この生を追跡する・ネアンデルタール人と日本人・27


原初の生命は、「追跡する」はたらきとして発生した。
「今ここ」のこの世界から置き去りにされた存在が「今ここ」のこの世界を追いかけてゆくのが命のはたらきである。
置き去りにされたものが追いかけようとすること、このかたちで命のはたらきや意識のはたらきが活性化する。
「今ここ」から置き去りにされたものが「今ここ」を追跡する。そして、「今ここ」と出会う。この「出会う」という体験こそ、命のはたらきの根源のかたちである。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、世界や他者と「出会う」という体験だった。この体験とともに人間ならではの心模様が育っていった。
命のはたらきの根源そのものが「出会う」という体験であり、人類はその「自然」沿って人間としての歴史を歩み始めた。
原初の人類の集団は、過密状態だった。その過密状態の中でたがいの身体のあいだに「空間=すきま」を確保し合ってゆくようにして二本の足で立ち上がっていった。四本足で這いつくばっているよりも、二歩の足で立って直立しているほうが、それぞれの身体が占めるスペースを最小限にすることができる、
そうして、その不安定な姿勢は、たがいに向き合っていることによって安定する。これは「出会い」の関係になっている状態である。また、向き合って立つことは、ともに攻撃されたらひとたまりもない状態になっていることである。それでも人類は、猿のように攻撃し合って順位争いをする関係を捨てて、たがいに弱みをさらしながらときめき合う関係になっていった。二本の足で立つ姿勢を常態化するとはそういうことなのだ。人と人の関係の基礎は、このような「出会いのときめき」がはたらいている。
原初の人類集団は、「二本の足で立っていること」と「出会いのときめき」の上に成り立っていた。まあこれが、人間の集団性の基本なのだ。



人類学者が人類拡散を考えるとき、「直立二足歩行」と「旅」ということを前提にしている。
で、前回、そうではないのだ、と書いた。
人類拡散は、既成の集団群の外に新しい集団が生まれるということの繰り返しとして進んでいったのだ。
原始時代に集団で旅をしてゆくということなど起きなかった。
人間は住み着こうとする生き物である、その生態のダイナミズムによって、どんな住みにくいところにも住み着きながら拡散していったのだ。
最初の拡散の体験は、人と人が出会ってときめき合うことにあった。何はともあれ、そこからはじまったのだ。
人と人がときめき合って暮らしてゆけるのなら、少々住みにくくてもかまわなかった。既存の集団群の外に生まれる新しい集団は、つねにもとのところよりも住みにくかったが、つねにより豊かにときめき合う関係が生まれていた。
それは、もとの集団では置き去りにされていたものたちが寄り集まって生まれてきた集団だった。彼らは、「今ここ」の世界から置き去りにされ「今ここ」の世界を追跡しているものたちだった。集団生成のダイナミズムは、そこから生まれてきた。
置き去りにされているものは、より深く豊かに「出会いのときめき」を体験する。
猿の群れから出てゆく個体は、オスもメスも、追い払われて出てゆく。自分から出てゆくというケースはほとんどない。彼らは、誰もが群れの秩序に組み込まれて存在しており、人間のように集団から置き去りにされているものは存在しない。
原初の人類の集団には、リーダーも追い出そうとするものもいなかったし、順位性という秩序もなかった。秩序ができているから追い出そうとする。しかし人類の場合は、個人が集団の秩序に縛られていなかったし、それを頼りにもしていなかった。
人類集団は、人と人を「順位性」という関係でつなごうとするのではなく、たがいの関係に「空間=すきま」をつくろうとする。そのために、どうしても置き去りにされるものが生まれてきてしまう。追い払うわけではないが、関係が必要以上に離れてしまうケースが出てくる。というか、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくるとする生態を持っているのが基本の人間は、根源において誰もが他者から置き去りにされて存在しているのだ。
置き去りにされている存在だから、他者にときめくということも豊かに体験する。
そして、置き去りにされているという自覚が募って群れから出てゆき、新しい出会いにときめいてゆく。



とにかく、生き物は「世界から置き去りにされている存在」だということ、したがって本能レベルの根源的な意識が「未来」という時間を勘定に入れていることはありえないのだ。
意識はあくまで、世界から一瞬遅れて「今ここ」を追跡している。
だからこそ「出会う」という体験には、「すでにそこに他者が存在している」ということに気づいてゆくことの驚きやときめきがある。
意識は、「今ここ」の世界に対する驚きやときめきとして発生する。そういう自然としての意識が豊かに生まれてくる場として人類は、集団の外に「お祭り広場」を持った。そこに複数の集団から人が集まってきた。そしてその生態は、おそらく直立二足歩行をはじめた直後の猿人・原人段階からはじまっていた。それもまた人間であることの証しのひとつなのだ。
最初は、セックスの場だったのかもしれない。そこに来ると、既成の集団の中にいるときよりもダイナミックに性衝動が起きた。既成の集団からの解放感と新しい他者との出会いのときめきがあった。
まあ二本の足で立ち上がったことはより豊かな性衝動の萌芽の体験でもあったわけで、人間は、そのときからすでに一年中発情している存在になることが約束されていた。
人は、家族の中に閉じ込められると、性衝動があまり起きてこなくなる。長く連れ添った夫婦はどうしてもそうなってゆくし、そこでの近親相姦が少ないのは、社会的な制度として禁止されているからというより、そこが集団の秩序が機能している場だからだろう。
集団の秩序に閉じ込められ秩序に従順になってゆくと、あまり性衝動が起きてこなくなる。大人になるとあまりセックスをしなくなるのはそのためだろうし、そうやって働き盛りの中年男が仮性インポになったりもする。
「英雄色を好む」というのは、集団の秩序に縛られていない存在だからだろう。しかし、色を好むのは英雄だけではない。「貧乏人の子だくさん」という言葉もあって、秩序から置き去りにされた貧乏人もまた一年中発情している。
猿が年に一度か二度しか発情しないのは、集団の秩序に閉じ込められている存在だということもあるのかもしれない。
まあ人間以外の生き物は、それぞれの生態の秩序から逸脱しないように生きている。そしてそれは、身体の秩序から逸脱しない、ということでもある。
しかし人間は、猿という身体の秩序から逸脱して二本の足で立ち上がった。
欲情するとは、身体の秩序から逸脱することである。男の勃起したペニスは、まさに身体の秩序からの逸脱だ。人間と猿の体型はかなり似ているが、勃起したペニスの大きさや硬さや頑丈さは、大きな差がある。
人間は過密化した集団の秩序や四足歩行する身体の秩序に閉じ込められて身動きできなくなってしまったところから、二本の足で立ち上がっていった。
人間は、猿よりもずっと集団や身体の秩序から逸脱してしまっている存在である。
まあ、もっともダイナミックな集団の秩序からの逸脱は、他人をぜんぶ集団の秩序の中に閉じ込めて自分だけその上に君臨する支配者になることかもしれないが。
他人と競争して勝ちたいとか優越感を持ちたいというのも、ひとつの秩序から逸脱しようとする衝動かもしれないが。
しかし人間は、上に向かって「逸脱しようとしている」のではなく、置き去りにされて「すでに逸脱してしまっている」存在なのだ。そうして、集団や身体を追跡している。他者から逸脱(他者を置き去りに)しようとしているのではなく、他者から置き去りにされて他者を追いかけている。そのようにして原始人はお祭り広場に集まってきて発情していったのだ。
男にとって勃起することは、ひとつの「出会いのときめき」である。置き去りにされた存在だから、そういう体験をする。そしてそれが生き物であることの根源的本能的な発情のかたちであり、カブトムシだってべつに「種族維持」のために発情するではない。
つまり、どんな生き物だろうと、生きてあることの「なりゆき」で発情しているだけだ。
二本の足で立っている人間は、猿としての生の秩序から置き去りにされた存在として、一年中発情しているような生の「なりゆき」を抱えてしまっている。



原初の「お祭り広場」とともに人類は、一年中発情している存在になっていった。
「原始時代は食糧不足で飢えの歴史だった」などとよくいわれる。
それでも人口は増え続けていたから地球の隅々まで拡散していったのだろう。
まさに「貧乏人の子だくさん」ということか。現在の地球上でも、飢餓地帯だから人口が減っているということもない。
むしろ逆に、日本のような飽食の先進国で、セックスレスや人口減少の問題が起きている。
一年中発情している人類の人口は、原始時代からひとまずどんどん増えていった。それは、欲情がダイナミックに起こる「お祭り広場」を持っていたからだ。
この国においても、「お祭り広場」は伝統的にセックスの場だった。
「お祭り広場」は、共同体の制度やアニミズムのための場として生まれてきたのではない。
それはもう直立二足歩行の開始以来の伝統で、セックスの場として生まれ育ってきた。そうして「セックスの場として生まれ育ってきた」ということは、「出会いのときめき」が豊かに起きる場だった、ということだ。またそこが、言葉や歌や踊りをはじめとする人間的な集団の文化が生まれ育ってゆく拠点になっていた。
「お祭り広場」は、人間が人間であることのもうひとつの原点なのだ。
原初の人類の歴史を政治や経済や宗教のパラダイムで語るのは、ほんとうに愚かなことだ。原初の人類の歴史を動かしてきたのは、セックスの問題だったのだ。子を産むためのセックスの問題ではない。それは、生き物がこの世界に存在することの不安定不完全の問題であり、人類はその不安定不完全をもっともラディカルに抱え込んでしまっている存在なのだ。
だから、一年中発情している種になった。
人類がなぜ一年中発情している猿になったのかということは、どのように食料を確保していったかということよりもはるかに重要で本質的根源的な問題なのである。
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