生き物は、どのように危機を回避しているのか。
原始人にとって氷河期の極北の地を生きることは、毎日が命の危機だったはずだ。もともと南方種である人類がどうしてそんな苛酷な環境の中を生きることかができたのか、ほとんで奇跡的だといえる。何を好きこのんでそんな地から離れなかったのか。彼らは、危機を回避しなかった。危機それ自体を生きていた。
人間は、危機を回避する生き物ではない。危機を回避する能力のない弱い猿として歴史をはじめたのであり、危機を回避するのではなく、危機を忘れて危機それ自体を生きる歴史を歩んできたのだ。
いいのか悪いのかわからないが、そういう「危機を忘れて危機それ自体を生きることができる」という人間性にかこつけて原子力発電が成り立っているのだろうし、われわれが煙草を吸うことだってまあそのようなことだ。
人間は、ただ危機を回避すればいいというような生き方はしない。危機それ自体を生きることが生きることの醍醐味になっている部分もある。だからネアンデルタールは、氷河期の極北の地を生きた。しかしそれは、強いからじゃない、危機を回避する能力を持たないから、危機を忘れて危機それ自体を生きるようになっていったのだ。
そりゃあ、危機の中を生きることはつらい。それでも危機の中を生きようとしてしまうのが人間であり、おそらくそこにこそさらに深い生きてあるこの醍醐味がある。そこでこそ、さらに深い味わいの人と人の関係が生まれる。
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今回の地震の被災地の人たちは、それでも今なお危機それ自体を生きている。ここまでくればもう略奪や暴動が起きても仕方ない状態なのに、そんな話は聞かない。こんなふうに生きることができるのは、日本人のほかにはそうそういないのかもしれない。彼らは、人間の根源を生きている。
関西地方の安全な地に住む内田樹という知識人が、「疎開のすすめ」と題して、疎開してくればうちの大学で引き受けてやる、などとえらそうなことを言っておられた。ボランティアだかなんだか知らないが、自分たちの優越感を満足させるためにそういう提案をするなんて、お前らそれでも人間か。殺意すら覚える。他人なんか自分のおもちゃだというくらいにしか考えていない。
疎開することによって壊れてしまう心だってある。戦時中の疎開児童たちがどれだけ人間として多くのものを失ったか。ひとまずそういう想像もしてみろよ。
身も凍るような恐怖の中を潜り抜けてやっと再会した人たちの連帯感を容赦なく引き裂くような調子で、疎開すればいい、だなんて、よくそんな無神経なことがいえるものだ。
あなたには、危機を生きる人に対する敬意というものはないのか。自分が人間のスタンダードのつもりだろうが、人間であることの根源は、あなたみたいな危機を生きることができない鈍感な人間のもとにあるのではない。「今ここ」の危機それ自体を生きる人間としての深い感慨は、あなたなんぞにはわからない。人間に対する想像力がなさ過ぎるんだよ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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