ネアンデルタール論B

5万年前、北ヨーロッパのネアンデルタール人には、北ヨーロッパで暮らすことの流儀があった。 同じころ、アフリカのホモ・サピエンスには、アフリカで暮らすことの流儀があった。 その流儀の違いを無視して、知能さえ発達していればどちらで暮らそうと勝者…

たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を祝福し共有してゆくこと、これが、直立二足歩行の開始以来の人と人の関係の基本のかたちである……と、このページでは繰り返し書いてきた。 空間を祝福するとは、空間がふくらむこと。どうやら人間は、そういう空間感…

ネアンデルタール人の社会に宗教はあったのか。これも、気になる問題であり、空間意識の問題でもあるのかもしれない。 彼らに、「あの世」という意識はあったのか。 人間は、「非存在の身体の輪郭」を強く意識している。したがって、「非存在」の「他界」の…

貨幣の根源的な機能は、「等価交換」にあるのではなく、「流通性」にある。 人々のあいだを行き交うから、お金なのだ。等価交換であろうとあるまいと、そんなことはどうでもよい。 貨幣の起源において、等価交換という機能はなかった。 といっても僕は、経済…

ネアンデルタール人もクロマニヨン人も、交易(=物々交換)などしていなかった。 物々交換などという行為は、氷河期が明け、共同体が生まれて人々の意識が変わり、それからの話ではないだろうか。 「交換」という行為自体が、けっしてかんたんではない。猿…

人間は身体の「孤立性=完結性」をことのほか切実に持っている。これが直立二足歩行の起源において獲得された空間意識だ。 そしてその「孤立性=完結性」は、集団の中ではじめて確認される。人間はそれを確認したいからこそ、それが確認できるかどうかの限界…

人間の集団性が本格化してきたのは、数十万年前のネアンデルタール人のころからである。 彼らは、物理的な空間だけでなく、たがいの身体のあいだの空間に音声を投げ入れ合うという行為、すなわち「言語」を発達させることによって、さらに密集してもたがいの…

このブログでは前回、われわれは「身体は勝手に動く」という直感を持ってしまいがちだがそれは違う、と書いた。 そして、意識が発生することも身体が動くことも「空間がある」ということが前提になっている、といったのだが、それは「直感」以前の問題だ。 …

生き物の身体は、先験的に空間との関係の中に置かれて存在している。この関係を携えて意識が発生する。 意識がなくても身体は動くか?つまりわれわれの身体は、意識とは無縁に動く仕組みを持っているのか? そういう仕組みを持っているように感じられる。身…

視覚や聴覚が空間意識をつくるのではない、先験的な空間意識が視覚や聴覚のはたらき方を規定しているのだ。そこのところの想像力のない人に何をいってもしょうがない。 人間の「空間」の感じ方は、ただ二次元的な距離や広さとか、三次元的な空気の広がりのこ…

われわれは、知らず知らずのうちに目や顔を動かしてまわりの景色を眺めている。これもまた身体運動であり、先験的に空間を認識しているように思いこんでいても、じつはそれ以前にそういう身体運動をしている……という反論もあるのかもしれない。 しかし僕が「…

この世に天国や極楽浄土や生まれ変わりの教えがあろうとも、われわれはひとまず、死ぬことはこの世界から意識も体も消えてしまうことである、と思っている。 誰もが漠然とそんなイメージを抱いて死を怖がってしまうからそういう死後の世界のイメージが紡ぎだ…

生き物であることの根源的な与件は「動く」ということにあるのかもしれないが、われわれは「身体を動かす」という「未来」を共有して存在しているのではないし、動くことによってこの世界の「空間」を認識しているのでもない。 生き物にとって動くことはたん…

人の空間意識を考えるなら、「歩く」ということは重要なテーマだ。 とはいえ、歩くことによって空間を認識するのではない。すでに空間を認識しているから歩くことをする。ここのところは大事だ。ここのところは譲れない。譲れば、僕が今まで考えてきたことは…

たぶんこのブログに書いてあることの多くは、世の中の常識を無視した思考の上に成り立っている。 「そんなことあるものか」と思うことがたくさんある。 というか僕には、世の中の常識というものが、よくわからないのです。 僕は現代のこの世界に生きている人…

僕は、この世界の空間を認識するのに身体など関係ない、と言っているのではない。 「身体運動」ではなく、「身体空間のパースペクティブ」を物差しにして、「広い」とか「狭い」とか「高い」とか「低い」とか「大きい」とか「小さい」とか「遠い」とか「近い…

承前 われわれはまず胎内空間で空間意識を持つ。 それは、どんな空間なのか。 みずからの身体と羊水との境界は自覚されているだろうか。 すでに生き物として生きはじめているのだから、それはきっとわかっているのだろう。 胎児は、すでにみずからの身体の輪…

またまた、横道にそれる。今度は、大いにそれる。差し当たってはネアンデルタール人のことと関係ないのだが、もしかしたらこの道でネアンデルタール人のところに戻ってくることができるのかもしれない、と思わないでもない。 「哲学はなぜ間違うのか」という…

「人間とは何か」という問いを、僕は直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のところから考えはじめた。 しかしそれだけではまだだめで、科学者が宇宙の成り立ちについて考えているように、われわれもせめて、生き物の起源のところから考えはじめるべきであ…

なぜネアンデルタール人なのか。 僕はネアンデルタール人を、地球上から滅んでしまった人々としては考えていない。 純粋なアフリカ人以外の現代人の誰の中にもネアンデルタール人の血は流れている。これは、最近の遺伝子研究で明らかにされたことである。 現…

人との関係がうまくつくれないとかコミュニケーションが取れないことは、精神医学ではいちおう「病理」だということになっている。 しかし人間は、もともとコミュニケーションの成り立たない関係をつくろうとする習性を持っている。だから、その治療が困難に…

最近ドイツで、1万5千年前の石に描かれた抽象画が見つかった、と報じられている。 1万5千年前といえば、氷河期のクロマニヨンの時代である。 それは、点線だけが描かれてあるのだとか。 研究者たちはこれを、何か象徴的な意味があるのだろう、と騒いでい…

人と人の関係の基本は、「一緒にいることの充足」ではなく、「出会いのときめき」にある。 人間は、たとえ一緒にいても、そこから「出会いのときめき」を感じ合う関係の作法を持っているから、かくも大きく密集した集団でさえ受け入れることができる。 直立…

人類の歴史はまず、自分を忘れてひたすら他者の存在にときめいてゆくところから猿のレベルを超えて大きく密集した集団を生み出していった。それがネアンデルタール人の時代であり、ネアンデルタール人を問うことは、人間の集団性や人と人の関係の根源を問う…

内田樹先生は、ヘーゲルの言葉を引用しながら「人間とは自己意識であり、労働は自己を確認する行為である」といっておられる。 しかしねえ、いったい、どんな自己を確認するのか。 自分はこの社会の一員であるとか、自分は世のため人のために役立っている存…

この身体は神の入れ物である……氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人には、おそらくそのような意識があった。 彼らの世界に「神」という概念があったのかどうかはわからないが、極寒の空の下で凍えて震えているだけのみずからの身体の状態とひとま…

「私は人のために生きている。それが私の生きる励みになっている」……たとえば内田樹先生とか役所などに勤めている善意の人はよくこんなことを言うわけじゃないですか。それが人間のまっとうな生き方だ、と。 じゃあ、人に迷惑かけるばかりで勝手に生きている…

集団的置換説、3万年前にヨーロッパのネアンデルタール人は滅んで、アフリカからやってきたホモ・サピエンスが住み着いていった……つい2,3年前まで、日本では誰もがこんなことばかり言っていた。 だから、現在の本屋に出回っている日本人が書いた「ネアン…

ネアンデルタール人やクロマニヨン人は、どのように「死」をイメージしていたのだろうか。 彼らがわれわれ現代人よりも死を怖がっていたということはあるまい。 彼らにとって死は、とても身近なものだった。半分以上の子供が乳幼児の段階で死んでいったし、…

誰もが無意識として他者の存在そのものに対する自然なときめきがあれば、その社会においては、現代人のように、愛されたがったり、「自分は愛されているか」と問う必要はない。 どうして愛されたがるのか。人と人は「すでに」愛し合っている、という前提のな…