人類拡散とネアンデルタールの言語能力

原始人は、「旅」なんかしなかった。
人類拡散を、「旅のロマン」のごときレベルで語ってもらっては困ります。
原始人は、誰もが、まわりの見える景色が世界のすべてだと思って暮らしていたのだ。
アフリカのサバンナで暮らしている者たちが4万年前の極寒の北ヨーロッパに移動してゆくとか、そんな「旅」はなかったのだ。
彼らは、「旅」をしたのではない。どんなところにも「住み着いていった」だけだ。
群れをとび出した者たちが、もとの群れの外側に新しい群れをつくる。そういうことをえんえんと繰り返していったのが、人類拡散なのだ。
人間は、群れをつくってどこにも行くまいとする心のはたらきを持っている。その心でどんなに住みにくいところにも住み着いていったのであり、その心が、人類の地球拡散を実現させたのだ。
高名な「置換説」の学者であるC・ストリンガーは、こう言っています。アフリカのホモ・サピエンスのすらりとした体型はもっとも遠距離移動に適した体型であり、それによってアフリカからの北ヨーロッパ遠征や人類の地球拡散が実現したのだ、と。
まったく、何をくだらないことを言っているのか。
だいいちに、すらりとした体型をしているから長距離移動に適しているとはいえない。ラクダとキリンを比べてみるといい。頑丈な体をしていたネアンデルタールのほうが、ずっとそうした能力を持っていたはずです。
また、ホモ・サピエンスは、熱帯のサバンナを駆けまわっていたのか。大型肉食獣がうじゃうじゃいるそんなところで、人間ごときがそんなことできるはずないじゃないですか。それに、熱帯の炎天下では、たちまち体のエネルギーがなくなくなってしまう。むやみに動きたがらないのが、アフリカ人の気質です。そして、じっとしていたら凍え死んでしまうところで暮らしていたのが、ネアンデルタールなのだ。
ストリンガーだけではなく、「置換説」を主張するたいていの研究者は、「身体」というものについての考察が幼稚で短絡的過ぎる。
なにより、人類拡散は、長距離移動の能力なんて、なんにも関係ないのです。住みにくいところにも住み着いてゆくことができる能力こそが、人類拡散を実現させたのだ。そして、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたネアンデルタール以上にそうした能力を持った人種が、いったい4万年前の地球のどこにいたか。尻軽な「長距離移動の能力」だけで、シベリアやアラスカに住み着いてゆけると思いますか。
また、原初の人類が住みにくい土地にも住み着いていったということは、彼らには、住みやすいことよりももっと大切なことがあったということを意味する。それはたぶん、群れをつくってたがいに祝福し合う暮らしをすることであり、それができるなら、ろくな食い物がなくても、寒さに震える暮らしであっても耐えてゆくことができた。寒さに震えながら寄り集まってゆくことの醍醐味を発見したことによって、人類拡散が実現したのかもしれない。
「住みやすい土地を求めて」とか「移動の能力」などという理由では、人類拡散は説明がつかないのだ。
えらそうに「置換説」を吹きまわるのなら、そういうことを、きっちり説明してもらいたいものです。というか、少しはそういうことを考えてみるべきだろう。彼らはみんな、「遺伝子」のところで思考がストップしてしまっている。
僕は、遺伝子以前のことをいっているのではない、遺伝子以後の、研究者が答えねばならない問題を問うているのだ。人間とは何かとか、歴史とは何かということに関してなら僕のほうがずっと四苦八苦して考えているから、彼らのためにそういう問題を用意してやっているのだ。
僕は、自分のいっていることが正しいかどうかということなどわからない。ただ、俺はそう考える、と言っているだけです。正しいかどうかなんて、そういうことを決めるのが趣味の連中が決めればいい。僕のいうことが間違っていたって、ぜんぜんかまわない。そうですか、といって改めるだけだ。できれば改めてくれる人と出会いたい、と願っている。でないと僕は、研究者たちのあほさ加減にうんざりしたまま死んでゆかねばならないことになる。
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新しい群れが寄り集まって住み着いてゆくためにもっとも必要なもののひとつは、「言葉」です。人類は、言葉を持ったから、極寒の住みにくい土地でも寄り集まって住み着いてゆくことができた。言葉が発達するくらい、寄り集まり祝福しあって住み着いていった。
人類拡散が、言葉を発達させた。言葉を持ったから、人類は大きな群れを組織できるようになっていったのだ。
そうして、4万年前の地球上でもっとも大きな規模の群れを組織して暮らしていたのがネアンデルタールであったとしたら、彼らの社会こそもっとも言葉が発達していたことを意味する。
ところが、ほとんどの研究者は、ネアンデルタールは上手く言葉を話せなかった、と言っている。
ある言語学者の説明です。
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ネアンデルタールの声帯は、ホモ・サピエンスに比べてかなり低い位置にあります。呼気(こき)の振動を発語器官の口腔部まで伝えるには、気道が長すぎるのではないかと思われます。音声言語は、音素から単語、単語から文が構成されるという「二重文節構造」をもち、発語運動の呼気の調節は複雑です。このような複雑な言語音を発声するためには、呼気の量を自在に保持・調整し、タイミングをはかってリズミカルに押し出し、気道の空気を振動させ、口腔部まで伝えなくてはなりません。しかし、気道があまりに長いと、複雑な分節化した言語音(言葉)を発声するのは難しいと思われます。
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ようするに、ネアンデルタールは知能が遅れていて言葉なんかうまく話せなかったにちがいない、という前提で、こういうもってまわった説明をしているわけです。
何度もいうように、言葉なんか、オウムでも発語できるのです。言葉は、喉の構造が生み出すのでもなければ、喉の構造に決定されているのでもない。言葉が、喉の構造を決定しているのだ。言葉は、言葉が生まれるような「状況(社会の構造)」から生まれてくる。そういう状況に反応する「心」が熟せば、猿だって話せるのだ。喉の構造なんか、たいした問題じゃない。そういうことを、この学者は、何もわかっていない。
そうして、お決まりのように、言語の発生は「シンボル操作の能力」がどうとかこうとか。そういうありふれた説明は、もう聞き飽きた。そういう観念=知能のはたらきが言葉を生み出すのではない。言葉は、「状況(社会の構造)」から生まれてくるのだ。そういう状況に置かれたら、人は、考えるより先に(考えないでも)勝手に言葉を吐いてしまうのだ。
「おはよう」という言葉を生まれて初めて発した幼児は、おそらくその言葉の意味なんか何もわかっていない。つまり、どんな「シンボル操作」もしていない。状況に言わせられただけでしょう。「おはよう」という言葉が使われる「状況」の中で、その言葉の語感と戯れる「心」の動きがあっただけだ。
ネアンデルタールの声帯がちょっと低い位置にあったのは、そのほうが発語しやすい言葉を使っていたからでしょう。それだけのことだ。
チンパンジーは、ネアンデルタールとは逆に声帯が高い位置にあり、気道が短すぎるのだそうです。つまりネアンデルタールの喉の構造は、ホモ・サピエンスよりもチンパンジーに近いのではなく、ホモ・サピエンスよりも遠い(進化している?)ということです。
ネアンデルタールにはネアンデルタールの言葉があり、そういう言葉を使ってばかりいたから、そういう位置まで声帯が下がっていったのでしょう。いずれにせよ、ホモ・サピエンス(クロマニヨン)よりちょっと下にあるというだけのことです。それは、使う言葉の違いという以前に、そのときの気候の違いからきただけのことかもしれない。間氷期の比較的温暖な時期のクロマニヨンの喉と、極寒の氷河期に置かれていたネアンデルタールでは、同じような言葉を話していても、いくぶんかの違いはとうぜん出てくる。
寒いところでは、あまり大きく口を開けたり、頻繁に口を開け閉めしたりするということはしたくない。ヨーロッパの言葉(英語)は、口を大きく頻繁に動かすのではなく、舌や唇に歯を当てたりしてニュアンスの違いをつくってゆく。つまり、口の中で、いろんな芸をする。だから、声帯が下がっていったのかもしれない。声帯が少し下がっているくらいでちょうどよい気道の長さになり、そのほうがいろんなニュアンスをつくれたのでしょう。
また、たとえば、英語で「キャリー」といえば、分節化されていないひとつの音素のように一気に発語できるが、日本語の「運ぶ」という言い方になると、口を開け閉めして「は・こ・ぶ」と、分節化しなければならない。GET AWAYと書けば、日本人は「ゲット・アウェイ」と分節化して発語してしまうが、ヨーロッパ人は「ゲッタウェイ(ゲラウェイ)」と、つなげて一気に発語する。日本人は「リ・レイ(RELEY)」とか「リ・メンバー(REMEMBER)」と分節して発語しているが、彼らは「リーレイ」とか「リーメンバー」とつなげて発語する。ネアンデルタールの子孫である彼らはおそらく、われわれよりも「気道」が長く、分節化して発語することが苦手なのでしょう。というか、必要以上に分節化しない言葉の構造になっている。
ヨーロッパの言葉は、すでにネアンデルタールのところから始まっている。それは、寒冷気候の中で、あまり大きく口を動かさないでも発語できるような仕組みになっている。そして、おしゃべりが好きなネアンデルタールにおいては、声帯が上にあると、冷たい空気に晒されて、すぐ喉をいためるという結果を招いたのかもしれない。
喉の構造が言葉を生み出すのではない。言葉が、喉の構造をつくっているのだ。
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ネアンデルタールは言葉を持っていたにちがいない、という前提に立ったこの分析が正しいのか間違っているのかはわからないが、とにかく、言語の伝統という水脈はいったいどこまで深いのだろう、と思わせられます。ヨーロッパの言語には、もしかしたらネアンデルタールいらい10万年以上の歴史があるのかもしれない。その流れるような言葉のつらなりは、寒いところでこそ生まれてくるのであって、忙しく口を開け閉めして太鼓を叩いているようなリズムを持ったアフリカの言葉とは決定的に違う。現代のヨーロッパ人がもしアフリカのホモ・サピエンスの子孫であるのなら、それは、言葉にはっきりと痕跡が残っているはずです。言葉の伝統は、1万年や2万年では、けっして消えてしまいはしないのだ。