2011-01-01から1年間の記事一覧

またまた、横道にそれる。今度は、大いにそれる。差し当たってはネアンデルタール人のことと関係ないのだが、もしかしたらこの道でネアンデルタール人のところに戻ってくることができるのかもしれない、と思わないでもない。 「哲学はなぜ間違うのか」という…

「人間とは何か」という問いを、僕は直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のところから考えはじめた。 しかしそれだけではまだだめで、科学者が宇宙の成り立ちについて考えているように、われわれもせめて、生き物の起源のところから考えはじめるべきであ…

なぜネアンデルタール人なのか。 僕はネアンデルタール人を、地球上から滅んでしまった人々としては考えていない。 純粋なアフリカ人以外の現代人の誰の中にもネアンデルタール人の血は流れている。これは、最近の遺伝子研究で明らかにされたことである。 現…

人との関係がうまくつくれないとかコミュニケーションが取れないことは、精神医学ではいちおう「病理」だということになっている。 しかし人間は、もともとコミュニケーションの成り立たない関係をつくろうとする習性を持っている。だから、その治療が困難に…

最近ドイツで、1万5千年前の石に描かれた抽象画が見つかった、と報じられている。 1万5千年前といえば、氷河期のクロマニヨンの時代である。 それは、点線だけが描かれてあるのだとか。 研究者たちはこれを、何か象徴的な意味があるのだろう、と騒いでい…

人と人の関係の基本は、「一緒にいることの充足」ではなく、「出会いのときめき」にある。 人間は、たとえ一緒にいても、そこから「出会いのときめき」を感じ合う関係の作法を持っているから、かくも大きく密集した集団でさえ受け入れることができる。 直立…

人類の歴史はまず、自分を忘れてひたすら他者の存在にときめいてゆくところから猿のレベルを超えて大きく密集した集団を生み出していった。それがネアンデルタール人の時代であり、ネアンデルタール人を問うことは、人間の集団性や人と人の関係の根源を問う…

内田樹先生は、ヘーゲルの言葉を引用しながら「人間とは自己意識であり、労働は自己を確認する行為である」といっておられる。 しかしねえ、いったい、どんな自己を確認するのか。 自分はこの社会の一員であるとか、自分は世のため人のために役立っている存…

この身体は神の入れ物である……氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人には、おそらくそのような意識があった。 彼らの世界に「神」という概念があったのかどうかはわからないが、極寒の空の下で凍えて震えているだけのみずからの身体の状態とひとま…

「私は人のために生きている。それが私の生きる励みになっている」……たとえば内田樹先生とか役所などに勤めている善意の人はよくこんなことを言うわけじゃないですか。それが人間のまっとうな生き方だ、と。 じゃあ、人に迷惑かけるばかりで勝手に生きている…

集団的置換説、3万年前にヨーロッパのネアンデルタール人は滅んで、アフリカからやってきたホモ・サピエンスが住み着いていった……つい2,3年前まで、日本では誰もがこんなことばかり言っていた。 だから、現在の本屋に出回っている日本人が書いた「ネアン…

ネアンデルタール人やクロマニヨン人は、どのように「死」をイメージしていたのだろうか。 彼らがわれわれ現代人よりも死を怖がっていたということはあるまい。 彼らにとって死は、とても身近なものだった。半分以上の子供が乳幼児の段階で死んでいったし、…

誰もが無意識として他者の存在そのものに対する自然なときめきがあれば、その社会においては、現代人のように、愛されたがったり、「自分は愛されているか」と問う必要はない。 どうして愛されたがるのか。人と人は「すでに」愛し合っている、という前提のな…

生き物は、「生命賛歌」でこの生をいとなんでいるのではない。彼らはべつに、「生まれてきてよかった」などとは思っていない。そんな思い込みは、現代社会のたんなる制度性にすぎない。 坂道に置かれた石ころは、転がりそうな危うさの中に置かれているから転…

ネアンデルタール人は、人類がかくも限度を超えて大きく密集した集団をいとなむようになったことの先駆的な役割を果たした人々だった。 彼らは、べつに計画的戦略的に大きな集団を組織しようとしたのではない。ただもう人と人の自然で濃密な関係性が生まれて…

ヤフーのインターネットのページに、「フサエリショウノガン」という鳥の求愛行動のことが載っていた。 この鳥は、求愛行動にものすごく時間とエネルギーを費やす習性があるのだとか。 生物学者たちはもちろん例によって、オスとしての優秀さや性的能力を誇…

人類がこんなにも大きく密集した集団をいとなむようになってきた歴史は、ネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったところからはじまっている。 人間は大きな集団をつくろうとする生き物ではない。大きく密集した集団など鬱陶しいだけだが…

男と女では、セックスに対する感覚がかなり違うはずだ。 性器の構造が違うし、体のはたらきそのものだって同じとはいえないにちがいない。 何はともあれ、生き物は生殖が目的でセックスするというのは、きっと嘘だ。現在の生物学のほとんどはそのパラダイム…

僕は、大切なことを見落としていた。セックスアピールの起源について考えるなら、生き物の生殖行動のことにも触れておくべきだろう。 いきなり「嘆きを共有してゆくことだ」と結論を語ってしまうのは、ちょっと唐突すぎたかもしれない。 まず、生き物の雌雄…

このところとりとめのないことばかり書いてしまっている。 それでも読んでくれている人がいるのだから、ありがたいと思う。 直立二足歩行やネアンデルタール人のことはひとまず古人類学の問題だが、つまるところ僕は、人間の自然について考えたいのだ。この…

家族であれ、ネットワークであれ、そういうことの存在意義を説くこと自体がナンセンスなのだ。 存在意義にしがみつくことによって、その集団は崩壊してゆく。そのようにしてかつてのこの国は戦争に突入していったのだし、そのようにして戦後社会の家族は崩壊…

人と人の関係の基本は、「一緒にいる」ことの安心や充実にあるのではない。 誰だって魅力的な人と一緒にいれば楽しいだろうが、つまらない人間と一緒なら鬱陶しいばかりだ。 人間は、「一緒にいる」ことを止揚してゆく生き物であるのではない。ヒューマニズ…

心とは、拒否反応という現象である。 美しい、と感動する心の動きは、醜いことに対する拒否反応の上に成り立っている。しかしそれは、美と醜を「差異化」しているのではない。世の中には醜いものもあれば美しいものもある、と納得しているのではない。その美…

人と人はこの生に対する「嘆き」を共有して存在している。 人と人は、なぜ「嘆き」を共有したところで心や行為を共鳴し合うのだろうか。 体が動くのは、「ここにはいられない」という「嘆き」があるからだろう。心が動くのも、やはり、「今ここ」に対する「…

女は、自分と何かを共有している気配として、男にセックスアピールを感じている。 男と女の関係だって、つまりは人と人の関係だ。 人と人の関係において、生きてあるのはしんどいことだ、という「嘆き」以上に共感し合える心の動きもない。人間存在の普遍的…

「嘆き」と和解してゆく能力は、生来的に男よりも女の方が豊かにそなえている。だから、ネアンデルタール人の社会では、女に主導権があった。 ろくな文明を持たない原始人が氷河期の極寒の地で定住してゆくなら、女が主導権を持たなければやってゆけない。こ…

日本人は自我が薄く全体主義に流れやすい、などとよく言われる。そうやって戦争ばかりしてきたあげくに、お国のために命を投げ出すという思想の神風特攻隊などという無謀な作戦も生まれてきた。 現代の日本人だって、みんながちゃんと信号を守って暮らしてい…

ネアンデルタール人の社会は女の側に主導権があった、と言ってもピンとこない人がいるらしい。 現代社会の物差しで考えれば、厳しい環境であればこそ体がたくましくて食糧生産(=経済)の能力がある男に主導権があるに決まっているじゃないか、ということに…

男は、社会から人格を上書きされ、社会的な存在になってしまう。それはもう、女子供を食わせていかないといけないというこの社会の仕組みからいって、ある程度はしょうがないことかもしれない。 しかし戦後は、世の中が豊かになってそういうプレッシャーから…

ついでだから、もう少し、現代社会の問題を考えてみます。 地方で生まれ育った者が東京に出てくれば、とうぜん自分が都市生活者であることをプレゼンテーションしたくなるだろう。田舎者であることをさらさないためには、都市生活者であることをプレゼンテー…