直立二足歩行と衣装の起源についてはもう、30年前くらいから考えているのだが、基本的には今もそのときと変わってはいない。
衣装は、二本の足で立っていることの居心地の悪さをなだめる機能として発生してきた……これが30年前の最初に考えたことでした。
きっかけは、吉本隆明氏が「海燕」という文芸雑誌に寄稿した「ファッション論」という批評文で、衣装の起源と根源的な性格について語っていたことでした。
で、つまらないこと言っちゃって、という感想しか持てず、だったら俺がその起源と根源を考えてやろうじゃないか、と思い立ったのがきっかけです。
そのとき吉本さんは衣装の起源は「防傷防寒の道具」としてはじまったというようなことをいっていて、考えることの程度が低いなあ、と思ったのでした。一種の「労働史観」ですよね。歴史家なんか、みんなこのパラダイムで考えている。しかし僕は「労働」というパラダイムで「起源」は語れない、と思っている。
すべての起源は「遊び」にある、というのが今なお変わらない僕の立場だ。「遊び」が人間の歴史をつくってきた。二本の足で立ち上がったことだって「遊び」だったし、現在残っている原初的な衣装としての「ペニスケース」や「ボディペインティング」や「パンツ」だって、労働の道具なわけないだろう。すべて「遊び」じゃないか、というのが吉本さんに対するそのときの僕の反論だった。
吉本さんの論旨は、まずはじめに「防傷防寒の道具」としてはじまり、それからおしゃれや儀式などの「遊び」の道具になってきた、というもので、逆に僕は、現代こそそうした「防傷防寒の道具」としての「通気性」だの「保温性」だのという機能が盛んに追求されているのではないか、と考えた。
そのとき、生まれて初めて100枚くらいのレポートを書いてみた。それから5年前まで僕が書いたレポートはそれ一つだけで、ずいぶん稚拙な書きざまだったが、衣装の起源と根源は直立二足歩行の起源と切り離して考えることはできない、というスタンスは今も変わっていない。
人間が生きるために必要なのは心をなだめることであり、それができなければ生きていられなくなって衣食住なんかどうでもよくなってしまうのが人間なのだ。衣食住が満たされればされるほどそういう傾向になってゆくのが人間であり、それが、人間の根源であり行き着くところでもある。
原初の人類は、心をなだめるために、二本の足で立ち上がったのだ。人間の歴史は、そこからはじまり、そこに行き着く。
逆にいえば、心をなだめるために物を食うのであって、食うために食うのではない。本能という言葉をあえて使うなら、食いたいという本能があるのではない、心をなだめたいというのが人間の本能なのだ。
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人類史における衣装は、いつごろ生まれてきたのか。
アマゾンの奥地などではいまだに裸のままで暮らしている人たちもいるのだから、そう古いことではないだろう。
人類の衣装は、北と南とどちらで先に生まれたか。
もし防寒の道具として生まれたのなら、北の方が早い、ということになる。
しかし原初の人類には、猿と同じ体毛があった。体毛を持っているかぎり、防寒のために衣装を着るという発想は生まれにくい。すでに体毛という衣装を持っているのだから、「衣装」という発想が生まれてくる根拠がない。
防寒という目的があるのなら、人間は体毛をなくしたりはしない。したがって、防寒という目的から衣装が生まれてきたということも論理的にあり得ない。
防寒ということよりももっと人間の行動を左右する要素があったから、体毛をなくしてしまったのだ。
つまり、その「防寒ということよりももっと人間の行動を左右する要素」、すなわち「体毛をなくさせた要素」によって衣装が生まれてきた、ということだ。
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人間から体毛をなくさせた契機はどこにあるのか。
原初の直立二足歩行は、群れが密集しすぎてたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を保てなくなったためにそれを確保しょうとしてはじまった。したがって人間は、その本性として、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保することにものすごく神経質になる生き物である。つまり、そういう皮膚感覚が、他の動物に比べてものすごく発達している。
見知らぬ人や嫌いな人間がそばに寄ってきたら、体中の皮膚がざわざわする。そういう皮膚感覚がどんどん発達していって、体毛が抜け落ちたのだ。
群れが密集してくれば、どうしても皮膚感覚は過敏になっていってしまう。
そして人類の歴史において、そこまで群れが密集していったのは、おそらく人類が極寒の北の地に住みつくようになりその暮らしを確立していった20万年前あたりのことだろうと思える。寒い北の地では、みんなが寄り集まって密集していなければ生きていられなかったし、より集まっていることのよろこびをくみ上げる文化もどんどん発展していった。そういう状況から、体毛が抜け落ちていったのだ。
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見知らぬ人や嫌いな人間にそばに寄ってこられることは大きなストレスだが、そういう人間から見つめられることもさらに大きなストレスになる。
しかし人間は、根源的に見つめてしまう生き物であり、見つめあって密集した群れをつくっている生き物でもある。そういう見つめられる(監視される)ストレスも、体毛が抜け落ちてゆく契機になった。
群れが密集してくれば、見つめられることのストレスは増大する。人間はそういうストレスが増大する歴史を歩んできたのであり、現代ほどそのストレスを多く抱えている時代もなかった。そしてなぜこんなにも密集してしまったかといえば、人間は、見つめられるストレスと同じだけ見つめ合うときめきも体験している存在だからだ。
見つめられることがストレスなら見つめ合うことなんかしなければいいのに、それでも見つめあってしまうのが人間なのだ。見つめ合うことのときめきは、見つめられることのストレスを忘れさせてくれる。人間は、見つめられることのストレスを見つめあうことによって解決してきた。そのようにして体毛が抜け落ちてきたのであり、そのようにして現代人は、せっせとおしゃれをしたり、裸になったりしている。
そのようにして人間は、限度を超えて密集した群れをつくってきた。
現代ほど裸が止揚されている時代もなかっただろう。夏の海辺で裸みたいなビキニの水着を着ることも、現代的なおしゃれのひとつだ。それは、見つめられることのストレスから解放されていることの証しとして表現されている。人間は、見つめられることのストレスを見つめあうことによって解決する。そういう表現としてビキニの水着があり、人間はおしゃれをする。
しかしそれでも、ブラジャーとパンツだけはつける。人間が群れをつくる生き物で群れの中にいるかぎり、これだけはつけないと居心地が悪い。群れから解放されて、はじめて全裸になる。このぎりぎりのブラジャーとパンツが、衣装の起源であり、究極である。
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人間の群れ(共同体)は監視し合うシステムであり、見つめられることのストレスが限りなく増大する場所である。同時にわれわれは、ここでそのストレスからの解放として友情や恋愛を体験し、見つめあってもいる。つまり、人間的な「連携」を見いだいしている。仕事だって、ほんらいは見つめ合うことのストレスから解放されて人間的な連携を見出してゆく場であるはずなのに、現代においては、いたずらに監視し合うシステムだけの場になってしまっている。すなわち、見つめられることのストレスが増大するだけの場になってしまっている。上にいけばいくほど監視されるストレスから解放されて、下にいけばいくほど監視されるストレスが増大してゆく。
新入社員が居つくことのできない社会システムをつくっておきながら、新入社員の心がけが悪いなんていうなよ。
家族だって、親が子を監視するシステムになってしまっている。
人間は、監視されるストレスによって体毛を失った。監視されることが大きなストレスになるくらい皮膚感覚が鋭敏な生き物なのだ。そしてそこからの解放として、衣装を生み出していった。
ストレスが大きいから、そこからの解放としてのよろこびも大きい。その解放の装置として、衣装が生まれてきた。
人間が群れをつくる生き物であるかぎり、ブラジャーとパンツはつけなければ解放されない。このブラジャーとパンツは、限度を超えて密集した群れの中に置かれてそのストレスに耐えて生きていることのあかしであり、そのストレスをみんなで共有しているという連携のあかしでもある。
衣装は、密集した群れの中に置かれてあることのストレスから解放される装置であり、解放されてあることのよろこびを共有してゆく装置でもある。だから、そういう「連携」として、「流行」という現象が生まれてくる。
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吉本さんは、「裸こそ衣装の根源であり究極である」といっておられるが、そうじゃないんだなあ、衣装の根源と究極は、「体毛」なのですよ。だから、もっとも現代的な衣装は、「通気性」や「保温性」を追求する。だから、もともと体毛が生えてないはずのおっぱいやペニスを隠す。そこは、人間のもっとも皮膚感覚の鋭敏な部分である。限度を超えて密集した群れの中に置かれていると、その部分がどんどん過敏になってゆく。だから、その部分をなだめるように衣装で覆っていった。これが、衣装の起源であり、究極である。
衣装は、体毛の代替であると同時に体毛を超えた存在でもある。
20万年前の極寒の地を生きたネアンデルタールという人類は、体毛を失ってでも密集した群れで生きようとした。密集した群れをつくれば、体毛を失っても生きられた。
人類の衣装は、体毛と引き換えに生まれてきた。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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