「核アレルギー」などという。
人間は、どうしてこんなにも放射能を怖がってしまうのだろうか。
われわれはもう、際限なく怖がってしまう。
そして、どうして人は被爆した人を差別的な視線で見てしまうのだろうか。
われわれは、被爆することがなんだか人間でなくなってしまうことであるかのような底知れない恐怖に駆られている。そういう恐怖によって被爆者を差別しているのだ。
直立二足歩行をはじめた原初の人類は、戦う能力も逃げる能力も喪失しながら、「隠れる」という習性を磨くことによって生きのびてきた。
しかし、見えない敵である放射能からは、隠れようがない。透明人間から隠れられないのと同じである。そのようにして放射能は、人間存在の根源的な「隠れる」という根拠を蹂躙してくる。
さらに、その見えない敵から受けるわれわれのダメージも、直接的に目に見えたり痛みとして自覚されるのではなく、目に見えない身体内部のいちばん深いところで、しかも決定的なかたちで蹂躙されなければならない。気づいたときはもう手遅れで、そのダメージは死ぬまで消えない。
われわれは、被爆者を不具者のように見ている。そういう差別意識があるから、なお常軌を逸して放射能を怖がってしまう。
原発は安全である、といっても、なんの役にも立たない。そこに放射能が存在するということそれ自体にわれわれは、深く根源的に怖がっている。
今回のような事故があると、そのことをあらためて思い知らされる。
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直立二足歩行する猿である人間は、根源的に怖がる生き物として存在している。
原子力は、怖がる生き物である人間がもっとも持ってはいけないものであると同時に、因果なことにわれわれは、その怖がるということから快楽を汲み上げてゆく生き物でもある。
日本が被爆国だからというような、そんな単純な問題ではない。原発に対しては、ヨーロッパ先進国のほうがもっと神経質である。
人間にとっての根源的な恐怖は、死が怖いとか闇が怖いとか、そんなことではない。
人間は、ほかの動物以上に生きてあることを自覚している生き物である。だったら、生きてあることができない、ということが怖いのだろう。生きてあることができない状態で生きてあることが怖いのだろう。
被爆すれば、生きてあることができない状態で生きねばならない。そうやって人間ではなくなってしまうかのように思えてくる恐怖がある。だから被爆者は、ひどく憐れまなければならないし、差別されなければならない。
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つまりこの恐怖は、根源的な恐怖であると同時に、社会的な共同幻想でもある。
共同体にとっての社会という身体は人間の意志で運営されている、と合意されている。そしてそういう社会の中の個人もまた、誰もが、みずからの意思によって身体を支配している、という意識を共同幻想として共有している。
放射能は、そういう社会的合意(共同幻想)を、決定的に蹂躙してくる。いったん被爆してしまえば、もう自分の意思ではどうもならないどころか、子や孫にまで遺伝してゆく。もう、みずからの意思で身体を支配しコントロールしながら生きてゆくということができなくなってしまう。
放射能によって、現代人のこの生の根拠が決定的に蹂躙される。いったん被爆すれば、われわれはもはや人間であることができなくなってしまう。
つまり現代人は、そういう共同幻想のぶんだけ被爆することを怖がってしまうし、そういう共同幻想のぶんだけ原子力をコントロールできると思っているし、コントロールしたがっている。
このへんがやっかいなところだ。
僕は、原発賛成派でも反対派でもない。僕はこの世の中にぶら下がって生きているだけで、この世の中を動かしている一員だとは思っていない。おとなしくついてゆくから、そういうことは皆さんで決めていただきたい。
ただ、現代人はどうしてこんなにも原発をつくりたがり、どうしてこんなにも怖がってしまうのだろうと言うことが気になるのだ。
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原発は、現代の「神」であるのだろうか。
それは、人智を超えて存在している。その発電能力はもう神の領域だし、人間の根源的な怖れや畏れを呼びさます見えない相手でもある。
われわれは、放射能の有効性に目覚めれば目覚めるほど、放射能に対する恐怖も抜き差しならないものになってゆく。
原発がどんなに安全な装置であっても、われわれの恐怖はなくならないし、さらに増すばかりだろう。
原発が有用であるというそのことが、われわれの恐怖を培養している。原発によって豊かな繁栄した社会をつくれば、われわれはますます危機それ自体を生きる心のダイナミズムを喪失してゆき、ますます放射能に対する恐怖を募らせてゆく。
その「神」としての威力によってわれわれは、人間であることのダイナミズムを獲得し、同時に人間であることの心のダイナミズムを奪われ続けている。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、危機を生きる心のダイナミズムを体験していった。そして今、現代人は、原発によってその心の動きを失い、もはや繁栄の中でしか生きられなくなってしまっている。繁栄の中でしか生きられない制度的な心だから、際限なく放射能を怖がってしまう。何はともあれその恐怖は、根源的であると同時に、共同性・制度性の病でもある。
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チェルノブイリ周辺に暮らしていた農民は、ゲストである報道関係者には安全な缶詰の食事を提供しながら、自分たちは自分たちがつくった放射能汚染された野菜を食べてその場をしのいでいたのだとか。
この世に生まれてきたことは、どうせいっときのお祭りだ。百年生きようと五十年で死のうと、そうたいした違いはない。「今ここ」がお祭りであればそれでいい……そういうダイナミズムをわれわれはすでに失っているし、原発の事故現場で働いている人たちや東北大震災の被災地で身を寄せ合って生きている人たちはそれを体験している。そういうダイナミズムこそが、原初の人類が二本の足で立ち上がることによって体験した人間性の根源なのだ。
人間は今ここに住み着こうとする生き物である。そうやって今ここに隠れてしまおうとするのが人間の根源的な習性であり、今ここに隠れて危機それ自体を生きようとするのだ。
原発事故の現場で働く人々は「今ここの危機」にもぐりこんで、危機それ自体を生きようとしている。そうしてその周辺の住民は、安全なところに避難せよと日本中から煽られ続けている。いまや、日本中で放射能におびえきった声がこだましている。
現在、人の心のもっとも原初的でダイナミックな連携と、もっとも現代的な退廃(衰弱)とが同時に起きている。
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