ネアンデルタール人は絶滅したなんて、そんなことがあるはずないじゃないか。何度でも言う。ネアンデルタール人がそのままクロマニヨン人になっただけなのだ。
どこをどう考えても、ネアンデルタール人が絶滅したというような歴史の流れにはなっていない。
人類の文化文明が発達した契機は、限度を超えて大きく密集した集団を持ったことにある。ネアンデルタール人の埋葬もクロマニヨン人の洞窟壁画も、そういう集団性=社会性の意識から生まれてきたのだ。
それは、多くの人類学者が言うように、知能が進化したからではない。知能は、文化文明によってもたらされたあくまで「結果」にすぎない。そこのところで彼らの思考は、決定的に錯誤している。
まあ、知能指数の高い連中はそういうことにしたいのだろうが、歴史はそのようになっていない。彼らの歴史観は底が浅いうえに、何よりフェアじゃない。
人間の行為を成り立たせているのは、「知能」ではなく「心」なのだ。数学者の岡潔だって、「感情(情緒)なくしては学問といえども成り立たない」と言っている。
人類学の世界ではあまりにもそういう思考が横行しており、僕はもう、世界中の人類学者に対して、おまえらていどの薄っぺらな脳みそで人間や歴史の何がわかるものか、と言いたくなってしまうのだ。
そのときネアンデルタールやクロマニヨンは、「生きることとは何か」とか「死ぬこととは何か」という問題に目覚めていった。彼らはそれほどに生きがたい生を生きていたのであり、その「嘆き」を共有している社会の構造があった。そういうところから埋葬や洞窟壁画が生まれてきたのであって、知能などというものによってではない。
人類の文化文明を生み出す契機は、「知能」ではなく「嘆き」にある。すなわち人類の文化や文明は、絶滅の危機を生きる者たちによってもたらされてきた、ということだ。
かんたんに「絶滅した」だの「繁栄した」だのと言ってもらっては困るのだ。われわれが今ここに生きてあること自体が、滅亡の危機の中を生きていることだともいえる。人間はそうやって死を意識しながら生きている存在だから、文化や文明を生み出してきたのだ。
そこのところ、おまえらにはわかるまい、と僕は、世界中の人類学者たちに言いたいのだ。
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この国の多くの人類学者は、4〜3万年前にアフリカのホモ・サピエンスが大挙してヨーロッパに上陸してゆき、先住民であるネアンデルタールと入れ替わった、といっているのだが、こんなマンガみたいな話があるはずないのだ。
いわゆる「出アフリカ説」というのがあって、人類はまず200万年前にアフリカを出て世界中に拡散していった。そうして7万年前ころにもう一度ホモ・サピエンスがアフリカを出て無限に人口を増やしながら世界中の先住民たちと入れ替わっていった、と言われている。これを「第2次アウト・オブ・アフリカ」と言うんだってさ。
ばかばかしい。
そのころ氷河期である。そんな寒空の下の道なき道を女子供を抱えた原始人の大集団が旅をできるはずがないし、じっとしていても人口が減ってゆくしかない厳しい時期に、無限に人口を増やすなどということができるはずもなかろう。
そのころの全人類の人口を500万としよう。そこで、ホモ・サピエンスは10人から500万人になることができて、500万人の先住民が生き延びることができなくて消えていった、と集団的置換説の研究者たちは言っているのである。
同じ人間で、こんな差がつくだろうか。つくはずないじゃないか。しかもその地に昔から住み着いている人間よりも、いきなりやってきたよそ者の方がもっと上手にその環境に適応していっただなんて、おまえらよくそんな空々しいこじつけができるものだ。人間をなんだと思っているのか。
こういう連中の薄っぺらな脳みそで勝手に歴史を決めつけられることが、僕は我慢がならないのだ。
ネアンデルタール人とは誰か』の著者であるストリンガーも『ネアンデルタール人の首飾り』のファン・ルイス・ アルスアガも『ネアンデルタール人の正体』の赤澤威氏も『人類がたどってきた道』の海部陽介氏も、みんな臆面もなくこんな粗雑な思考を垂れ流している。
原始時代であればこそ、先住民が何十万年もその地に住み着いてきたことの歴史の重みや文化の厚みがあるということを、おまえらにはわからないのか。それを、おまえらの言う小賢しい「知能」とやらでかんたんに凌駕できると思っているのか。
最初から「凌駕した」と決めつけているから、そんなわけのわからない理屈になってしまうのだ。
ひとまず頭の中を空っぽにして凌駕できるかどうかと問うなら、凌駕できるはずがないのだ。
そういう歴史の流れを考えることができなくて「遺伝子のデータが証拠として出ている」などと鬼の首でも取ったようないい方をする研究者は多いが、今の段階ではあいまいなものばかりではないか。まだまだ結論が出ているわけではない。
遺伝子解析の作業なんて、はじまったばかりだ。一部の功名心が先走った遺伝子学者の勝手な憶測に決めつけられて、それでいいわけないだろう。
そんな連中に歴史家である人類学者たちがやすやすと踊らされているのが、現在の状況だろう。
で、最近は、新しい遺伝子のデータが出てきて、少ない人口の先住民は混血してホモ・サピエンスに吸収されていった、というような話になってきている。
まだだめだ。何度でも言う。あのころアフリカを出ていった純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいないのだ。
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こういう風潮の発端となったのは、「ミトコンドリア・イヴ説」の登場だったのだろうか。
アフリカ以外のすべての人類は7〜10万年前にアフリカにいたひとりのホモ・サピエンスの女性の子孫である、という説。つまり、その女性を取り巻く小集団が無限に人口を増やしながら世界中に拡散し、すべての先住民は滅びたと言う。
まったくガキの妄想のレベルの話である。
氷河期の寒空の下を旅しながら無限に人口を増やしていっただなんて、そんなことがあるはずないじゃないか。すべての先住民がきれいさっぱりいなくなるということも、あるはずがなかろう。
しかし一時は、これで決まりだと大騒ぎした学者がたくさんいた。
ミトコンドリア遺伝子は女親からしか伝わらない。たとえば、ホモ・サピエンスの女とネアンデルタールの男が交雑すれば、確実にホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアの子供が生まれ、ネアンデルタールの男は先祖としての登録から抹消される。
そして、ホモ・サピエンスミトコンドリア遺伝子のキャリアは長生きするという性格があって、もともと短命であるネアンデルタールの集団にその遺伝子がひとつでもまぎれこめば、いずれはすべてがその遺伝子のキャリアになってしまう。
そのようにして、たった一つの有利な遺伝子が、ネアンデルタールの集落から集落へと手渡されながらヨーロッパ中に広まり、やがては世界中に広まっていった。もとはといえば、アフリカ北部まで拡散していたネアンデルタールが、そこでひとつのホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまったことからはじまっている。そこから、遺伝子だけが集落から集落へと旅をして世界中に広まっていった。
そのアフリカの小集団が無限に人口を増やしながら世界中に拡散していったのなら、世界中の人類のほとんどが純粋なホモ・サピエンスのはずである。しかし、純粋なホモ・サピエンスは、アフリカ以外にはいない。
ただもう世界中の先住民が、ホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまっただけなのだ。
したがって、アフリカから出ていった純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない。
また、純粋ホモ・サピエンスは、故郷を離れて旅をしたがるような民族ではなかった。
まあこれらのことは、ここまで書いてきたことの繰り返しになることだから、これ以上は書かない。
とにかく、4〜2万年前にヨーロッパに上陸していったアフリカの純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない、ということだ。
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奈良盆地には、きっと弥生時代から続いているのだろうなと思わせられる古風な集落をたくさん見かけることができる。いやそういう集落は、日本列島にいくらでもあるだろう。もちろん家のつくりは変わっても、人々はずっとそこに住み着いてきた。
もしかしたらヨーロッパには、もっと古い集落がもっとたくさんあるのかもしれない。
支配者は変わっても、庶民は住み着いてしまう。庶民には住み着く能力があるが、支配者にはない。
知能指数とやらは支配者の方が高いのだろうが、それは住み着くための基礎にはならない。
支配者は、たくさんの住みやすさを持っていて、住みにくさはほとんど感じていない。それは、土地との結びつきが希薄であるということだ。生物学的に、すでに土地(環境)から遊離してしまっている。
すべての生き物は、住み着くためのぎりぎりの能力で住み着いている。余力を持って住み着いている生き物などいない。だから、トラや白クマのような強い生き物でも、ちょっと環境の条件が劣化すれば、たちまち絶滅危惧種になってしまう。
すべての生き物がぎりぎりの能力で生きているから、生物多様性が成り立つ。
言いかえれば、それほどに環境に依存し環境と結び付いて生きている。
環境から生かされている、ともいえる。
住み着くとは、そういうことである。
庶民は、土地(環境)に依存し、土地に生かされて生きている。彼らは、ぎりぎりで生きている。けっして住みやすいわけではない。住みにくさの嘆きも引き受けてぎりぎりで生きている。そういうものたちが住み着くのだ。そうやって、土地と深く結び付いている。
楽して生きているわけではない。
楽して生きているものたちは、いずれ土地から離れてゆく。
封建時代の武士たちは、日本中を移動して一か所に住み着くことはなかった。農民のようにぎりぎりで生きていなかった彼らは、先験的に土地から遊離した存在だった。支配者として安楽な暮らしが約束されていて、住みにくさの嘆きを持っていなかった。彼らが庶民のように住み着いていかなかったのはもう、生物学的必然だった。
楽して生きることができる「知能」が住み着かせるのではない。
ぎりぎりのところで生きながら土地(環境)と深く結び付いてゆくことが、住み着くという行為なのだ。
ネアンデルタールは、絶滅の危機と背中わせで住み着いていた。住み着くとは、そういうことなのだ。
楽して生きることのできる文明を獲得していった人類は、より厳しい土地へ土地へと移動しながら住みついてゆき、その結果としてより高度な文明を獲得していった。
文化や文明は、絶滅の危機をくぐらなければ生まれてこない。
知能が高ければ住み着けるというものではないのである。
土地(環境)と深く結び付いてゆく歴史はどのようにしてつくられているか。
ぎりぎりの状態で「嘆き」とともに生きているものたちによって、そういう歴史がつくられるのだ。それが、生き物の必然である。
人間の歴史といえども、そういう生き物としての与件とまったく無縁ではない。
あんまり知能知能としゃらくさいことを言うもんじゃない。そんな連中に人間の歴史の何がわかるものか。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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