人類の文明は、火とともに進化してきた。
やっぱり、原初の人類と火との関係は考えておいた方がよさそうだ。
火との関係とともに人類の結束する心や連携プレーが育ってきた。
熾(おき)火、キャンプファイヤー、暖炉、囲炉裏、火による連携の文化は、人類がはじめて火を使うことを覚えて以来今日まで続いている伝統であるのかもしれない。
熾火の炎は原初の記憶を呼び覚ます、などとも言われている。
熾火に対する懐かしさは人類共通の心の動きらしい。
動物は火を怖がる。
人間は最初から怖がらなかったのだろうか。たぶんそうだ。怖がったら、火を使いはじめる契機はない。怖がらなかったから、それを覚えたのだ。
いや、最初は怖かったのだろうか。
火は、触れば熱く、やけどをする。生き物なら怖いに決まっている。
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人間と他の動物の身体感覚の違いがある。
他の動物は、人間ほどみずからの身体に敏感ではないし、みずからの身体に煩わされていない。人間だって猿であったときは、そんなことはなかった。
人間は、二本の足で立ち上がることによって、そういう過敏な身体との関係を持ってしまった。
それは、とても不安定な姿勢であり、しかも胸・腹・性器等を外にさらすという危機を抱えてしまっている。だったら、身体を意識しないわけにいかない。
さらには、内臓の問題も厄介だ。
四足歩行の姿勢であれば、内臓はそれぞれ胸や腹の表面が行き止まりになって下に降りてゆくことがない。しかし二本の足で立ち上がったとき、すべての内臓が宙に浮いてしまった。
だから人間は、内臓のちょっとした異変にも敏感である。心臓がドキドキするとか、息苦しいとか、腹が減ったとか痛いとか、そのようなことをほかの動物は人間ほどには敏感に感じていない。
そうして、二本の足で立っていることは、とても腰や膝に負担がかかる。腰痛や膝痛は、原初以来の人間の宿命的な持病である。
そのように人間は、体をとても酷使し、つねに危機的な状態に置いて存在している。つまり、それほどに身体に煩わされて存在しているからこそ、身体に対する意識から解放されようとして、身体の外の世界に意識を向けてゆく。そこから、世界や他者に対する親密な心や感動が生まれてくる。そのようにして人間の心は、世界や他者に憑依してゆく。
意識が外の世界に憑依しているとき、身体の煩わしさから解放されている。人間は、身体のことを忘れてしまおうとする無意識の衝動を持っている。身体を忘れてしまうことは、ひとつの快楽である。女のオルガスムスは、身体が消えてゆく感覚としてもたらされる。
二本の足で立っていることは、とても居心地が悪く身体は苦痛である。しかしそこから歩いてゆけば、身体のことなんか忘れて風景を楽しんだり考えごとにふけったりすることができる。つまり、そのとき身体は消えているのだ。
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人類が最初に見た火は、山火事だろうか。きっとそれに見とれたことだろう。そうして、そばに寄っていった。火が迫ってきても、身体のことを忘れて見とれているから、かんたんには逃げようとはしない。まわりの動物たちはみんな逃げてゆくのに、人間だけがそばで見とれていた。
おそらくこれが、火に対して親密感を抱いた最初の体験だったのではないだろうか。
そうしてそれが体に危害を及ぼすものだと知りながら、木の枝を近づけたりなんかしておそるおそるそれを捕まえようとしていった。
もしもそれが、動物たちが逃げてゆくものだということに気づいたのが最初なら、人類の火の使用は200万年前のアフリカからはじまった可能性があるが、山火事なんかいつもあるわけではないし、火をおこすことは、石器をつくることなどよりはるかに難しく高度な技術である。
一方、体を温めてくれるものだと気付いたのが最初なら、100万年前以降の北の地の暮らしからはじまっていることになる。そしてその機能が切実に求められるようになってきたのは、人類の体毛が抜け落ちてからだろう。それはおそらく、30〜20万年前ころのことだ。
いずれにせよ、人類は最初から火に対する親密感を抱いていた。それは、身体が消えてゆくタッチの心の動きを根源的に持っているからだ。その心の動きを持たない他の動物たちは、火を怖がって逃げてゆく。
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黒くすすけた炉の跡は、30〜20万年前のネアンデルタールの遺跡から多く出てくるようになるのだが、それ以前の遺跡にはないらしい。
ないということもなかろうと思うのだが、それ以前の人類が猿のように体毛が生えていたのなら、火で暖を取らなくても何とか生きていられたのかもしれない、と想像することもできる。
ともあれ人類は、体毛を失ってから、本格的に火によって暖をとることを覚えていったのだろう。
最初は、狩に出かけて野営をするときに、火をおこして暖をとったりしたのかもしれない。ネアンデルタールのころは、日帰りできないようなところまで遠征して狩をしていたらしい。
火をおこす技術は、けっしてかんたんではない。その技術は、氷河期の北の地に住み着いた人類が、体毛を失うことと引き換えに獲得されていったのかもしれない。おそらく、その技術を覚えるまでのあいだに、たくさんの命が失われ、絶滅の危機があったのだろう。
かんたんに、知能が発達したから、などと言ってもらっては困る。人類の進化は、つねに絶滅の危機を支払って達成されてきたのだ。火をおこすことだって、きっとそうだ。
今でも、突然変異で、全身が毛むくじゃらの赤ん坊が生まれてくることがある。遺伝学的にいえば、そういう「先祖がえり」が起きるのは、人類が体毛を失ってまだ間もないことを意味するのだとか。
体毛がなくなれば、もう火によってしか氷河期の冬は乗り切れない。そうなってはじめて覚えた技術かもしれない。人間がいつ火の使用をはじめたかという問題は、いつ体毛を失ったかという問題でもあるのかもしれない。
彼らは、火がなかったら生きられない人々だった。もしそこで火をおこすことを覚えなかったら、とっくに絶滅していたことだろう。
体毛を失った彼らの命は、火によって守られていた。彼らほど火に対する親密な心を持っていた人類はいないのかもしれない。彼らは、洞窟の中で火を焚き、みんなで語り合った。
そしてその伝統は、現代にまで連綿と受け継がれている。
われわれの熾火に対する親しみとそこから生まれてくる連帯感は、人類史の無数の失われた命に対する記憶の上に成り立っている。
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熾火は、人と人の心をつなぐ。火を囲んで向き合えば、誰の中にも、向き合っているものたちに対する親密な心が起きてくる。
氷河期の北ヨーロッパで体毛を失ったまま生きたネアンデルタールは、誰もが、火がなければ生きていることができない存在だった。
火に向かえば、誰もが、無数の失われた命に対する記憶を歴史の無意識として共有しながら、みずからの無力と火に対する親しみを噛みしめていった。
ネアンデルタールの集落に、強いものなどいなかった。
誰もが、火の前では無力だった。
人間は結束する生き物であるといっても、結束しないと生きられないからそうするだけである。人間であることの無力性が共有されているところで、はじめてダイナミックな結束や連携が生まれてくる。結束しようとする本能を持っているのではない、「このいのちは無力である」という歴史の無意識を共有しているから結束して群れる生き物になっているのだ。
体毛を失ってなお氷河期の北の地に住み着いていたネアンデルタールほど人間であることの無力性を噛みしめていた人々もいない。彼らの火に対する親しみと連帯は、そこから生まれてきた。そうしてその伝統は、われわれ現代人の無意識の記憶の中にも引き継がれている。
人間が火に対して親しみを覚えるのは、人間が無力な存在だからである。
人間の体が北の寒さに順応するということなどあり得ないのだ。それは、人間的な文明によって初めて可能になる。北海道や東北の人が寒さに強いというわけではない。ただ寒さの中を生きるすべをわれわれより心得ているというだけのこと。
洞窟の中で火を囲みながらネアンデルタールたちは、無数の死んでいった子供たちや仲間のことを想った。彼らが洞窟の中に死者を埋葬したということは、そういうことを意味する。そうしてみずからの命の無力さを想った。死んだ人の分まで生きようと想ったのではない。自分たちもまた明日も生きてあるかどうかわかない存在だということを確かめ合っていったのだ。
火を前にして、火の助けなしに生きられない身であることに気づけば、もはやそう思うしかなかった。
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火は、この世界を滅ぼす。山火事を見たとき人類は、そのことに気づいた。山火事のあとには、木も草も生えていないし、生き物も存在しない。
人間は、世界の滅亡に心をときめかせる。なぜなら、そのときにはもう生きなくてもいいからだ。それほどに人間という存在は、心も体も酷使して生きている。だから、それこそ本能的に「滅亡」ということに心をときめかせる。
原初の人類は、山を焼き尽くす火事に対して、ほかの動物のように怖がったりしなかった。むしろ、どこかしらでときめいていた。
原始人の生のいとなみは、われわれ文明人のそれよりもはるかにしんどいものだった。だからこそ、われわれよりはるかに「滅亡」ということにときめく心の動きを持っていた。すなわちそれが、人間の根源に息づいている火に対する親密感である。
われわれは、熾火を前にしながら「滅亡」を見ている。火は、「滅亡」の象徴である。人と人の心は、滅んでゆくことに対する親密感を共有してつながってゆく。
人間は、世界を滅ぼしはしない。世界が人間を滅ぼすのだ。われわれは滅びてゆく存在である。火を前にして人は、滅びてゆく存在であることの自覚を、歴史の無意識として、あるいは人間の自然として共有してゆくのだ。
原初の人類は、火が世界を滅ぼすものだということを、「邪悪なもの」だとは思わなかった。そんなふうに思うのは、猿の感性だ。人間はそのことにときめいていった。
世界の滅亡を想うことは、「邪悪な心」でもなんでもない。人間は、根源的にそのことを受け入れて存在している。火は、その心の動きがどれほど深く豊かに人と人を連携させるかということに気づかせてくれる。だから人は、火を囲んで語り合う。
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火は、世界を滅ぼす。
因果なことに人間は、だから「原発」というものをつくってしまった。原発は人間を滅ぼすものである。だからといってわれわれは、人間であることの根源においてそれを否定することはできないのである。
さあ、どうする?
誰もが明日は滅びてゆく存在である。滅びてゆくことを否定して、人間が人間であることはできないのだ。

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