生きてゆくのに必要なのは、食い物だけではない。食い物もその一部にすぎない。
ようするに、生きてあることの居心地の悪さをどう処理してゆくかということ。空腹であることもそのひとつにすぎない。われわれは一日中食っているわけではないし、食えば空腹のうっとうしさはひとまずおさまるが、人と人の関係などの心の居心地の悪さは、一日中、ときにいつまでもついてまわる。
「生きられる意識」とは物を食おうとする意識(食糧補給の意識)である、と限定してしまうわけにはいかない。物を食おうとする意識とは、生きてあることの居心地の悪さを処理しようとする意識のひとつにすぎない。
生きてあることはもともと居心地の悪いことであり、その難儀を処理してゆくことが生きるいとなみになっている。難儀を処理する能力が生きる能力である。とすれば、人間という猿が「二本の足で立つ」という難儀を引き受けてしまったのも、それはそれで生きてあることの自然な成り行きであるともいえる。
難儀を引き受けながらこの生が充実してゆくのであり、それが生き物の行動様式だ。
生きていれば、細胞のはたらきによって、痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、そういう居心地の悪さが不可避的に起きてきて、われわれはたえずそれを処理しながら生きている。
われわれは、四六時中居心地の悪さにつきまとわれており、その居心地の悪さを処理してゆくことが生きるエネルギーになり、生きる醍醐味になっている。
生きてあることは居心地の悪いことであり、居心地の悪さを引き受けることが生きることだ。だから人間は、二本の足で立ち上がった。
二本の足で立ち上がることは、居心地の悪さを引き受けている姿勢である。
人間は、ほかの動物以上に難儀を引き受けてしまう生き物なのだ。そこから、生きてあることの醍醐味が生まれてくる。
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今回の東北地震の被災地に残って身を寄せ合って生きている人たちがたくさんいる。
安全な場所にいるあなたたちは、そのことに対する感動はないか。人間というのはせつない生き物だなあ、とは思わないか。
さっさと疎開すればいいのに、と思うだけか。
疎開すれば問題はすべて解決すると思っているのか。
そんなことですめば、ネアンデルタール=クロマニヨンは氷河期の極北の地に住み着いたりなんかしなかったし、現在の北極近くのエスキモーもいるはずがない。
人間は、危機(居心地の悪さ)それ自体を生きようとする。彼らの「今ここ」にも希望と充実がある。危機それ自体を生きるものこそが、もっとも深い生きてあることの醍醐味を知っている。
人間が、避難すれば万々歳の生き物なら、福島の原発事故の現場で必死に働いている人たちもいない。おまえら、彼らが金目当てだけで働いていると思うのか。ただのヒューマニズムや使命感だけでもない。人間としてのどうしようもない昂揚感から逃れられない、ということもある。彼らがどうしてあんなにも勇敢にがんばってしまうのか、おまえらの薄っぺらで人間離れした脳みそでは永久にわからない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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