直立二足歩行の起源を問うことは、人間の根源にある「弱さ」について考えることでもある。
弱い生き物は、自分のまわりの世界に対して敏感でなければ生きられない。
強い生き物なら、多少は鈍感でも生きられる。
直立二足歩行する人間は弱い生き物だから、世界や他者に対してどんどん敏感になっていった。
二本の足で立ち上がって見晴らしがよくなったから敏感になっていったのではない、それによって動物としての身体能力を失って弱い生き物になってしまったからだ。
最初から弱いのとはまた違う。最初から弱いのなら、それを当たり前のこととして生きてゆく。しかし人間の場合は、二本の足で立ち上がることによって、ほんらいの自分の能力を失ってさらに弱くなったのだ。だから、どうしても自分の「弱さ」に対して自覚的にならざるをえない。自覚的だから、世界に対してより敏感にもなり、怖がるようにもなっていったのだ。
そういう今ここのこの世界に対する敏感さが、人間を生かしもするし生きられなくもさせている。
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蛇を前にした蛙は、「食べられる」という未来を予測するのか。
そうではあるまい。
その蛙は、そんな経験などしたことがないし、たぶん仲間が食べられる現場を見たこともない。
蛙には蛇を見たら怖がるような心の動きが遺伝子の中に組み込まれている、などといってしまえば話は簡単だが、僕は信じない。
そのとき蛙は、「食べられる」という未来を予測しているのではない。
われわれ人間だって、蛇に食べられる心配などないのに、蛇を見ればどうしようもなく怖がってしまう。そういう根源的な恐怖がある。われわれは、そういう怖がる生き物である。
それは、「今ここ」の存在の根拠が揺らいでいるという恐怖であって、「食べられる」であろう未来のこととは関係ない。
「死ぬ」ことが怖いのではなく、「生きられない」ことが怖いのだ。
死ぬことなど知らない生き物でも「生きられない」という感覚は持つことができる。それがたぶん恐怖という心の動きであるのだろう。
生まれて間もない子犬は死など知るよしもないはずだが、とても怖がる。死を知らない子犬ほど怖がる。
生き物は、死を予測するから怖がるのではない。
「生きられない」から怖いのだ。
「死ぬ」ことと「生きられない」こととは、また別の問題である。
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物を食えば生きられる。
しかしそれを食うためには、それを実在する「物」であると認識していなければならない。それではじめて食うことができる。
「生きられる意識」とは、この世界の実在感をありありと感じることのできる意識のことをいう。そこからしかこの生ははじまらない。
では、どうすればいきいきと感じることができるのか。
実在感を感じるためには、実在しない、ということを知っていなければならない。
実在するとは、実在しないのではない、という意識である。
生き物は、まず「実在しない」という認識を体験する。
生まれたばかりの赤ん坊は、まず身体のまわりの「何もない空間(=空気)」に気づく。ここからわれわれの生がはじまっている。この体験を基礎として持っているから、この世界の実在感をありありと感じるようになってゆく。
生まれたばかりの人間の赤ん坊は、無力である。見ることも体をうまく動かすこともできない。そんな存在にとって、体のまわりに空間があることがどれほど恐怖であるか。だから、抱きしめられて空間をふさいでもらうと落ち着いて泣き止む。そしてだからこそ、どんどん空間に対して敏感になってゆく。体が動くようになってくれば、空間があることがよろこびにもなる。しかしそれは、空間を恐怖したトラウマを抱えているからであり、そういう弱い生き物としてわれわれは生きている。
赤ん坊にとって二本の足で立ち上がることは、身体のまわりの空間と和解してゆく喜びである。彼らが、その瞬間、どれほどうれしそうな顔をするか。
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はじめに「ない」と認識し、そのあとに「ないではない」という認識を身につけてゆく。
生まれた直後に「ない(=空間)」という意識を持った赤ん坊は、そのあとお母さんのおっぱいに触れて、「ないではない」と気づく。これが、最初の実在感の体験である。
実在感、すなわち「ないではない」と認識することは、ひとつの違和感である。
違和感の究極は、「感動」であると同時に「恐怖」でもある。感動と恐怖は一枚のカードの裏表であり、だから遊園地にはジェットコースターやお化け屋敷がある。
われわれは、違和感としてこの世界の実在感を認識している。
恐怖とはこの世界に対する違和感のことであって、身体維持の本能なんかではない。
弱いものほど、この世界の実在感をひとつの違和感としてありありと感じている。
弱い子犬や人間の赤ん坊のほうが、ずっとリアルにこの世界の実在感を感じて生きている。
原初の人類は、直立二足歩行をはじめることによって、チンパンジーより弱い猿になった。
弱い猿になったことによって、怖がる生き物になったし、この世界の実在感をありありと感じるようにもなった。
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人間は、怖がる生き物である。人間の赤ん坊は、恐怖の叫び声を上げながら育ってゆく。そうしてその代償として、この世界の実在感をありありと感じる能力を身につけてゆく。
しかし、怖がりすぎると、感じるまいとして自分の世界に引きこもってしまう。
それがトラウマにならないていどに怖がるというのも、なかなか難しい按配である。
人間の親は、そういう綱渡りのような子育てをしなければならない。
綱渡りなんか、めったに成功しない。誰もがどこかしらで自分の世界に引きこもって自分を守ろうとする部分を持っている。おそらく人類社会の家族という単位は、そのように子育てに失敗した結果として生まれてきたのであり、家族によって人は、自分の世界に閉じこもる非常手段を身につけてゆく。
人間社会にもともと「家族」などという単位はなかった。しかし共同体という制度が生まれてくれば、そこからの監視から守ってやらないと子供は育ってゆくことができなくなってきた。その装置として家族が生まれ、家族によって子供は、「自意識=自我」という自分の世界に引きこもる防御手段を身につけてゆく。西洋のような核家族で育った子供の自意識は強いし、この国の昔の子供のような風通しのよい大家族制度のもとでの自意識は薄いまま育ってゆく。
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タイトな家族であればあるほど、子供の自意識は強くなってゆく。
現代社会の「引きこもり」は、戦後の「核家族」が生み出した。それは、核家族に囲い込まれてこの世界や人間関係の実在感(生々しさ)を感じないまま育ってきた子供が家の外に出てその実在感(なまなましさ)と出会って恐怖し、また家の中に引き返してくる、という現象であろう。
「実在感(生々しさ)」に耐えられないのは、それを拒否する習性を持つように育てられてしまったからだ。もちろんその責任は、親だけにあるのではなく、この社会や時代そのものがそういう構造になっているからだろう。
現代社会の人と人の関係は、必要以上に生々しくなっている。共同体の権力は、人々の一挙手一投足まで監視しようとするし、学校も「教育という美名のもとに生徒に対して多大の圧力をかけている。そして誰もが平気で政治の批判をし、学校や居酒屋では手に負えないクレーマーになる。これだって、この世界や人と人の関係の生々しさに耐えられなくていらだっている行動だろう。
直立二足歩行のコンセプトである「他者の身体とのあいだに空間(すきま)をつくる」ということができていないからだ。
大人たちがみんなしてこんな生々しいことばかりやっている世の中なのだもの、子供や若者だってニートや引きこもりになるさ。みんな、人に対してなれなれしすぎるのだ。こうした心の動きは、原初の直立二足歩行前夜の、群れの中で体をぶつけ合っている状態と同じである。現代文明は発達しても、生き物としての根源的な生態においては、そんなレベルまで後退してしまっている。
人間は、危機に対して、戦う能力も、するりと身をかわして逃げる敏捷さもない。直立二足歩行する人間は、隠れ場所にじっと身を潜めていることしかできない。それが人間の本能で、そういうことは、今回の東北地震でよくわかったはずだ。学校やこの社会で傷ついた若者だって、そのようにして自分の部屋に引きこもっている。
われわれの心の動きの根源は、「人間は弱い生き物であり、怖がる生き物である」ということの上に成り立っている。
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われわれにとって、危機を回避し危機に耐えられる「生きられる意識」とはどういうかたちのものだろうか。
直立二足歩行する人間には、危機を回避し危機に耐える能力などない。だから、危機でもないのに浅ましくカップラーメンやトイレットペーパーの買いだめに走らねばならない。
人間にできるのは、危機を忘れてしまう心を持つことだけである。そうやって、弱い生き物として危機それ自体を生きてきたのが人間の歴史なのだ。
人間の目の前に、この世界がありありとした実在感を持って生々しくたち現われることはもう、避けられないのだ。その実在感にときめいてゆく姿勢として直立二足歩行の姿勢を見出し、危機であることの自覚を忘れていったのだ。
二本の足で立ち上がることは、動物としての身体能力を喪失しつつ体の正面の急所を外にさらしてしまうという、生き物のとしての危機の中に置かれる姿勢である。しかしそれによって人間は、たがいの身体のあいだに「空間(すきま)」を確保し合い、たがいの危機を忘れた。そうして、たがいにその実在感にときめいていった。
人と人は、たがいにときめき合う装置としてたがいの身体のあいだの「空間(すきま)」を見出し、たがいにこの「空間(すきま)」を祝福し合っている。人は、この「空間(すきま)」に憑依してゆくことによって、みずからの身体の危機を忘れる。
われわれは、この「空間(すきま)」に言葉を投げ入れ合い、この「空間(すきま)」を祝福し合っている。
われわれの祖先は、干渉し合いくっつき合う関係の生々しさを嫌って二本の足で立ち上がった。
なのに今また、直立二足歩行前夜のようなくっつき合う社会をつくってしまっている。若者たちは、そういう関係を嫌って引きこもるのだ。
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人が「もう生きられない」と絶望するとき、たいていの場合、人との関係に追いつめられている。人間を生きさせるのも、生きることができなくさせるのも、人と人の関係である。
原初の人類は、人と人の関係として二本の足で立ち上がったのだ。したがって「生きられる意識」は、その上に成り立っている。人間は、そういう生き物なのだ、たぶん。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって弱い生き物になった。しかしそれによって、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保し、たがいにときめき合う関係をつくっていった。
ときめき合いながら、より高度な連携の能力を獲得しつつ、文化や文明を生み出していった。
人間的な高度な連携の基礎には、より深くたがいにときめき合う生き物であるということがあり、すなわちそれは、より深く怖がるがゆえによりダイナミックに今ここのこの世界の実在感を感じる生き物になったということでもある。
現在の東北地震を被災した人たちにとってのもっとも基礎的な「生きられる意識」は、明日への希望とかそんなことではなく、人と人がより深くときめき合う人間的な連携にある。そしてそれは、今ここの現地の人と人の関係の中から生まれてくる。悲嘆に暮れる弱い生き物どうしの共感の中にある。
安全な立場に身を置いているものたちのボランティアなどという善行によって与えられるのではない。
だから「疎開してこい、そしたら助けてやる」などと、何様のつもりか知らないがそんなえらそげでくだらないことは言うな。このばかどもめ。
何はともあれ、みんなして今ここのこの場で立ち上がってゆくことができるのなら、それがいちばんなのだ。人間の直立二足歩行は、そのようにして生まれてきた姿勢なのだから。
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