いまやもう、日本の未来がどうのといってられる場合じゃないでしょう。
日本なんか、滅びてしまってもいいですよ。
だからさ、マスコミも、いいかげん政府批判ばかりするのはやめようよ。あなたたちはそういって自己満足に浸れるのかもしれないけど、こんなときにマスコミがそんなことばかりいっていたら、民衆はますます不安になっていくんだよ。
そうやって政府の批判ばかりしていたら、被災地の人々は耐えられることにも耐えられなくなってしまう。何はともあれ政府はがんばってやっていると信じることができなければ、希望なんか持てないではないか。
報道とは、おまえらの自己満足のためにあるのか。
日本中がクレーマーになって、そのあげくにほんの小さな居心地の悪さにも耐えられなくなってしまっている。そうやって自殺者が年間3万人以上という事態を招き、常軌を逸した放射能恐怖が蔓延してしまった。そういうことにおまえらも片棒担いでいるのだぞ。
とりあえずがんばってもらうしかないじゃないか。こんなときでも、政争を煽って総選挙をさせたいのか。この非常事態に、おまえらみたいな小ざかしい連中の正論なんか聞きたくもないんだよ。
われわれはみんな、とりあえず今ここを生きてある。
今ここに必要なものだけは、なんとか調達するしかない。いちばん必要な心は、人と人がときめき合って助け合う心だろう。そういう心に水をさすようなことを、どうしていうんだ。
とりあえず今ここに深くときめいて生きていられたら、なんとかなる。生き物はみんなそうやって生きている。
人間だって生き物なんだもの、根源的には人間だってそれが生きることのささえになっているにちがいない。
正義づらして未来の日本のことを語られてもねえ、今それどころじゃないでしょう。
未来のことは、未来の人たちが決めればいいだけのこと、殺し合いの暗黒世界が出現するとしても、それもまた人間の可能性としてないわけではない。それがいいとか悪いとか、われわれに決める権利はない。
人間は、未来を予測する能力によって生きのびてきたのでもないし、その能力によって文化や文明を生み出してきたのでもない……僕はもう、世界中を敵にまわしてもそう言いたいですよ。
人間なんて、行き当たりばったりの生き物だ。ほかの動物以上に行き当たりばったりの心の動きを持っている生き物なのだ。行き当たりばったりの政治をして、何が悪い。非常時なんだもの、しょうがないじゃないか。おまえらみたいな部外者の薄っぺらな頭で、えらそうなことばかりいうな。おまえらのその頭で、未来の何がわかるというのか。何を決めるというのか。
今はもう、行き当たりばったりでがんばってみるしかないんだ。暴走もするし、逡巡することもあるだろう。情報は、二転三転する。何が正しいかなんて、誰にも決められない。ただの部外者が、結果論でえらそうなことをいうな。
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今ここであなたとエッチできるのならもう死んでもかまわない、と思えるのは、人間だけだろう。人間は行き当たりばったりの生き物だから、今ここのこの世界に深くときめき憑依してゆく、そんな心の動きが文化や文明を生み出してきたのであって、未来を予測する心の動きなんか、その結果として紡ぎだされているにすぎない。
未来を予測するから文化や文明が生まれてきたのではない、文化や文明によって未来を予測するようになってきただけのこと。
人間は今ここに深くときめき憑依してゆく存在であるがゆえに、必然的にその今ここに最初のときほどの感動がもてなくなり飽きてくるという心の動きも起きてくる。そうして、そのときめきを取り戻そうとして未来を意識しはじめる。
「人間は未来を追憶する」、とキルケゴールも言っている。
未来を予測するのは、失った今ここのときめきを取り戻そうとする心の動きなのだ。
はじめに今ここに対するときめきがあった。ここから歴史が動いてゆくのだ。未来を予測して動きはじめるのではない。
まあ、現実的な話をするなら、現在の被災地の人たちが今ここにおいて深くときめき合うという体験を心に刻むことができれば、それが未来を切り開いてゆくエネルギーにもなるのだろう。それこそが未来を切り開くためのエネルギーであって、未来を予測することなんかその次の問題にすぎない。
被災地の人々が今、のうてんきな未来の予測だの希望だのを語り合っているかといえば、そんなことはない。今ここの「嘆き」を共有してゆくことによってたがいの心を支えあっているのだ、と現地を訪れたあるジャーナリストがいっていた。
だからいったじゃないか。僕はずっといい続けてきたぞ。人間の根源的な連携は今ここの「嘆き」を共有してゆくことにある、と。そこにおいてこそよりダイナミックな連携が生まれてくる、と。
なにはともあれ、人と人の高度でダイナミックな連携がなければ何もはじまらない。それは、今ここにおいて「嘆き」を共有しながらときめき合う、という体験から生まれてくる。
人間の歴史は、今ここのこの世界にときめいてゆくという体験から文化や文明を生み出してきたのであって、未来を予測する小ざかしい「知能」とやらによるのではない。そんなことはもう、小ざかしいマスコミの連中に任せておけばいい。今ここのこの世界に対する深いときめきを体験できなくなっているものたちが、クレーマーになったり、未来を予測するなどというよけいなことをしはじめるのだ。
未来は、今ここと深くかかわった結果として見えてくるのであって、未来によって今ここのなすべきことが決定されているのではない。未来は、今ここで何をなすかによって決定されるのだ。
行き当たりばったりでがんばっているそのダイナミズムが未来を切り開くこともある。少なくとも、現在の緊急避難の事態においては、マスコミの連中の吐く小ざかしい正論なんかにかかわっている暇はない。腹をくくってやけくそでやるしかないのだ。
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原初の人類は、生きのびる能力を喪失して二本の足で立ち上がっていった。
それは、生きのびることを断念したのではない。そういう未来に対する意識などもっていなかったのであり、気づいたら喪失していたのだ。そして、喪失しても、それを忘れてしまうくらいの「今ここ」に対するときめきがあったのだ。
もともと生き物は「未来を予測する」などという意識とは無縁の存在だから、人類の直立二足歩行が実現したのだ。それは、「生きのびる」という未来を予測していたら実現するはずがない姿勢である。
アフリカのサバンナで、ライオンがシマウマを追いかけている。
シマウマは、みずからの「今ここ」を振り切りながら、全速力で逃げている。
ライオンは、けんめいにシマウマの「今ここ」に追いつこうとしている。
ライオンがシマウマを捕まえたのは、シマウマの走ってゆく未来を予測したからではなく、シマウマの「今ここ」に追いついたからだ。
生き物の意識は、つねに今ここから一瞬遅れて発生する。目がとらえた現在と脳がそれを画像として認識する現在とのあいだには一瞬のずれがある。
われわれが見ている目の前の世界は、つねに一瞬前の世界である。
もちろんそんなことを自覚している生き物などいないが、意識そのものが「今ここ」に追いつこうとするように発生しているのだ。
「今ここ」に追いつこうとして、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか空腹というような身体の「今ここ」を感じてゆく。
あるいは、「今ここ」の身体機能からそれを感じさせられる。
いずれにせよ、「今ここ」との関係として、「今ここ」から一瞬遅れて意識が発生する。
意識とは「今ここ」をとらえるはたらきであって、根源的には、未来を予測しようとするようなはたらきにはなっていない。もしも未来に向いていたら、「今ここ」の身体の変調に気付くことができない。
生き物の根源において、未来という時間など存在しない。
未来に対する意識は、人間特有の制度的な観念のはたらきにすぎない。
たとえば、拒食症のように空腹を感じなくなるのは、意識が未来に憑依してしまって「今ここ」をとらえることができなくなっているからだろう。そういう制度的現代的な観念の病なのだ。空腹のうっとうしさは、「今ここ」に憑依している状態である。そういう「今ここ」を拒否し、喪失している。意識は、食べる前から、すでに食べ終えた未来の満腹感に憑依してしまっている。
生き物は、「今ここ」の空腹のうっとうしさにせかされて物を食っているのであって、食いたいという未来に向かう衝動を本能として持っているのではない。未来に対する意識を持ってしまったら、食うことができなくなるのだ。そのとき意識は、うっとうしい「今ここ」を消去して穏やかな「今ここ」を取り戻そうとしている。それが、物を食う、ということだ。根源的にはうっとうしさを消去しようとする衝動であり、だからうっとうしさがなければ拒食症のように食べなくなってしまう。
うっとうしさを感じること、すなわち「いまここ」の嘆きこそこの生のダイナミズムを生み出しているのだ。
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運動神経とは、「今ここ」に対する敏感さのことである。未来を予測しようとする意識が強ければ強いほど、「今ここ」の体の動きは鈍くなる。
二本の足で立って歩くことは、ひとつの運動神経であり、刻々と変化する「今ここ」にときめき続ける体験である。
人間は、今ここに身を潜め、今ここに憑依しながら行き当たりばったりで生きてゆく。
過去も未来も忘れて、ひたすら今ここのときめきを生きようとする。
二本の足で立って歩くことは、今ここに緊急避難してゆく姿勢である。人間ほど深く今ここに憑依している生き物もいない。
運動神経とは、緊急避難の姿勢をつくるセンスのことである。
まあ、猿はもちろんのこと、犬やアライグマだって、緊急避難として、ときに二本の足で立ち上がるということをする。
しかし人間は、その緊急避難を常態化している。だから人は、世間のうっとうしさからの緊急避難の場である家に帰りたいと思うのだし、被災地の人々だって、今ここにとどまって生きようとする。緊急避難こそ人間の生きてあるかたちであり、快楽のかたちである。
人間は、緊急避難としてこの生を生きている。緊急避難として文化や文明を生み出してきたのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、未来など意識することなく、ひたすら今ここに憑依していった。生きのびることなんかどうでもいい、というかたちで立ち上がっていったのであり、今ここで消えてゆこうとしたのだ。
人間の快楽は、、今ここに消えてゆくことにある。蛇に睨まれた蛙にとっての緊急避難は、今ここに消えてゆくことにある。まあ、そのようなことだ。女のオルガスムスは、そのようにやってくる。
「隠れる」ということ、すなわち行き当たりばったりの緊急避難こそ、人間の根源的な生きる流儀である。
未来なんか予測しない生き物だから原初の人類は氷河期の極北の地にまで移住していったのだし、そんな住みにくい土地であろうと、今ここに憑依してゆくという緊急避難の心意気で住み着いていったのだ。
行き当たりばったりこそ、直立二足歩行のコンセプトなのだ。人間なんて行き当たりばったりの生き物であり、行き当たりばったりでなければ、生きてあることの醍醐味(快楽)は汲み上げられない。
行き当たりばったりの生き物だから「今ここ」に深くときめき合い、より高度な連携をつくり上げてきたのだ。未来を予測することによって高度な連携が生まれてくるのではない。たがいに深くときめきあっているから、より高度でダイナミックな連携になってゆくのだ。
人間は、二本の足で立ち上がることによって未来を予測する能力を獲得したのではない。より深く「今ここ」にときめき憑依してゆくようになったのだ。
人間にとって、生きてあることそれ自体が緊急避難の事態である。人間は緊急避難を生きようとする。だから人間はそうかんたんに滅びないのであり、そのようにして被災地の人々の多くが今なおそこにとどまっている。そして緊急避難において必要なのは、未来を予測することではなく、「今ここ」の世界や他者にときめきながらより高度で緊密な連携をつくってゆくことにある。そうやって人間は生きのびてきたのだ。
人間は、無力で大いに怖がる生き物であるが、同時にかんたんには滅びない生き物でもある。こんなにも決定的な災害に遭っても彼らはまだそこで立ち上がろうとしている。だから、お願いだから、ネアンデルタールは滅びた、などと無造作にいわないでいただきたい。
僕は、人間の人間たるゆえんにおいて、被災地の人々はきっとそこで立ち上がるだろうと信じているし、ネアンデルタールは滅びた、などというくだらない俗説は絶対に信じない。
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