「村上春樹にご用心」だってさ・1

最近、内田樹氏のそういう村上春樹論の本が出て、それを高く評価していた友人がいたので、僕も買って読んでみました。
僕も、村上春樹の小説は、大好きです。川端康成村上春樹の本なら、いつどんなときでも時間を忘れて読んでしまうことができる。そういう極めて上等な料理のような対象です。
だから、内田氏の村上文学に対する賛辞にも同意しないわけではないのだが、この本は、僕にとってけっして楽しい読み物ではなかった。
いままで、内田氏の著書は、3冊ほど読んだことはあり、確かにおもしろく上手な書き手だと思うが、どうも生理的になじめないところがある。
その、説得の巧みさは、正直言って、どこかうさんくさい。
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たくさんの小文を集めて編纂された「村上春樹にご用心」のハイライトは、なんといっても、高名な批評家であると同時に東大の総長でもあるあの蓮実重彦大先生の村上春樹批判を完膚なきまでに粉砕してみせている個所にあるのだとか。
そうなんですかねえ。僕は、この粉砕の仕方にこそ、内田氏のうさんくささを感じてしまう。
とりあえず、その部分の前説からを引用してみます。
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『すばる』の蓮実重彦の発言を見せてもらったけど、すごい。
村上春樹作品は結婚詐欺だ」(そのときだけは調子のいいことだけを言って読者をその気にさせるが、ようするにぼったくり)というのは、批評というよりほとんど罵倒である。シンポジウムの締めでの蓮実の結論は「セリーヌ村上春樹ならセリーヌを読め、村上春樹を読むな」というなんだかよくわからないものであった。別にセリーヌも村上も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。そもそもある作家を名指しして「こいつの本は読むな」というのは批評家の態度として、よろしくないと思う。「まあ、いいから騙されたと思って読んでご覧なさい。私のいうとおりだから」という方が筋じゃないのかな。
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一読しただけでは、誰も文句をさしはさめないようなごもっともな書き振りです。それに、読ませ方も、僕なんかかなわんなと思ってしまうくらい、ちゃんと心得ている。さすが、プロだ。
しかしほんとうに、そんなふうにいうのが「筋」なのだろうか。なるほどごもっともだけど、僕は、認めたくない。
もちろん蓮実氏ともあろう人がずいぶんあさましいもの言いをするものだとは思わなくもないが、内田氏のその筋論だって、僕からしたらずいぶん変だ。
やさしいようで、この言い方は傲慢だ。「私の言うとおりだから」なんて、おまえも俺と同じように判断しろと迫っているのと同じじゃないですか。そして、読者を自分と同じ判断に引きずり込むことができると思っているのだとしたら、それは、読者をなめているからだ。文章のテクニックで、他人をたらしこめると思っているのが、批評家なのか。そういう態度は、蓮実氏の言う「そのときだけは調子のいいことを言って他人をその気にさせる結婚詐欺」と同じではないのか。
俺の言うことを聞けばおまえも俺と同じように判断するはずだ、と決めつけることなど、僕にはとてもできない。他人は、けっして自分のいう通りにはならないし、他人がなんと思おうと他人の勝手だ、と思っている。だから、お願いだらおまえもそう思ってくれとすがりつくことはあっても、内田氏のようにはとてもじゃないがよう言わない。
批評とは、万人に共通する判断基準を提出することか。そんなことは絶望的に不可能なのだ、と僕は思っている。僕には、誰も説得できないとほとんど絶望しながら、勝手に「俺はこう思う」とわめき散らすことしかできない。そのあげくに、「置換説の研究者なんかみんなあほだ」とののしっているだけです。
内田氏は、僕なんかと違ってとても頭のいい人だから、他人を説得できると思っている。まあ大学教授なのだから当然そうなのかもしれないが、他人を説得するのがこの人の生きる流儀であるらしい。
「私の言うとおりだから」とこの人に言わせているのは、この人のやさしさというより「権力欲」であり、結婚詐欺とそっくりな権力欲なのだ。
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内田氏にしても、村上春樹にしても、この「社会」や「人間という制度」に追いつめられたことがないのだろう。そりゃあ、彼らのように、おしゃれなイメージが浮かぶ知性やセンスがあって、おしゃれに生きてゆく能力があれば、この生にうんざりすることも、うんざりしつつ生きてあることの狂おしさも、そうはないでしょう。
僕にはある、といっているのではないですよ。この世の中には、そういう生のかたちを持っている人がいる、ということです。そして、そういう人がいるということを村上春樹は知っていて、内田氏は村上春樹ほどには知らない、ということかもしれない。
内田氏は、いい生き方があると思っている。そして村上春樹がそういういい生き方を書いている、と思っている。
いい生き方なんか、あるものか。どんな生き方をしようと、誰もが、そんなふうにしか生きられなかったという一回きりの生の「結果」を残して死んでゆくだけだ。思うように生きたのであれば、思うようにしか生きられなかっただけのことだ。誰にとっても、「そんなふうにしか生きられなかった」という結果が残るだけのことだ。
「いかに生きるべきか」とか「いい生き方」を問うのが文学なのか。そんな文学などいらない。生きてあることそれじたいを問うのが、文学でしょう。小説のなかの小説であるドストエフスキーのそれは、どんなふうに生きればいいのかということなど、何も書いていない。そんなふうに生きてしまう生のかたちを書いているだけです。そういう迫力というか小説としての存在感が、はたして村上春樹のそれにはあるのかと問うて、みんなあれこれ語っているのではないのですか。そのひとつが蓮実氏の意見だし、内田氏の意見もある。でも僕は、どちらも、いまいちピンとこない。
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この本で内田氏は、村上春樹の小説の価値を、あれこれ列挙している。しかしそうやって「価値」として小説を語るのは、三流の批評家のすることだ。
ロラン、バルトは「作者は死んだ」といった。作者のすばらしさや偉大さなど、語りようもないことなのだ。その小説の読書体験を語ることは、それによって読者が(この生の)何を認識し自覚したかを語ることだ。そこのところで僕は、内田氏の村上春樹論にはおおいに不満がある。
まず、村上春樹の小説は、世界中で翻訳され、世界的な人気がある、だからすばらしいのだという。しかし、僕がビートルズを批判するように、世界中に人気があるからこそいかがわしいのだ、という意見も、そりゃあ出てくるでしょう。それを、村上春樹の小説のすばらしさの根拠にされても、かんたんには納得できない。だからといって、そこに村上春樹の小説のいかがわしさがあるのだというつもりはもうとうないが、そんなことを必要以上に振りかざすのは、三流の批評家のすることだ。
では、内田氏による村上文学の読書体験とは、どんなものか。
村上春樹の世界性は、「いかにして共同体が立ち上げられ、いかにして崩壊していったか」ということを繰り返し語っていることにあり、それこそが世界共通のテーマ(主題)なのだ、と内田氏はいう。
その通りです。しかしこんなことは、そのへんのエロ小説のテーマでもある。男と女が出会ってホテルに行く、それは、共同体が立ち上げられることです。そしてセックスをするという行為は、たがいの観念世界における共同体が崩壊してゆくカタルシスを得ることにほかならない。勃起するとは、共同体が崩壊して、すなわちみずからの日常を縛る共同性から解放されて、他者の身体の存在に驚きときめくことだ。「ハードボイルド・ワンダーランド」における共同体の崩壊のイメージは、男が勃起したり、女がオルガスムスの声を上げることにだってある。
「いかにして共同体が立ち上げられ、いかにして崩壊していったか」ということなど、すべての小説、いやすべての表現行為のテーマであるのかもしれない。したがって、そんなことが語られていることなどなんの自慢にもならないし、そのテーマを村上春樹の小説にしか見出せないのは、読者としてたんなるイメージ貧困の証しであり、それが結論だというのなら、そんなものはたんなる思考停止にすぎない。蓮実氏はきっとこういうだろう、「君にはもう、そこから先に分け入ってゆく思考力はないのか」と。
テーマ(主題)なんか、誰だって持っているのだ。問題は、それがどう語られているかということにある。
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村上春樹の小説の「世界性」の根拠として、村上文学は「宇宙論」であるとか「死者の書」であるとも言っています。こういうことも同じで、だからえらいというものでもない。
「ハードボイルド・ワンダーランド」で村上春樹がほんとうに死者の世界のことを語っているのかどうか、わからない。誰だって個人的なイメージ世界では、この社会が歪んで見えたり、この社会から遊離してしまったりすることはある。恋をすれば、世間の誰もがブスだという女が、世界一の美女に見えてしまったりするのだ。村上春樹が一見死者の世界のように書いていることでも、つねに用心深く「歯ブラシ」とか「ドーナツ」とか「コンセント」とか「契約書」とか、そういう現実の手ざわりのある小道具がちりばめられている。そこに書かれた世界は、おそらくこの生の他界ではなく、共同体の他界なのだろうと思えます。そういう場面になればなるほど、いかに彼が用心深く「死」という言葉を使わないようにしているかということはあるじゃないですか。
僕は、村上春樹の小説を、「死者の書」だと思って読んだことは一度もない。知らない町でふと迷い込んだ袋小路で見上げた月が、いつも見ている月とはまったく違うものであるように思えるときがある。べつに死者になったつもりもないが、自分がこの世界の外にいるような、まあ、そんな体験の物語として読んでいる。
村上文学の魅力は、精神の病(やまい)をおしゃれに書いてみせてくれることにあるのかもしれない。精神の病は、世界の先進国共通の問題ですからね。先進国で生まれる精神の病。村上文学は、精神の病を否定しようとする制度的な思想に対するアンチ・テーゼという機能を持っているのだろうか。共同体にうまくフィットしている限り、人は精神を病むことはない。しかし先進国の人々は、誰もがどこかしらに精神の病を抱えて生きている。そんなところで、村上文学が読まれているのだろうか。
しかし、精神の病と死の恐怖との関係とか、この問題をつついてゆくと、話がどんどんややこしくなってしまうから、今はやめておきます。
まあ、村上春樹の小説が「死者の書」であってもいいです。僕としては、死者の書であって死者の書ではないというか、そういうややこしいところがいいたいわけで、うまく説明できる自信がありません。
ようするに内田氏が、村上文学がすばらしいと説く根拠は、世の中に有用な書である、だから価値がある、というわけです。そういういやらしい言い方が、どうも好きになれない。世間一般の人がそう言うのにいちいち目くじらを立てていてもしようがないが、哲学者としても有名な内田氏ともあろう人がどうしてそんなことを言うのか、という疑問がある。
村上春樹の小説には、人が生きてゆくことにはなんの意味も価値もないということがよく表現されている、といっておきながら、村上春樹の小説そのものには深い意味や価値があるという。その矛盾。こういう言い方は誠実じゃない。ようするに、この人の品性はこのていどだ、ということでしょう。この人の語る真実なんて、口先だけなのだ。口先だけで人をたらしこむことがおそろしく上手で、口先だけで人をたらしこもうとする意欲が満々なのだ。
世の中に役に立つことをしようなんて、ただの権力欲じゃないですか。あなたは、そうやって世の中や人の心をいじくりまわしたいのか。僕は、世の中の役に立っているからえらいともなんとも思わないし、世の中に対してそんなことしなければならない義理は誰にもないのだ、と思っている。