「遊び」とは、運命を受け入れる行為である。
だから、勝ち負けを決める性格になってゆく。
勝ち負けを決めなくても、「運命を受け入れる」という要素がなければ「遊び」にならない。
原始人が両手に持った石と石をぶつけ合って遊んでいた。これが、石器が生まれてくる契機になったのだろうが、そのとき原始人は、石と石がぶつかり合う音を聞いていた。硬いものと硬いものがぶつかり合う感触が手のひらに伝わってくるのを楽しんでいた。
これは、もっとも原始的な「実験」のひとつだった。ここに、「実験」の起源がある。この「実験」と現代の科学者の「実験」と、その性格において、どれほどの違いがあるだろう。
石と石をぶつけ合って楽しんでいれば、どうしてももっと強くぶつけてみたくなる。そして、そして、石の先端が欠けて尖ったかたちになった。
そのとき、「ああ壊れてしまった!」と思うのか、それとも「これ、何かに使える!」と思うのかによって、「遊び心」のあるなしが決まる。後者は、その運命を受け入れるというかたちで、何かを発見した。
「実験」とは、何が起こるかわからないが、起きれば、ひとまずその運命を受け入れてゆく行為である。
酒場に行って、帰りに飲み代を払う。少々高くても、文句は言わない。それは、そこで体験した運命を受け入れる行為である。そこでは、酒場の女との会話などにおいて、それなりの「実験」が体験された。
ブランド物のバッグはとても高い。それでも人は、その「ブランドのバッグは高い」という運命を受け入れる。
ブランド物をバーゲンで買うのは少々野暮で、それだったら無名の商品を正当な値段で買う、というやせ我慢も、「遊び心」のうちかもしれない。そうやってあれこれ探すのも「実験」という「遊び」だろう。
われわれは望みもしないのにこの世に生まれてきた。親を選べたわけでもない。それでも、この運命は受け入れるしかない。受け入れなければ生きられない。そして、死んでゆかねばならないという、もっと残酷な運命も受け入れるしかない。
人の心は、運命を受け入れるようにできている。
青い空を見上げて、青いと認識する。赤いとは思わない。その「青い」という事実を受け入れなければ、「青い」と認識することはできない。丸いものは、丸いと意識は認識する。「認識する」という意識のはたらきそのものが、すでに「運命を受け入れる」という心の動きにほかならない。
「認識する」とは、「運命を受け入れる」ということだ。
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人間は、限度を超えて密集した群れをつくる生き物である。原初の人類は、限度を超えて密集した群れの中に置かれてある運命を受け入れて、二本の足で立ち上がった。そのようにして人類の歴史がはじまった。人間は、根源的に運命を受け入れようとする習性をもっている。その習性から「遊び」が生まれたのであり、二本の足で立ち上がることそれ自体が「遊び」だった。
しかし人間の群れの密集がさらに限度を超えてくれば、鬱陶しいし、混乱が起きてくるし、もうその密集は受け入れられない。そこで人類はどうしたかといえば、それでもなお受け入れようとした。共同体の制度、すなわち「規範」をつくり、混乱をしずめた。
「遊び」には「ルール」がある。「ルール」を受け入れることと、「結果」を受け入れること。「結果」をあらかじめ決めて「ルール」を受け入れてゆく、これが、規範によって共同体をいとなんでゆく行為である。
「結果」が決まっている「労働」と、「結果」がわからない「遊び」。
人間は、共同体(国家)をつくり「労働」を覚えたことによって、「結果=運命」を受け入れるのではなく、あらかじめ決められたものとしてつくりだすようになっていった。そのとき「運命」は「共同体=規範」であり、それを受け入れていった。そうして「こう生きねばならない」とか「社会はこうあらねばならない」とか、そんな「……ねばならない」という思考が生まれてきた。たぶん、このようにして人類は、パンドラの箱を開けた。このようにして運命を受け入れながら運命をつくりだすという詐術を覚えていった。いずれにせよ、人の心は、運命を受け入れる。
つまり、原始人はもともと誰もが「実験」の好きな理科系の人間だったが、ここにきて「……ねばならない」という規範をつくることが好きな文科系人間が登場してきて共同体をリードする層になっていった、ということかもしれない。
そうして現代においては、誰の中にも、文科系的な傾向と理科系的な傾向が共存している。
心は、「運命を受け入れる」というかたちでしか働かない。われわれは、どちらの運命を受け入れるのか。「ねばならない」という共同体の規範か。それとも、この世界の現象としてのものごとの結果か。
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あなたは私の恋人であらねばならない、というあらかじめ決められた「結果」によって人は嫉妬している。
「嫉妬」というドロドロした情念が人間の根源であるかのように描いている文学作品もあるが、人間のそんな心の動きは、じつは「……ねばならない」というたんなる制度的な思考にすぎないともいえる。それは、人類が「共同体=国家」という「制度=規範」持ったことによって生まれてきた心の動きであって、人間の心の根源であるとはいえない。
原始人の男と女がどれほど「嫉妬」とは無縁に関係をつくっていたかということは、たぶんわれわれの想像以上だろう。
縄文人は、女だけで集落をつくり、男たちは小さな集団で山野をさすらいながら、その女たちの集落を訪ね歩いていた。縄文時代は、集落そのものが娼家街であり、そこで絶えず出会いと別れが繰り返され、男にも女にも「嫉妬」という感情は希薄だった。これが、日本文化の基礎になっている。彼らはまだ、「共同体(国家)=規範」というものを知らなかった。
共同体が生まれてくる以前の人類史のはじまりにおいては、女は誰とでもセックスした。
とすれば、20万年前のネアンデルタールもまた、そうした人類で、彼らは、われわれと同じ知能を持ち、われわれ以上に男女が頻繁にセックスしてたくさんの子を産んでゆくという関係をつくっていた。
人類史の起源の共同体がつねに母系社会であったことは、女はみな父親が誰であるかわからない子を産んでいた、ということを意味する。
そしてネアンデルタールが暮らした氷河期の極北の地では、抱きしめ合うことが寒さをしのぐすべであったし、乳幼児の死亡率が高かったからたくさん子を産まなければ群れの人口を維持できなかった。父親なんか、誰でもよかった。
人間が一年中発情している生き物になったということは、父親なんかわからない出産をするようになっていったということを意味する。だから女は、誰とでもセックスできるし、誰とでも結婚できる。基本的には、そういうことだ。現在の一夫一婦制社会の規範を、原始人のセックスや恋愛に当てはめるべきではない。また、それでも原始人も恋愛をしていたのだ。われわれよりは嫉妬の感情が希薄だったというだけで。
彼らは、われわれよりも深く確かに運命を受け入れていたから、嫉妬の感情をあまり強く持たなかった。つまり、彼らの方が「遊び心」をよく心得ていた、ということだ。
嫉妬とは、制度的なたんなる「労働」にすぎない。制度的な人間ほど、嫉妬深い。
ともあれ人類の歴史は、ネアンデルタールの登場とともに現在の知能に到達した。彼らは、人類が「共同体=規範=労働」というパンドラの箱を開けてしまう以前の、「遊び」の文化を完成させた人々であった。
われわれは、「運命を受け入れる」という心の動きを半分忘れかけている。ネアンデルタールこそ、その遊び心を深く確かに生きた人々だった。
大げさにいえば、原始時代の極寒の地を生きた彼らは、明日生きてあるかもわからないその過酷な環境のもとに置かれてあることの運命を深く確かに受け入れていった人々だった。
「遊び」とは、運命を受け入れることだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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