「私は人のために生きている。それが私の生きる励みになっている」……たとえば内田樹先生とか役所などに勤めている善意の人はよくこんなことを言うわけじゃないですか。それが人間のまっとうな生き方だ、と。
じゃあ、人に迷惑かけるばかりで勝手に生きているだけの人間は生きる資格がないのか。人の役に立たない人間は生きていてはいけないのか。まったく、何をくだらないことをほざいているのだろう。僕は、そういうスケベなエリート根性が大嫌いなのですよ。
私は人の役に立っている「いい人」だという、そのナルシズムがおまえを生かしているのか。べつに、人のために生きていなくてもいいじゃないか。「いい人」じゃなきゃ、生きる資格がないのか。この世のほかの人間は、お前が「いい人」であることを確認するために存在しているのか。
おまえの住民奉仕なんか、おまえの好きでやっているだけのことじゃないか。「人のために生きている」なんて、そんな恩着せがましいことを言うなよ。
おまえに奉仕してもらっている人間は、おまえに奉仕させてやっているんだぞ。おまえだって人に生かしてもらっているだけじゃないか。
人を生かしているといっても、人に生かしてもらっているといっても同じことだ。そういう人格者ぶった人間賛歌はくだらない。生きることは、そんなに素晴らしいことか。生きてあるという事実はそれなりに重いものだが、素晴らしいかどうかはわからない。おまえらがそう思いたくて、勝手にそう決めつけているだけじゃないか。それが生きてあることの真実だとは、僕は思わない。
誰もがおまえらと同じように、生きてあることはすばらしくて大切なことだ思わなければいけないのか。よくそんなくそ厚かましいことが言えるものだ。
何はともあれ、この社会でみんなで生きているのだ。その事実があるだけじゃないか。
病床のもうすぐ死んでゆく人間は、誰の役にも立っていない。「生きていてくれ」というまわりの期待を無残に裏切っているだけの存在だ。それでもその人がまだ「生きている」という事実の重みはあるだろう。そしてその人が死んでゆくという事実は、さらに重いものにちがいない。
人のために生きようと生きるまいと、どっちでもいいだろう。「生きている」という事実があるだけじゃないか。その事実の重みというものがあるだろう。そして「死んでゆく」という事実の重みがあるだろう。
そういう事実の重みが、人間に「神」という言葉に気づかせ、「たましい」という言葉を生み出させた。
僕は「神」も「たましい」もあまり興味はないが、そういう言葉を生み出させた「事実の重み」については考えずにいられない。
人間の文化は、生きることの大切さを止揚する装置として生まれてきたのか。そうじゃない、「神」という言葉も「たましい」という言葉も、生きてあることの嘆きから解放される装置として、すなわち生きてあることそれ自体から解放される装置として生まれてきたのだ。文化とは、そういう装置なのだ。
人を生かしているとか、人に生かされているとか、そんな言い草は、少しも文化的じゃない。
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生きてあるという事実は大切だ、といっているのではない。人間にとってそういう事実は重いものにちがいない、といっているだけだ。
べつに、生きることは大切なことでもない。ただ、人間としてそういう事実に気づいてしまうことのしんどさというのがあるわけじゃないですか。
おまえらは、自分を「いい人」だと思えばそれだけで生きてゆけるのか。けっこうな人生だこと。
「自分」とか「生きること」とか、そういうことの「大切さ」で生きているのか。おまえらはそれを「大切なこと」として生きられるのかもしれないが、この世の中には、どうしてもそれらが「大切なこと」だとは思えない状況に置かれて生きている人がたくさんいる。おまえらより弱くてみじめな存在の人たち、そしておまえらほど脳みそが単純で薄っぺらでない人たちは、そんな安っぽくスケベったらしい価値意識では生きていられない。
彼らは、ただもう、自分が生きてあるという「事実」に怖れおののいている。
そんな彼らのことを思えば、僕はもう、「自分」とか「生きること」を大切なものだと合唱していい気になっている連中に対してはもう、「おまえらアホだなあ」というしかないわけですよ。
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生きてあるという事実はしんどくて重苦しいものだ。
この生は、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか空腹だとか、自分(の身体)に気づかされることの居心地の悪さからはじまっている。われわれは、そうやって生きてあるという事実に気づく。生き物にとってその事実は、重いことであるにせよ、大切なことでもなんでもないのだ。
つまり、そうやって自分(の身体)に貼りついている意識を引き剥がすこと、すなわち生きてあるという事実の重みから解放されることが、この生のいとなみになっている。
意識は、身体に対する異和感(嘆き)として発生する。われわれは、自分に気づくことの苦痛をトラウマとして持っている。それは、ほんらい鬱陶しいことなのだ。人間性の基礎は、そのようなところにある。そこから、自分を忘れて解放されてゆく装置として、人間的な「文化」が生まれてきたのであり、そこにこそ生きてあることのカタルシス(快楽)がある。
自分は人のために生きているという、その自分を確認してゆくことが人間の本性でも、人間の文化の基礎的なかたちであるのでもない。
生きることは自己確認してゆくいとなみである……というような言説はよく聞くところである。人間とは自己意識であるとか、自己意識が人間を生かしている、とか。
しかし自己意識の根源のかたちは、空腹とか暑さ寒さとかの生きてあることの鬱陶しさ(異和感)を感じることにある。そうしてその鬱陶しさから解放されることは、生きてあることを忘れてしまうことでもある。この生は、そういういとなみとして成り立っている。
生きてあることは、大切なことでもなんでもなんでもない。生きてあることを確認するのではなく、生きてあることを忘れてしまうことが生きるいとなみなのだ。
生きてあることが大切なことではないのなら、「人のために役立っている」ということも大切なことでもなんでもない。
「大切なこと」を措定するそのスケベ根性がいやらしいのであり、そんな意識は人間性の根源でもなんでもない。
生きることは大切なことでもなんでもない。ただもう生きてあることの鬱陶しさがある。われわれはその鬱陶しさを先験的に負わされて存在している。この生は、その鬱陶しさを嘆き、そこから解放されたいという願いが生まれてくる。
生きることは、生きることからの解放である。したがってそれは、死ぬことでもある。死んだら楽になれる。
幸か不幸か人間は、死ぬことに対するあこがれを持っている。それは、生きることが大切なことではないからであり、大切なことではないと思うことが生きることだからだ。そしてそういうところから、人間的な文化が生まれてきた。
人間の文化は、生きることの大切さを止揚する装置として生まれてきたのではない。生きることから解放される装置として生まれてきたのだ。したがって、人のために役立っているという自意識なんか、文化でもなんでもない。
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人間にとって「神」という概念は、「人間=自分」であることから解放される装置である。
「たましい」という概念は、「生きてあること」から解放される装置である。
自分の中に神が宿っている、と思えば、自分が生きているわけではない、と思うことができる。
神が宿っているもののことを「たましい」というのなら、生きてあることに執着する必要はない。この体なんか、神の入れ物にすぎない。
神は、自分でも、自分のものでもない。「自分」という意識を持ってしまった人間は、その鬱陶しさ(嘆き)にせかされながら、絶対的に「自分のものではない」ものとして「神」を発見した。
体の中から神がいなくなってしまうことを、「死ぬ」という。死ぬことは、さっぱりすることだ。そういう生きてあることの気分を表現する装置として、「たましい」という言葉が生まれてきた。「たましい」が豊かにはたらくと、われわれは生きてあることを忘れてしまう。快楽は、そのようにしてやってくる。そういう快楽を止揚する装置として「たましい」という言葉が生まれてきた。
原始人は、「快楽」とは何だろう、と考えた。そしてそれは、自分の中に宿っている神の恩寵としてもたらされるものだ、と気づいた。
原始人は、「人のために役立っている」とか「人に生かされている」などという、じとっと「自分」をまさぐってばかりいるような「生命賛歌」などしなかった。ひたすら「神」に献身していった。そういう鬱陶しい自己意識からの解放として、人間的な文化が生まれてきた。
それは、さしあたって西洋だろうと日本列島だろうと同じなのだ。ヨーロッパのネアンデルタール人も日本列島の縄文人も、生きてあることの嘆きから文化をはぐくんでいったのであり、他者と出会っているという事実そのものにときめいていった。その快楽が彼らを生かしていたのであって、「人のために役立っている」とか「人に生かされている」とか、そんな自己満足が彼らを生かしていたのではない。
人を愛しているとか、愛されているとか、そんな自分のことなんかどうでもいいのだ。原始人は、そんなブスやブ男のりくつで生きていたのではない。
文化とは、「自分」とか「生きてあること」を止揚する装置ではない。「生命賛歌」ではない。生きてあることの嘆きから、生きてあることから解放される装置として生まれてきた。
ちょっと結論を急ぎ過ぎる書きざまになってしまったが、まあそういうことだ。
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