衣装の起源は、「おしゃれ」をすることにあった。
人間は、そういう「遊び」をする生き物である。「遊び」が、原初の人類の歴史をつくってきた。
二本の足で立ち上がったのも、言葉を話すようになったのも、石器を生み出したのも、衣装を着るようになったのも、すべては「遊び」としてはじまったことだった。
ヘーゲルは、「人間性の本質は労働にある」というようなことをいっていて、現代の多くの人もそう思っているらしいが、人間を人間たらしめているのは「遊び」なのだ。
根源的には、人間が生きることは「遊び」であって「労働」ではない。生きることに価値などなどない。人間が生きることは、価値を生産する行為ではないし、「こう生きねばならない」という労働ではない。原初の人類は、「こう生きねばならない」という価値観や未来意識によってこの生をつくってきたのではない。「せずにいられない」ことをしてしまった結果として「すでに生きてある」ことを気づかされていただけだ。そして彼らは、「すでに生きてある」ことのその運命を受け入れていった。そのようにして直立二足歩行が定着し、気がついたらアフリカを出て氷河期の極北の地まで拡散しながら、その運命を受け入れるというかたちで生き延びていったのだ。
人間にとっての生きることが価値を生み出す「労働」であるのなら、住みにくいだけの地球の隅々まで拡散してゆくということは起きなかった。それが労働であるのなら、みんなが住みやすいところを目指して移住してゆき、今頃住みやすい温暖な地にひしめき合っていることだろう。しかしそんなことは、猿のすることだ、猿は、住みやすいところにしか住まない。
チンパンジーは、自分たちの住みやすい熱帯の森にしかいない。原初の人類は、たぶんチンパンジーと同じような猿だったはずなのに、チンパンジーに追われてアフリカの外まで拡散していった。そして、つねに未知の土地の新しい環境を運命として受け入れていった。
どんなに住みにくくても人類はそれを運命として受け入れながら住みついていったのだ。
われわれは、望みもしないのにこの世に生まれてきてしまった。そして、望まないのに死んでゆかねばならない。われわれにとって生きることは、望みもしないこの残酷な運命に対する気を紛らわす「遊び」として成り立っている。
気を紛らわす「遊び」がなければ、住みにくい土地に住みついてゆくことなんかできないし、それが人間の本性なのだ。
人間は死を自覚する生き物である、という。だからこそ、誰もがその残酷な運命を共有し連携してゆく生き物になった。
怖がらなくてもいい、みんながそれを共有しているのだ、と僕は自分に言い聞かせる。
みんなで二本の足で立ち上がることは、ひとつの連携である。人間は、それによってより弱い猿になり、より密集した群れをいとなむことができるようになった。言葉を交わし合うことも、ひとつの人間的な「連携」であり、「おしゃべり」という「遊び」として発展していった。石器のつくり方を教えるためとか群れの運営のためなどの「伝達=労働」の道具であったのではない。そんなことは、言葉などなくとも伝わることだ。そんなことより、群れが密集してきて、みんなで楽しい時間を過ごす「遊び」として言葉が必要だった。たとえば、みんなで洞窟の中でたき火を囲みながら語り合う、そういうところでこそ言葉は生まれ育っていった。
人間的な連携として、「遊び」が生まれてきた。
衣装の起源もまた、「おしゃれ」という「遊び」の行為としてはじまった。
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原初の人類が初めて二本の足で立ち上がったとき、それはとても前に倒れてしまいやすい姿勢だった。不安定だし、胸・腹・性器等の急所をさらしてもいるから、どうしてももとの四本足の姿勢に戻ろうとする衝動がはたらいてしまう。
そんなとき、だれかが目の前に立っていれば、倒れるわけにいかない。その目の前の相手から体の正面の急所を見つめられたら、とても不安になってしまうが、それはおたがいさまであり、その不安を共有しながらたがいの直立姿勢を安定させていった。これが、人類最初の「連携」だった。「連携」によって、みんなが二本の足で立っている集団になっていった。
相手と正面から向き合っていることのプレッシャーが、直立姿勢を安定させる。この閉塞感=ストレスと解放感が混在した心の動きこそが、人間的な快楽のもっとも根源的なかたちである。
見つめられることの不安=ストレスが、直立姿勢の安定という解放感を生む。
解放感の起源は、直立姿勢の安定にある。これが、生まれて初めて二本の足で立ち上がった赤ん坊のよろこびであり、そのとき彼らは、満面の笑みでそのよろこびを表現する。
人類は、正面から向き合う関係を持ったことによって、知能の発達の契機を得た。それによって言葉が生まれ、体毛が抜け落ち、衣装をまとうようになっていった。
見つめられることのストレスと恍惚、これが衣装の起源の契機であり、このストレスと恍惚の根源は、直立姿勢の不安と解放感にある。
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何はともあれ、群れが大きく密集してきたことによって、そうした現象が生まれてきた。
それは、人類が氷河期の極北の地まで拡散し住みつくようになっていったからだ。
人類が最初に氷河期のドーバー海峡(そこは氷が張っていたか陸続きになっていた)を渡っていったのは。およそ50万年前である。
彼らは、当時の地球上の人類種の中でももっとも進化が遅れていたグループだった。
体も小さかった。
20万年前ころにあらわれたネアンデルタールの祖先である。
アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパネアンデルタールは50万年前ころに枝分かれした、というのが現在の分子生物学の定説になっている。
南ヨーロッパに生息しているころはまだ血の交流があった。だから、アフリカの人類と南ヨーロッパの人類のあいだには、それほど大きな身体差はなかった。しかし氷河期の北ヨーロッパまで拡散してきてしまうと、北で生きてゆける体質と南の暮らしに適応した体質とのあいだに大きな隔たりが生まれて、たがいの血が相手のところまで伝播してゆくということがなくなっていった。
地球上のすべての群れがまわりの群れと女の交換をしていれば、その血は地球の果てまで伝播してゆく。しかし、南の暮らしに適応した体質では北の果てで生きてゆけないとなれば、もうそこまで伝播してゆくことはない。
そして拡散していった人類は、つねにもっとも環境適合能力の劣ったグループだった。これが、人類拡散の法則である。ここのところで、世の人類学者は誤っている。彼らは、優秀な種が率先して拡散していったというパラダイムで考えている。
そうじゃない、50万年前に北に拡散していったのは、もっとも進化が遅れていたグループだった。だからネアンデルタールの骨格も、同じ時代のアフリカのホモ・サピエンスよりも原始的で、背も低かった。
しかし彼らが文化的に遅れていたとはかぎらない。彼らは、地球上のどの地域よりも大きく密集した群れをいとなんでおり、そうしないと生きてゆけない環境だった。そういう条件から言葉が発達し、衣装をまとうようになっていったのだ。
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現在のヨーロッパ人の肌が白いのは、北の地に拡散してきてから体毛が抜け落ちていった人類の末裔であることを意味している。チンパンジーの体毛をむしり取ったら、その下の肌の色はおそらく真っ白だろう。色黒のアフリカ人がヨーロッパに移住し、寒冷気候に合わせて肌を白くしていったのではない。そんなふうにして肌が白くなるというのなら、その科学的根拠を示してもらいたいものだが、そんなことは起こり得ないのだ。
人類の知能が本格的に進化し始めたのは、ネアンデルタールが登場してきた20万年前ころからである。それによって、脳容量も大幅に増え、現代人とほとんど同じになった。それまでは、身体能力に差があったくらいなのだ。
そのころ、イングランドの北半分やスカンジナビア半島のすべてはただの氷原であり、さすがにそこにはまだ人類も住めなかった。彼らは、草食動物の北限の地で、狩の腕を磨きながら住みついていった。
まあ、ぎりぎりの生存だったのだろう。豊富な体毛と火があったから、何とか生き延びることができたのかもしれない。
そのころ、まだ精巧な石器はなかった。ただ、寒い地であったから、必然的に群れは密集してゆく。密集して体を寄せ合っていなければ、冬は越せなかった。
その密集した群れで彼らは、まず連携することを覚えた。そうして、少しずつ言葉を進化させていった。大きく密集した群れで暮らすためにまず必要なことは、大きく密集した群れで暮らすことのできるメンタリティと関係の作法である。何はさておいても、それがなければ大きく密集した群れでは暮らせない。食いものは、二次的な問題である。食えるものなら何でもよかった。そういうものたちでなければ、わざわざ新しく過酷な環境に住みついてゆこうとなんかしない。
しかしそうした過酷な環境で寄り集まり連携してゆくことを覚えれば、狩の技術も上達してくる。そしてそれに合わせて石器も改良されていった。
石器によって狩の技術が上達したのではない。狩の技術の上達が、石器の改良を促したのだ。
ネアンデルタールが登場してきた20万年前ころは、ヨーロッパもアフリカも石器文化にそれほど差異はなかった。
しかし狩の仕方は、かなり違っていた。
アフリカでは、森の小動物を個人技で仕留めるのが主流だった。彼らは、家族的小集団を組んで森から森に移動して暮らしていた。
一方北ヨーロッパでは、マンモスやオオツノジカなどの大型草食獣にチームプレーの肉弾戦を挑んでいった。寒いところでは、そういう脂肪分の多い食物が必要だったし、そういうチームプレーが生まれてくるような大きく密集した集団をいとなんでいた。
アフリカでは敏捷な小動物に対する投げ槍の文化が発達し、北ヨーロッパでは大型草食獣との肉弾戦のための銛の文化が発達していった。だから、アフリカでは石器のつくりがしだいに繊細になっていったのに対して、ネアンデルタールは、あくまで頑丈な石器にこだわった。研究者はこれを、ネアンデルタールは保守的だったというのだが、そうではない、狩の仕方や対象が違っていていたからだ。
ともあれ、集団生活の文化は、寒い北の地で発展した。言葉は、その暮らしの中から育ってくる。
20万年前のネアンデルタールは、同時代のアフリカ人よりも発達した言葉の文化を持っていたはずである。
人間的な文化である集団生活や言葉や衣装は、原始人としての限界を引き受けて果敢に氷河期の北の地に住みついていったネアンデルタールによって切り拓かれてきたのだ。人類史におけるネアンデルタールは、そのように位置づけられるべきである。
ネアンデルタールは滅びた、と合唱しているこの国の古人類学者なんか、なんにもわかっていない。
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人類の脳は、ネアンデルタールの出現とともに爆発的に発達し、現在と同じレベルまでになった。
そしてその脳を発達させたのは、集団の暮らしのストレスと恍惚である。
人間は、集団の中で大きなストレスを体験し、同時に、そこでこそ根源的な解放感を体験する。
ネアンデルタールの末裔としてのヨーロッパ人は、人類史において、最初に人と人が正面から向き合うことの文化を完成させた人たちである。
彼らは、「見つめる」という文化を持っている。
彼らの視線の濃密さは、格別である。それは、正面から向き合い、やがて抱き合う関係に入ってゆくための、ひとつの手続きである。そいう関係を持ってたがいの身体を温め合わなければ、寒い地では生きられなかった。何はさておいても、抱きしめ合うという「連携」の関係をつくらなければ、生き延びられなかったし、大きく密集した群れを維持することもできなかった。
見つめられることは大きなストレスだが、そのプレッシャーが直立姿勢を安定させる。西洋人は背筋がピンと伸びて姿勢がよい。それは、見つめ合う文化を持っているからだ。
また、だから、人の眼ばかり意識している自意識過剰な人間は、そっくりかえったような姿勢で歩く。
何はともあれ、他者の視線こそ、人間の直立姿勢を安定させているのだ。
見つめられることは大きなストレスである。そのストレスが応力となって、直立姿勢を安定させる。
そしてそのストレスが、抱きしめられることによって解放される。これが、極北の地で暮らした人々が追求した人と人の関係だった。
抱きしめ合うことは、見つめ合うことが不可能な関係である。それは、より直立姿勢が安定する関係であると同時に、体の正面の胸・腹・性器等の急所が圧迫されて、より大きなストレスを生む。しかしそのストレスが、解放(快楽)でもある。ストレスフルであればあるほど快楽も深くなる。直立二足歩行する人間の快楽は、そのようにもたらされる。50万年前に氷河期の北ヨーロッパに住みついていった人々は、この関係を追求しながら寒さに耐えて生き延びていった。
彼らを生き延びさせたのは、一義的には、この大きく密集した群れを維持してゆく作法であったのだ。この「見つめ合う」という「遊び」によって、言葉や衣装が生まれ育っていった。人間の生きるいとなみが食い物のことだけですむのなら、言葉も衣装も生まれてこなかった。人間が生きてあることはひとつの「遊び」であり、それが、原初の人類の歴史だった。
人間は、大きく密集した群れをつくる生き物であり、大きく密集した群れは「遊び心」がなければ維持することができない。「遊び」を契機にして文化や文明が生まれ、人間の脳が発達してきた。これが、原初の人類の歴史である。
人間の「遊び」とは、つまるところ、直立姿勢を安定させる行為にほかならない。そこに人間であることの根拠があり、そこから人間的な快楽(=解放)が生まれてくる。
そして、直立姿勢を安定させる体験の根源は、人と人が正面から向き合うことにある。人間は、このストレスと恍惚のバイブレーションの中で、大きく密集した群れをいとなんでいる。50万年前に原初の北ヨーロッパに住みついた人々は、この関係を追求してゆき、やがて20万年前に現代人と同じレベルの脳を持ったネアンデルタールが出現した。
人類が第一義的に追求してきたのは、大きく密集した群れをいとなむことであり、そのための直立姿勢を安定させる「遊び」であり、したがって、けっして食い物を得るという「労働」が第一義的になされてきたのではない。
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