30〜20万年前以降のアフリカ中央部のサバンナを生きた純粋ホモ・サピエンスとは、どんな人たちだったのだろうか。
人類が森の暮らしからサバンナに出てきたのは、250〜200万年くらい前のことだろうといわれている。
しかしこの「サバンナに出てきた」という言葉は正確ではない。これでは何か森の暮らしを捨てたようなニュアンスになってしまうが、依然として森が棲み処だったのだ。
そのころ、地球気候の乾燥化とともにアフリカの森は減少傾向にあった。
人類が住みかとしていたのはジャングルのような鬱蒼とした森ではなく、サバンナの中に点在する、木の生え方が比較的まばらで地上での行動がしやすい森だった。そして気候の乾燥化がさらに進めば、その森の中に草地ができ、やがて森はいくつものさらに小さな森に分裂してゆく。そうなれば、当然その小さな森から小さな森へと移動する暮らしになってくる。
人類がみずからサバンナに出ていったのではなく、森の中にいくつものサバンナができて、そのサバンナを横切っていったのがはじまりなのだ。
そのようにして、小さな森から森へとサバンナを横切ってゆくのが人類の習性になっていった。
劇的に変化したのではない。だんだんそうなっていっただけのこと。一般的に言われれているような、肉食獣が食べ残した大型草食獣の死肉を求めてサバンナに出ていったとか、そういうことではない。べつになんの目的があったわけでもないが、自然にそうなっていっただけのこと。
そしてサバンナを横切ってゆくのは、大型肉食獣に出会うかもしれないという危険がともなう。襲われて逃げる、という体験を何度もしたことだろう。このようなとき人間は、ほかの草食獣の群れのように群れ全体がひとかたまりになって逃げるということはできない。直立二足歩行する人間がひとかたまりになって走っていたら、たちまち将棋倒しになってしまう。現代でも、イベント会場などで、よくそういう事故が起きる。
だからもう、めいめいが勝手な方向に四散して逃げてゆく。もしこんなことが日常的に起きていたら、当然集団は散らばり、いくつにも分裂してゆくだろう。小さな群れの方が見つかりにくいし、まとまって逃げることもできる。
そのようにもう、家族的集団の小さな群れで行動するしかなかったし、しかしサバンナの中に小さな森は無数にあった。
直立二足歩行する人類は、四足歩行のときのような速く走る能力も、俊敏に動く能力も、戦う能力もすでになかった。したがって、サバンナで生活する能力などもとよりない。弱い猿である人類には、天敵から隠れることのできる森はどうしても必要だった。
人間は、逃げる生き物ではなく、隠れる生き物なのだ。
人類がサバンナを生活の場にしたことは一度もない。現在だって、赤道直下の未開の民は、森から森へと移動しながら暮らしている。森を拠点にして、ときどきサバンナに出て狩をしているだけである。
・・・・・・・・・・・・・・・・
20万年前のアフリカ中央部の純粋ホモ・サピエンスも、けっしてサバンナの民であったのではなく、あくまでも「森の人」だったのだ。
それは、天敵から隠れる場所であると同時に、日陰が得られる場所でもあった。人間の赤ん坊は、日陰でなければ育てることはできない。
もともと森を住み処とする猿であった人類が、日陰のないところで暮らしてゆけることはできないはずだ。アフリカ人だから炎天下に長くいても平気だということはない。
真夏のマラソンレースで、日差しに負けて脱落してゆく黒人ランナーはいくらでもいる。彼らは日本人や西洋人のようなド根性がないから、むしろ冬のマラソンの方が得意なのである。スピードではなくド根性と体力勝負のサバイバルレースになると、純粋ホモ・サピエンスはあんがいもろい。
酷暑の環境では、日陰でじっとしているのがいちばんだ。アフリカのホモ・サピエンスが、ネアンデルタールのように何日も野営しながら狩りに出かけてゆくというような根性や習性を持つことは、絶対にあり得ない。彼らの行動範囲は、けっして広くはなかった。
人類は森から出てきてサバンナを歩き回るようになったのではない。すくなくともアフリカ中央部では、依然として森に隠れてじっとしている歴史を歩んできただけである。むしろ危険なサバンナを横切るということが生活に加わって、よけいに用心深く森に身を潜めていようとする意識が強くなったに違いない。
人間が平気でサバンナを歩き回れるようになったのは、おそらく銃を持ったここ数百年のことで、弓や槍などのかなり高度な石器文化を身につけた数万年前の人類だって、最初のうちは用心しいしい身をひそめながら小動物の狩をしていただけであり、大型草食獣の肉や骨は、肉食獣の食べ残しを拾ってきただけだった。アフリカの部族がまとまってチームプレーで大型草食獣の狩をすることを覚えたのは、氷河期明け以降のおそらくここ数千年のことだろう。
また20〜数万年前までのホモ・サピエンスは、家族的小集団で暮らしていたから、もとの群れからできるだけ遠く離れて新しい群れをつくってゆくという習性もなかった。彼らにとって新しい群れをつくるということは、もとの群れとは一緒に行動しないというだけのことで、居住域が変わるわけではなかった。
だからアフリカでは、無数の部族がたがいに交流することなく長い長い歴史を歩んでゆくことになった。アフリカ人ほど遠征しない民族もないのである。
アフリカのホモ・サピエンスの集団が地球の隅々まで遠征拡散していったということなど、あり得ない話なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
アフリカ人は、集団のチームプレーが苦手である。
現代のサッカーでも、身体能力は際立っていてもチームプレーがうまくできないから、いまだにワールドカップで優勝できないでいる。まあ最近では、どの国のナショナルチームもヨーロッパ人監督を招聘してその戦い方のレベルは改善されつつあるが。
それは、彼らが大きな集団で暮らす歴史を歩んでこなかったからだ。
どうしても、個人プレーに走ってしまう。
アフリカのホモ・サピエンスがいきなり北ヨーロッパに行ってチームプレ−でマンモスを倒すということはあり得ない。
アフリカには、チームプレーの歴史がない。
20万年前のアフリカ中央部のホモ・サピエンスは、それまでのアフリカ人類の歴史のいわば選ばれたものたちである。人類がサバンナとの関係の歴史を歩みはじめてから、彼らは、もっともその暮らしに適合していったものたちの末裔である。彼らは、どんどんその暮らしに適合してゆき、文化文明も発達してくれば、当然体は退化してくる。つまり、ひ弱になってくる。ひ弱でも生きていられる適合力を持っていた。
自然としての身体は、けっして今ここの環境に適合できること以上のものは持たない。すべての生き物の身体は、適合でき必要最低限の構造しかもっていない。だから「死ぬ」ということが必ず起きてくる。
ホモ・サピエンスはどんどん環境に適合していった結果として、ひ弱になってゆき、ゆっくり成長してゆく(ネオテニー幼形成熟)というもっともひ弱な遺伝子を生み出した。そういう遺伝子の個体でも育ってゆけるくらい適合していたのだ。そしてこの遺伝子のキャリアの個体はとても長生きするから、やがてすべての個体がその遺伝子のキャリアになっていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家族的小集団で暮らしていた彼らは、個人プレー、すなわち個人の身体能力で環境に適合していった。
であれば、うまく適合できないで外へ外へと追いやられていったものたちは、身体能力に劣ったものたちで、そのぶん連携していかないと生き残ることができないものたちだった。
200万年前ころにアフリカの外へと拡散していったのは、そういうものたちだった。彼らの身体は、サバンナに適合していったものたちよりずっと原始的だった。しかしだからこそ、寒い土地でも住み着いてゆくことができたのであり、さらにチームプレーが磨かれて、ネアンデルタールという人種になっていった。
もちろんそれまでのあいだ、人間のすべての集落がまわりの集落と女の交換をしているかぎり、北と南との血の混合はなされてきた。しかし、50万年前に氷河期の極北の地に住み着くようになればもう、南の血が混じった個体は生き残ることができなかったし、南の方もまた、南の暮らしに適合した血を特化させていった。その結果として、早く成長して早く死んでゆくネアンデルタールの遺伝子と、ゆっくり成長して長生きするホモ・サピエンスの遺伝子と、両極端に分かれていった
両方の血が混じり合ったのは、それから40数万年後の3万年前、ネアンデルタールの集落がホモ・サピエンスの遺伝子を拾い、その遺伝子のキャリアとして生まれてきた子を高度になった文明によって育てていったことにはじまる。
もちろんそこは、ネアンデルタールの血が混じっていなければ生き残れない環境だった。
何度でも言う。その環境は、アフリカの純粋ホモ・サピエンスがいきなり行って生き残ることができるようなところではなかった。両者は、体質も、生き方の文化としてのメンタリティも、まったく違っていたのである。アフリカのホモ・サピエンスは、体質においても生き方の文化としてのメンタリティにおいても、氷河期の北ヨーロッパを生きることのできる人たちではなかった。それほどに中央アフリカでの暮らしに適合しきっていた。適合していたのだから、彼らにその地を離れようという意思なんかさらさらなかったし、よその土地にいって生きていける人たちでもなかった。
そんな彼らが、いきなり北ヨーロッパに行ってヨーロッパの覇者になるなんて、歴史はそんな甘っちょろい絵空事であるはずがない。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/