「村上春樹にご用心」だってさ・2

読者が、村上春樹の小説からイメージする世の中に対する役に立ち方は、とてもおしゃれであるらしい。
それを、内田樹氏は、「村上春樹にご用心」という本の中で、次のように解説してくれる。
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 私たちの世界にはときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」が入り込んできて、愛する人たちを拉致してゆくことがある。だから、愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、境界線を 見守る「センチネル(歩哨)」が存在しなければならない・・・・・・というのが村上春樹の長編の変わることのない構図である。
(・・・中略・・・)
 彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による解決も期待できない。センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。それは、『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、とくべつな対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙々とやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々と積み重ねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
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まず、内田氏の解釈する「猫の子を万力で潰すような邪悪なもの」とは、次のようなことであるのだとか。
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 愛情のない両親に小突き回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、馬鹿で利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、ふいに死病に取り付かれること・・・・・・数え上げたらきりがない。
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君たち庶民にわかるように説明するなら、まあこういうことだよ、ということでしょうか。しかしそういうことを一生体験しない人だっているわけで、村上春樹の小説が「根源的な物語」であるというのなら、そのことが象徴する「邪悪なもの」は、もっと根源的で抽象的なことでしょう。たとえば生きてあることの不可解さややりきれなさは、誰の中にもある。生きてゆくことは、死んでゆくことだ。そういうこの生の根源的な不条理、というようなものが「猫の子を万力で潰すような邪悪なもの」であるのではないだろうか。
その悲惨な猫の死を語った「鼠」という人物は、現実的にはけっしてそういう事態に直面しているわけではない。それでもどんどん追いつめられ、ついに現実世界から消えていってしまう。
死にたくなくても、誰もが死んでゆかなければならない。死ぬことは気が変になるくらい怖いことであり、それでも人は、死んでゆかねばならない。人間が「存在」とか「自己」とか「時間」とか、そういう概念を持ってしまったことは、猫の子が万力でつぶされるのと同じくらい残酷なことだ。われわれは、そういう概念を駆使して、人生を組み立ててゆく。しかしそれは、「死の恐怖」という雪が人生の屋根に積もってゆくことでもある。だから、それを人知れず取り除いておいてやる仕事を誰かがやらねばならないわけで、それが文学である、ということでしょうか。
文学は、スポーツや音楽のような娯楽でもなければ、政治のように直接人々の暮らしに利益をもたらすものでもない。それでも、そういう「邪悪な」運命に押しつぶされそうなこの生に救済をもたらす機能は文学にしかないのだ、という認識が村上春樹にはあるのかもしれない。
いい社会になれば、人は必ず救われるというものでもない。それは、それぞれの観念世界でしか解決されない。そのための「雪かき仕事」が文学なのだということだろうが、それを上のような人生の具体的な出来事で解説するのはしかし、親切なようでいて、何か人をなめている感じがある。
それとも、内田氏じしん、本気でそう考えているのだろうか。
同様に、「雪かき仕事」は「家事」に似ている、という。
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 家事は、「シジフォス」の苦悩に似ている。どれほど掃除しても、毎日のようにごみはたまってゆく。洗濯しても洗濯しても、洗濯物は増える。そこに秩序を維持するためには、絶えざる家事行動が必要である。少しでも 怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。洗面所の床を磨きながら「センチネル(歩哨)」ということことばを思い出す。人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っ ぷちに立って毎日数センチづつじりじり押し戻す仕事。家事には、「そういう感じ」がする。とくに達成感があるわけでもないし、賃金も払われないし、社会的敬意も向けられない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」していないと、人間的秩序は崩落してしまう。
(・・・中略・・・)
 家事は、とてもとても大切な仕事だ。自分でお掃除や洗濯やアイロンかけをしたこともなく、「そんなこと」をするのは知的労働者にとっては純粋に時間の無駄なんだから、金を払って「家事のアウトソーシング」をすれば いいじゃないか・・・・・・というようなことを考えている「文学者」や「哲学者」たちは「お掃除するキャッチャ ー」の心に去来する涼しい使命感とはついに無縁である。
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内田氏は、とてもとても家事が好きで、自分の仕事場の掃除も自分でやるのだとか。それはまあ本人の自由なのだが、なにもそこまで大げさに自慢たらしく言うこともないだろう。「少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵に接近する」ということは、怠らずに家事をしているかぎり「カオスの淵」には近づかない、ということです。「崖っぷち」に立たないために、家事をするのでしょう。どうしてそれが、「カオスの淵」や「崖っぷち」に立たされている「センチネル(歩哨)」と一緒の仕事になるのか。
戦士は、好きで「センチネル(歩哨)」をやるのではない。やらされるのだ。ギリシア神話の「シジフォス」だって、刑罰として「山の上から転落してくる岩をまた押し上げる」ということをやらされているのです。
内田氏の家事は、誰にやらされるのでもなく、好きでやっているだけじゃないですか。それは、家の中が汚れるのが、すなわち「カオスの淵」や「崖っぷち」に立たされるのがいやだからでしょう。そういうところに立つまいとする強迫観念であり、そういうところに立っていない自分を確認するナルシズムにすぎない。「センチネル(歩哨)」でも「シジフォス」でもなんでもない。
部屋の中が収拾つかないくらいのごみの山になった状態で暮らしている、それでもまだ生きている、というのなら、たしかに人間の生き方における[センチネル(歩哨)]の仕事になっているかもしれないが。
「カオスの淵」に呑み込まれたっていいではないか。この生のカタルシスは、そういうところでこそ体験されるのだ。内田氏は「こういう仕事をまったく体験しないまま一生を終える人間は、「何か」に触れ損なったことにはならないのだろうか」という。その言い方のいやらしさ。そんなものはただの我田引水のナルシズムにすぎない。そうやって自分を美化しているだけじゃないか。「カオス」に呑み込まれてにっちもさっちもいかなくなった体験を持たない人間に、この生のカタルシスの何がわかるものか。あなたこそ「何かに触れ損なっている」のだ。
「涼しい使命感」だって?笑わせてくれるじゃないか。涼しかろうと暑苦しかろうと、「使命感」などというものは、この世界をいじくりまわそうとする「権力欲」の別名にすぎない。そんな言葉を特権化しようなんて、悪い趣味だ。
権力における世界の「秩序」を収穫する醍醐味は、洗った服をたたんだりアイロンをかけたりすることでも体験できる。よく働く主婦は権力者だ、と言えば、なんだか村上春樹の小説の登場人物が吐くせりふみたいじゃないですか。
この世界の「邪悪なもの」からいじくりまわされている人間には、「使命感」とやらにうつつをぬかしている余裕はない。われわれがこの世に生まれてきたことは、ひとつの「刑罰」なのだ。しかし、そうやってこの世界の運命という「カオス」に呑み込まれることにこそ、この生のカタルシスがある。「シジフォスの神話」や「異邦人」を書いたカミユは、そういうことを言いたかったのではないだろうか。
「異邦人」の主人公である死刑囚・ムルソーは、死刑という「崖っぷち」から彼を押し戻そうとする司祭に対して、よけいなお世話だと拒絶する。人間はかくあるべきだと繰り返す、司祭によるその制度的でステレオタイプなお説教は、使命感でやるアイロンがけに似ている。
しかし、じっさいの家事なんて、しょうがなくやるものだ。それが家事のプロ意識であり、主婦が家事の役目を負わされることだって、人間という制度によってもたらされるひとつの「刑罰」にほかならない。たいていの主婦は、刑罰だと思ってしょうがなくやっている。刑罰だからこそ解放感もあり長続きもするのであって、使命感でやっていたら、くたびれるだけじゃないですか。夫婦げんかをしたり、言うことをきかない子供に手を焼いている主婦が、使命感でそんなことをやっていると思いますか。そういうわずらわしいことから逃れていっとき刑に服する解放感というのはあるでしょう。
そのとき彼女は、家事がしたいわけでもないし、するべきだと思っているのでもない。するしかないから、やっているだけだ。しかしそれは、「したい」とか「するべきだ」と思うスケベ根性(=使命感)に煩わされる強迫観念から解放されている状態にほかならない。
「このように生きたい」とか[このように生きるべきだ]と思っても、たいていの人の人生はその通りにはなってくれない。自由の身だからこそ、そんな考え(=使命感)にとらわれてしまう。だったらそんな考え(=使命感)を持つことを奪われてある奴隷や受刑者のほうが、むしろ解放されてあるのではないか。そんなことが、「シジフォスの神話」に書かれてある。
家事をしている自分にうっとりしている哲学者なんて、悪い冗談だ。そうやってこの世界の秩序をまさぐりながら、あなたは、人間の闇=カオスというものから目をそらしている。したがってこの生のカタルシスも知らない。使命感で家事をやるということは、秩序をまさぐることに後ろめたさがない、ということだ。だから、そんなふうに人をたらしこもうとするようなことばかり言っていられるのだろう。
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 世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なるふるまいなのである。
 仕事はきちんと真面目にやりましょう。衣食住は、生活の基本です。家族は大切に。言葉づかいはていねいに。というのが、村上文学の「教訓」である。それだけだと、あまり文学にならない。でもそれが「超越的に邪悪な もの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的オーラを帯びるようになる。(・・・中略・・・)ともあれ私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友達に電話をしたりするのである。それはとってもとってもとっても、大切なことだと私は思う。
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まったく、あの俗物の「司祭」が言うことと同じではないか。
この世で最低最悪の仕事をいやいや泣きながらやっている人間に対して、あなたは「仕事は真面目にやりましょう」といえるのか。そりゃあ真面目にやったほうがいいに決まっているが、われわれが仕事をすることは、この社会に生まれてきたことのひとつの「刑罰」なのだ。
衣食住は確かに生活の基本だが、そんなことに執着するフェチズムによってわれわれは救われるのか。そこに、この生のカタルシスがあるのか。この生のカタルシスは、生きてあることそれじたいにある。衣食住という生活の基本を奪われても、生きてあればカタルシスはあるのだ。そして「異邦人」のムルソーは、究極のカタルシスは、刑罰として死んでゆくことにある、と言っている。生きてあることの価値なんぞをぐたぐた並べ挙げるよりも、生きてあることが刑罰なのだということを深く認識すること、そこにこそ救いがあるのだ、というのがこの小説でカミユが言いたかったことなのではないだろうか。
家族は、あったほうが便利だが、大切なものであるのかどうかはわからない。家族を大切にしている人間が、家族を持たない人間より優れているとは、僕はぜんぜん思わない。話せば長くなるが、家族は「権力」が発生する場でもあり、家族を大切にするものほど権力欲が強いという一面もある。
僕は、村上文学から、そんな「教訓」を受け取ったことは一度もない。むしろそういう事柄の喪失感覚として、そういうことがおしゃれに書かれてあるのだと思う。喪失感覚を持っているから、おしゃれに書けるのだ。
つまり、それらの事柄は、用心しないと俗物根性の発生源になってしまうのであり、喪失しているくらいのほうがちょうどいいのだということを、僕は、村上文学の「教訓」として受け取っている。
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村上春樹の小説の次の場面は、村上春樹じしんにとっても内田氏にとっても、けっこうお気に入りであるらしい。それを、最後に紹介しておきます。
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「おやすみ。」と鼠は言った。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。」
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生きることになんの意味も価値もないのだ、仕事も衣食住も家族も、すべてどうでもいい、生きていればいいだけのことだ、それだけで、それだけだからこそ、そこにカタルシスがもたらされるのだ・・・・・・そういうことに村上春樹は深く気づいてしまったし、内田氏は、そこから自分に都合のいい「教訓」をさまざまに引っ張り出して、人をたらしこむ言説を撒き散らしている。