50万年前ころの氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールの祖先たちは、どのようにしてその寒さを克服していったのだろうか。
彼らは、人類で最初にその過酷な環境を体験していった人々である
人類は、もともとアフリカで生まれた南方種である。しかもろくな文明も持たない原初の人間が、そんなところにかんたんに住み着けるはずがない。
それでも、たしかに住み着いていたらしいという痕跡は、ドーバー海峡を越えたイングランド島で発見されている。
アフリカのゾウやライオンが北海道の動物園で飼育されていたりするのだから、動物というのは行けば行ったでなんとか順応してしまえるのだろうか。
いや、北海道のゾウやライオンは自分の意思で来たわけではないし、手あつい飼育も受けている。
しかし原初の人類は、自分の意思で北海道よりももっと過酷な環境であるはずのそこにやって来たのだし、もちろんいざというときに避難できる飼育設備もなければ、親切な飼育係もいなかった。
なぜ?という疑問はどうしても起きてくる。
それは、彼らが強い猿であってからではない。彼らは絶滅の危機の中を生きた。人間とは危機を生きる生き物であるらしい。そうでなければ、あんなところに住みついたりはしない。ちょっと行ってみた、というのではない。それから50万年、絶滅と背中合わせでずっと住みついていたのだ。そしてそうやって住み着いていったから、人間ならではの言葉などの文化を生み出していった。おそらく、現代文明は、彼らのこの過酷な実験の上に成り立っている。
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人類は、弱い猿である。
弱い猿であるのに、地球の隅々まで拡散し、死にそうな未熟児の子供を育て上げるすべも身につけていった。その間、人類絶滅のひやりとする危機は何度でもあった。というか、そのひやりとする危機を生きているのが人間である、ともいえる。
そのひやりとする危機をくぐりぬけて生き残ってきたのは、強い猿だったからではなく、弱い猿ならではの高度な連携プレーを磨いてきたからだ。
10〜7万年前にアフリカのホモ・サピエンスの集団がその強い遺伝子を携えて世界中に旅していった……どうしてこんな陳腐な物語が合唱されているのだろう。
それは、とてもひ弱な遺伝子だったのだ。ひ弱だったから、ゆっくり成長して長生きしたのだ。そしてそのひ弱な遺伝子を受け継いで生き残ってゆくことは、遠い昔からそこに住み着いていたものたちによる環境に合わせた体質や連携プレーの文化があって初めて可能になったのだ。
その遺伝子は、集落どうしの「女の交換」というかたちで、世界中の集落から集落へと手渡されていった。
そのころアフリカの純粋ホモ・サピエンスは、アフリカ以外のどこで暮らす能力もなかった。したがって、アフリカを出て旅をしていった純粋ホモ・サピエンスの集団など存在しないはずだ。
アフリカの外のすべての人類は、遠い昔からの先住民の遺伝子とホモ・サピエンスの遺伝子との混血なのだ。現在の遺伝子学のデータだって、そう解釈することができるはずである。原始時代のアフリカの外には、アフリカ人と同じ純粋ホモ・サピエンスなどひとりも存在しなかった。
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いや、アフリカの中だって事情は同じだ。たとえば、ケニアのマサイ族が純粋ホモ・サピエンスだったとしよう。そのマサイ族が南アフリカにも行って子孫を増やしたかといえば、そんなこともないだろう。南アフリカには、肌の色も体形も違うコイサン族(ホッテントット)が多く住んでいる。環境の違いで、そうなったのか。しかし、マサイ族とコイサン族が同じ部族であるなら、両者の血はつねに混じり合ってそれほど大きな違いは出ないはずである。南アフリカに移住していったマサイ族はその瞬間から元のケニアのマサイ族と一切の関係を絶って形質を変化させていったというのか。それは変だ。はじめからべつべつに暮らしている部族だったのだ。それでも人間はすべての集落が隣の集落と女を交換する習性を持っているから、優勢な遺伝子は自然に端から端まで伝播していってしまう。そのようにしてコイサン族がマサイのホモ・サピエンス遺伝子を身につけていったのであって、マサイ族がコイサン族になったのではない。
またこのことは、ホモ・サピエンスの遺伝子を持ってしまったケニアのマサイ族は南アフリカに移住する能力さえ失ってしまった、ということを意味する。中央アフリカ南アフリカは地続きでそれほど遠くもないのだから、ほんらいならそれほど際立った形質の違いなんか生まれてくるはずがない。それでも現在のアフリカは、形質や言葉の違いが多様に分かれてしまっている土地柄である。彼らは、体質的にも精神的にも、よその土地に行っては暮らせない人々だった。ホモ・サピエンスの遺伝子は、そういう危うくもろい遺伝子だった。地元でさえそんな関係の歴史を生きてきた人々が、大集団で世界中に乗り込んでいったということなどあるはずないじゃないか。まったくばかげている。
そのころの純粋ホモ・サピエンスの遺伝子は、世界中でもっともひ弱な遺伝子だった。しかしもっともひ弱だったから、もっともゆっくり成長して、運よく成人して生き残ればもっとも長生きしていった。育てることさえできれば、それはもっとも優勢な遺伝子になった。
であれば、このひ弱な遺伝子のキャリアをアフリカ以外の寒い土地で確実に成長させることができるようになるまでには、たくさんの乳幼児の死による人類絶滅の危機を支払ってきたであろうことは想像に難くない。
何はともあれ人類の文明はその危機を克服することができたのだが、われわれはそういう歴史を支払ってきたということを肝に銘じておいても罰は当たるまい。
アフリカの純粋ホモ・サピエンスがわがもの顔に世界中を覆い尽くしていったわけではない。人類の歴史は、そんな安手の漫画みたいな物語として流れてきたのではない。
10〜7万年前にホモ・サピエンスの遺伝子が世界中に伝播していったとき、人類は絶滅の危機に瀕していたのだ。
因果なことに人間は、そういう「危機」を生きようとする生き物である。人は、「危機」を食べて生きている。
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ほんらいは南方種である人類が50万年前の氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったのも、危機を生きようとする衝動を持っていたからだろう。彼らは、つねに絶滅の危機を生きていた。
彼らは、まだ猿と同じ体毛を持っていたはずである。
そうでなければその環境に適応できるはずがない。
彼らは、火が使えたのだろうか。
防寒機能としての火の使用は、アフリカを出て寒いところに住み着いたことによってはじめて覚えた。そしてこれによって火がより親密なものになった。
人類がいつごろから火を使いはじめたかは諸説ある。200万年前という説もあれば、20万年くらい前からだという研究者もいる。であれば、火の使用は、アフリカ以外の寒い土地に住み着いたものたちが最初に覚えた、という可能性もある。そしてその文化が本家のアフリカにも伝わっていったのかもしれない。
50万年前の人類は火の使用もおぼつかないまま寒い氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった、という可能性もなくはない。
しかしまあそれはまだよくわかっていないのだから、そのことを理由にして考えるのはとりあえずやめておこう。
とにかくほんらいは南方を生息域とする種なのだから、何か工夫しなければ住み着くことはできなかっただろう。そのようにして、「文化」が生まれてくる。
ひとりだけで住み着くことはできない。文明をもたない原始人がそうするには、その環境は厳しすぎる。体力が弱ってくれば、そのまま死んでゆくしかない。
みんなで群れ集まっていれば、体温の低下を防ぐことができる。人間が寒いところに置かれれば、自然に群れ集まってゆく。群れ集まろうとする意識が、自然に育ってゆく。
たとえば、広い原っぱの中に置かれているとき、どんなに体力があっても、必ず弱ってゆく。しかしたくさんで群れ集まっていれば、体力のあるものがないものの風よけになってやることができる。そして体力があるものが弱ってくれば、中にいて体力を回復させたものが交代する。そういう連携プレーでようやく生き残るということが可能になるのであって、誰もひとりでは生き残ることはできない。
それは、原っぱに置かれているときだけのことではない。生活のあらゆる場面でそういう意識と文化が育ってくる。
何はともあれ彼らはまず、群れ集まることでその過酷な環境を克服していった。人生の途上で死んでゆくものはいくらでもいただろうが、それでもその地を離れなかった。人間は、そういう危機を生きようとする生き物だ。
彼らにとって死は、忌むべきものではなく、親密なものだった。危機を生きようとするものは、死を親密なものとして生きることの醍醐味を知っている。死が親密なものだから「死にたい」ということではない。死が親密なものだからこそ、生きることの醍醐味が体験されるのだ。
彼らにとって弱っているものを助けることは、善意でもなんでもなく、おたがいさまのあたりまえの行為だったし、自分が強いものであるという意識もなかった。自分だって、弱って死にそうになる体験を何度でもしている。誰もが、明日もまた生きてあるという保証など何もない環境で生きていた。
北の地では、善悪の意識が育ちにくい。余談だが、だから寺山修司ドストエフスキーのような作家が生まれてくるのだろう。
北の地に住み着いた原始人に、善悪の意識などなかった。そんなこととは関係なく、人々は連携し合っていった。
人間は、連携する生き物なのだ。二本の足で立ち上がることは、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくって体がぶつかりあわないようにするという、ひとつの連携プレーとしてはじまっている。そしてそれは、とても不安定である上に、胸・腹・性器という急所を相手にさらしてしまうという「危機」を生きる姿勢でもあった。
人間は、根源的に「危機」を生きようとする衝動を持っている。
住みよい土地だったから、住み着いたのではない。そこに住むことの「危機」が、そこに住み着かせたのだ。
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危機を生きているから、連携しようとする。連携しないと生きられない。この本性によって50万年前の人類は、氷河期の北ヨーロッパに住み着いていった。
それを知ったとき僕は、一瞬「嘘だろう」と思った。でも、考古学の発掘証拠があるなら、信じるしかない。猿みたいな原始人がそんな過酷な地に住み着いてゆくなんて、どんなに驚いても驚きすぎることはない。驚かないなんて、どうかしている。
人間的な連携があって、はじめて可能になることだ。個人の能力や文明があったのではない。
群れから離れて移動してゆくのは、いつだって愚かで弱いはぐれ者である。そういうものたちが、人間が住めないような過酷な環境の地にに住み着いてゆき、その危機の試練を克服してゆく文化によって、もとの群れに住み着いているものたちの文化を追い越していったのだ。
それは、人と人が連携してゆく文化だった。彼らは、連携しないと生きられない地に住み着いていったのであり、人間はそういうことができる本性を持っているらしい。
洞窟に住みはじめたのも、アフリカの外で寒い冬を経験した人類だったに違いない。
スペインでは100万年前の洞窟住居跡が見つかっている。
酷暑のアフリカでは、めいめいが風通しのよい木陰で休むのがよいだろう。あまりくっつき合っていたくない。
しかし寒い冬には、自然に寄り集まってゆく。洞窟は、そういう関係がつくれる場所である。ただ寒い風をよけるというためだけではない。ネアンデルタールやクロマニヨンのころは、すでに掘立小屋のような住居もつくられていたが、それでもみんなが寄り集まる場所としての洞窟は大切だった。
彼らがいかにその場所を大切にしていたかということのあかしとして、洞窟壁画が生まれてきた。それは、ネアンデルタールのころからすでにはじまっていたらしい。そこは、連携のエネルギーが生まれてくる場所だった。だから、狩の獲物である草食動物が好んで描かれたのだろう。
連携のエネルギーは、みんなで語り合うところから生まれてきた。最初は言葉にもならないような唸り声や奇声を交わし合っていただけだろうが、それがしだいに言葉になっていった。
寒いところで暮らしていれば、みんなで寄り集まってゆかずにいられなかった。
人類の連携プレーは、寒い冬を体験するところで育っていった。
おそらく、氷河期の北ヨーロッパで暮らしていった人々によって人類の連携プレーは開花していったのだ。
それは、アフリカのホモ・サピエンスが所有していた文化ではない。人類の連携プレーの文化は、50万年前の氷河期の北ヨーロッパに住み着いて絶滅の危機とともに生き抜いてきた人々の営為の上に築かれているのであって、アフリカのホモ・サピエンスが世界中に散らばってかんたんにつくりあげてきたなんて思わないでくれ。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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