者の混血は、部分的にたえず起こっていたに違いない。家族的小集団を形成するサバンナの民が、外部からきたものを受け入れることはない。また、小柄でフットワークも鈍いパラントロプス系の人種が、そうしたネットワークに参加してゆく能力もあろうはずがない。ただ、サバンナでの生存競争から落ちこぼれた者が、パラントロプス系の群れに参加してゆくことはあったにちがいない。原始人の群れには、来訪者としての旅人を祝福し迎え入れるメンタリティがあった。
パラントロプス系の人種は、一部のホモ・ハビリスと混血しながら、つねに拡散しつづけていった。そうしてその混血によって、みずからの形質もしだいに変わっていった。アジアに拡散していったのは、最初は頑丈で小柄なパラントロプス系そのものの体型をしていたのだが、やがては、アフリカでホモ・ハビリスから進化したといわれているホモ・エレクトスとほとんど変わらない形質になっていった。
もっともこのことを、ストリンガーなどの「置換説」の研究者は、ホモ・エレクトスに滅ぼされたのだ、といっているわけだが、そういう漫画じみた妄想はいいかげんやめてくれよ、という感じです。
人類の身体形質は、生活のレベルが上がるにしたがって、しだいにひ弱になってきた。したがって、古い頑丈な形質の者が新しいひ弱な者よりも先に自滅してゆくということは、ありえないのです。古い頑丈な形質の者も、混血と生活のレベルの向上とともにしだいにひ弱な形質に変わっていったというだけのことだ。
いずれにせよ、最初に地球上に拡散していったのは「サバンナの民」ではないということ、「サバンナの民」は拡散してゆくような生態を持った人種ではない、ということを確認しておきたい。したがって、その末裔であるアフリカのホモ・サピエンスが氷河期の北ヨーロッパに移住していったということも、ありえない話です。
サバンナでの個人的な小動物の狩と、氷原でのチームワークのマンモス狩りとでは、やり方がまったく違う。個人の能力が頼みで生きていたサバンナの民が、わざわざそんなところへ出かけてゆくはずがないじゃないですか。