とはいえ、政府はやっぱり無策なのでしょうね。かといって自民党ならちゃんとやるというわけでもないだろうし、とりあえず今の政府に頑張ってもらうしかない。
お任せします。
何をどうすればいいというようなことをいう趣味も能力もありません。
この国はあなたたちのものであって、僕のものではない。僕は、たんなるやっかいものの余剰人員です。この国の隅っこをお借りして、なんとか細々と生き延びさせていただいている身です。
出て行けといわれても行くところなどないけど、断る権利はないと思っています。
そんなわけで、いま被災地の人々がどのような思いで暮しておられるのか、ささやかに想像してみたりすること以外には、何もしておりません。
テレビも、積極的に見ようとはしておりません。
原発の映像も見飽きました。
もし見たい番組があるとすれば、たとえば、現地のだれか一人か数人を密着取材した1時間くらいのドキュメンタリーとか、そういう番組なら見てみたいと思わないでもありません。製作者の主観で5分くらいにまとめたものとか、そういうのではないですよ。どこで何を感じるかは人それぞれなのだから、あまり製作者の主観の入っていないきめ細かいドキュメンタリーが見てみたい。彼らの何気ない表情、しぐさ、会話、そんなようなものも、伝えてほしい。
おじいちゃんおばあちゃん、働き盛りの人、子供とお母さん、大学生、高校生、中学生、小学生、若い可愛い娘、少年少女、避難所にいる人、もとの家にいる人、ボランティアの人、自衛隊の人、津波の被災地の人、原発被害の人、いろんな人の1日や1週間があるでしょう。そういう人たちのきめ細かいドキュメントを流してくれたら、役立たずの傍観者である僕も、もうちょっとは切実になれるのかもしれない。
のうてんきに、いい加減に生きております。
というわけで、原初の人類の歴史について考えてみるだけです。
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人類が石を細工して石器を作るようになったのは、およそ200万年前ころからだろうといわれている。ちょうど人類の生息域がアフリカの外へと拡散していった時期と重なる。
石と石をぶつけあって刃物のよう形にして、肉を削り取る道具にする。こういうことは、チンパンジーでは考えつかないのだとか。
これは、出来上がりの形をイメージして作りだされたのか。
そうじゃない。
それをイメージできるのは、そういう道具を作ったか見たという経験がすでにあるからで、人類がだれもそういう石器を作ったことのない段階でそれをイメージすることはできるはずがない。
人間性の基礎は、未来を予測することでも、知能によってそうした象徴的な思考をすることでもない。そういう思考(知能)が契機になって人間的な文化や文明が生まれてきたのではない。
象徴的な思考によって言葉が生まれてきたのではない。人間は言葉によって言葉の象徴性(意味)に気づかされるのだ。根源的には、人は、意味なんか意識しないで言葉を発する。人と出会って「やあ」という。怖い目にあって「きゃあ」という。それらは意味として発せられるのではなく、感情のままに思わずこぼれてくる音声であり、その音声を聞いて、はじめて意味(象徴性)に気づいてゆく。
人間は、言葉によって象徴的な思考を獲得していったのであって、象徴的な思考によって言葉を生み出したのではない。このことを取り違えるべきではない。一般的には、結果でしかないことを原因であるかのようにいわれている。
思わず音声を発してしまうような「ときめき」、その音声に対する「ときめき」、そこから言葉の文化が生まれてきたのであって、象徴的思考をもったからではない。象徴的思考は、そのあとから生まれてきたにすぎない。
人類の歴史において文化や文明が生まれてきたのは、他者や世界対する「ときめき」であって、知能ではない。知能は、たんなる「結果」にすぎない。
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そのころ人類は、まだほかの猿とそう大差ない知能しかもっていなかった。
猿とそう大差ない知能なのに、それでも猿ではけっして生み出すことのできない石器を生み出したり、火を使用することを覚えていったのだ。
そのころ猿になくて人間にはあったアドバンテージとは何か。
それは、「今ここ」に深くときめき憑依してゆくメンタリティである。直立二足歩行を始めた人類は、このメンタリティを特化してゆくことによって猿と分かたれた。知能なんかではない。
300万年前から200万年前ころは、地球気候の緩やかな寒冷・乾燥化によって人類の生息域である森がしだいに縮小していった時期であり、しかもライバルの猿の群れがやってきて、さらに小さな森へと追いやられていた。そうやって小さな森にひしめき合って暮らすようになれば、余分な個体を追い出すということをしない習性の人類にとっての群れの鬱陶しさは切実になってくるし、ライバルから追われて移動してゆかねばならないという苦労も身にしみてくる。
直立二足歩行を始めて以来、アフリカの豊かな森で比較的平穏に3,400万年の歴史を歩んできた人類は、その間知能の進化も身体の進化もしなかったが、ここにきて今まで通りの安穏な生活をつづけてゆくことができなくなっていった。そういう状況から、人間的な石器の発明や火の使用などの文明が生まれてきたのだ。
群れが密集してくれば、タイトな連携が生まれてくる。そのタイトな連携は、人と人がたがいにときめき合ってゆくことの上に成り立っている。知能によるのではない。
ここにきて彼らは、世界や他者に対してより深く「ときめく」という心の動きを特化させていった。その心の動きから、猿にもまねできない人間的な新しい石器が生まれてきたのだ。
人間的な文化や文明の起源は、つねにこの「ときめく」という心の動きを契機としているのであって、知能ではないのだ。
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ただ石と石をぶつけあって遊んでいたら、偶然そのような剥片石器ができてしまった。
あらかじめ剥片石器をイメージしてそれを作ろうとしたのではない。人類はまだ、そんな象徴思考など持っていなかった。
ただもう石と石をぶつけあうことの面白さにときめいたのだ。
人間は、猿以上にそういう「ときめく」心を持っている。これが、人間性の基礎である。
人間性の基礎は「知能」とか「象徴思考」などという「労働」にあるのではない。「ときめく」という「遊び」にある。我々が生まれてきたことは、ただの遊びでありお祭りなのだ。「いかに生きるべきか」などということを問う労働ではない。遊びにこそ、人間の人間たるゆえんがある。
硬い石をぶつけ合っていれば、カチカチと面白い音がする。硬いものどうしをぶつけ合う手ごたえも面白い。そういう世界に対する「ときめき=好奇心」から石器が生まれてきたのだ。
そうして石の硬さと肉の柔らかさの対比に気付き、それを確かめるようにその石器で草食動物の肉をそいでいった。
その石器は、「今ここ」の世界により深くときめく心の動きから生まれてきたのであって、出来上がりの未来を予測したのではない。
文化や文明は、いつだってそういうところから生まれてくる。
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ニュートンが林檎の落ちるのを見て万有引力の法則を発見したのは、落ちるのを予測したからではない。それは予期せぬ出来事だったのであり、そのことに驚きときめいたから「なぜだろう」と思ったのだ。「なぜだろう」と思わなければ、そんな発見もない。
「なぜだろう」という「ときめき=好奇心」がなければ、文化や文明など生まれてこない。
まず石と石をぶつけ合うという「遊びの文化」が生まれ、そのあとに「石器という文明」が生まれてきた。
人間は言葉をもったからさまざまな文明を生み出すようになっていった、ということは多くの人類学者の語るところであるが、しかしその言葉は、「情報の伝達」という「労働」ではなく、あくまで他者やこの世界に「ときめく」という「遊び心」から生まれてきたのだ。
遊びとは、今ここの世界にときめき憑依してゆく行為である。人間の文化や文明はそこからはじまっているのであり、何はともあれ、まずはじめに「遊び」があった。それが、人間の歴史なのだ。
石器を生み出したのは、石と石をぶつけ合う「遊び」であって、道具を作ろうとする「労働」の意図によるのではない。原初の人類は、生き延びようとしたのではない。そんなことなど忘れて「今ここ」にときめき憑依していったのだ。
原初の人類の歴史を「生き延びる」とか「労働」とか「食糧確保」とか、そんなパラダイムで解こうとすると、全部間違う。既成の人類学の定説なんて、みんなそこのところでつまずいている。直立二足歩行する人間性の基礎は、そのようになっていない。
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太平洋戦争のあの手ひどい敗戦からでも復興したのだから、今回の東北の被災地もきっと復興するだろうといわれている。
それはそうだろう。しかしそれは、彼らが復興のヴィジョンを持っているからではない。人と人の緊密な連携を生み出す心の動きを体験しているからだ。それは、生きてあることの嘆きを共有しつつ、たがいにときめきあってゆくことにある。
あの陸前高田の浜辺に生き残った一本の松を見て彼らがどれほど深くときめいたかは、われわれにはわからない。
しかし、何はともあれ人類の文化や文明はそういう「ときめく」という心の動きから生まれてきたのであって、知能がどうの象徴化の思考がどうのとほざいているあほな人類学者にわかる話ではない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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