いろんな問題が錯綜して、このブログの書きざまもあっちに行ったりこっちに行ったりして読みづらいだろうが、どうか堪忍していただきたい。
まったく、この社会の常識は気に入らないことだらけだ。われわれはこんな愚痴を、共同体(国家)の発生以来何千年もずっと繰り返してきている。
われわれは、人間についての考え方を根本的に再編成してゆかないといけない。人類学者の説く原始人像なんて、愚劣な嘘っぱちばかりだ。そしてそれは、われわれが今ここにどのようにして生きてあるのかという既成の認識(=常識)が愚劣な嘘っぱちばかりだ、ということでもある。
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他者の存在に深く気づき感じること、これによって人類の集団は大きくなってきた。
そういう心の動きが極まって、気がついたら集団が大きくなっていた。集団を大きくしようとする計画があったのではない。
人と人の関係の基本というなら、まあそういうところにあるのだろう。
『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏は、その中で、人類の文化が発展してきた原動力は「未来に対する計画性」にある、とえらそげに何度も繰り返しておられる。この国の人類学者なんか、こんなアホばっかなんだよね。できることなら、この人とこの問題について議論してみたいものだと思う。こんな程度の低いいい加減な解釈がのさばってこの国の人類学をリードしていていいわけないだろう。西洋人の受け売りばかりじゃない、もうちょっとましな議論をしようよ。
人類の文化を生み出してきたのは「未来に対する計画性」なんかではない。人間は、根源的には、未来を予測などしないし、計画も立てない。人間性の根源は、「今ここ」を味わいつくそうとすることにある。それが、命のはたらきの根源的なかたちでもある。
人間であれ、すべての生き物は、「今ここ」を味わいつくそうとしたことの「結果」として、未来に立たされるだけのこと。
人は根源において、未来の成功を望んでいるのではない。どうしようもなく「今ここ」に引きずられてしまう部分をどこかしらに抱えている。そうして、われわれは、へまばかりしている。
われわれの人生も、人類の歴史も、べつに計画通りに進んでいるわけではないし、計画ばかりたてているわけでもない。おおかたは「なりゆき」なのだ。朝起きて歯を磨くことは、10パーセントの計画と90パーセントの習慣(なりゆき)で成り立っている。べつに、磨きたいわけでも、磨こうと意気込んでいるわけでもない。それは、「今ここ」にまとわりついたたんなる気配(なりゆき)にすぎない。
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ネアンデルタールであれクロマニヨンであれ、けんめいに「今ここ」を味わい尽くして生きていたのだ。
そりゃあ、「未来に対する計画力」なら、現代人の方がはるかに熱心で優れているだろう。それが知能の本質であるなら、原始人より現代人の知能の方がはるかに優れていることになる。彼ら人類学者は、そうやって他人を見下し、原始人を見下している。あんまり人をなめたようなことばかり言うな、と思う。そんなことは知能や知性の本質でもなんでもない。人間と猿とを分つ人間的な知能や知性は、この世界や他者に深く気づいてゆくことにある。その心の動きをして、知能とか知性というのだ。そして深く気づけば気づくほど、心は「今ここ」にとどめ置かれる。そうやってより深く「今ここ」を味わい尽くしてゆくことこそ、人間的な知能であり知性なのだ。
そしてその、世界や他者に深く気づいてゆく知能や知性において、現代人より原始人の方が劣っていたとはいえない。いやむしろ、原始人の方が「未来に対する計画力」が希薄であったそのぶんだけ、より深く世界や他者に気づき「今ここ」を味わいつくしていたともいえる。
われわれは、現代社会の情報の氾濫にまきこまれながら、みずから気づき感じる知性が鈍磨しはじめている。
「未来に対する計画力」なんて、現代社会のたんなる制度的な観念のはたらきにすぎない。そんなものは、知能でも知性でもない。そんなものを知能だとか知性だと思い込んでいる人類学者たちの薄っぺら脳みそには、ほんとにうんざりさせられる。
より深く世界や他者に気づいているものは、避けがたく「今ここ」にとどめ置かれ、「今ここ」を味わいつくしている。
意識は根源において、未来を予測しない。
ネアンデルタールやクロマニヨンは、あまり未来など予測しなかった。基本的には、ひたすら「今ここ」を味わいつくしていた。彼らが「三日したら雨が降りそうだ」と思ったとしても、それはあくまで「今ここ」に対する反応であり、「三日したら」は、過去の記憶にすぎない。彼らは、そういうかたちで深く「今ここ」に反応しながら暮らしていた。
ネアンデルタールは、わりと場当たり的な狩猟をしていたらしい。人類学者はそれを知能が劣っていたからだというのだが、そうじゃない、それほどに「今ここ」を味わい尽くして生きていたからだ。
現代人の制度的な観念を物差しにして原始人を見下すようなことを言ってもしょうがない。現代にだって、行き当たりばったりで生きている若者はいくらでもいる。それはべつに彼らの知能が低いからではない。彼らは、ちょっとだけ人よりも深く豊かに「いまここ」の世界や他者にときめいてしまう傾向があるだけのこと。
現代人は、どうして未来を語ることにはにかみがないのだろう。そのことの方が、よほど不思議なことだ。
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未来を計画することが知能であるのではない。原始人は、弱い猿としてけんめいに「今ここ」を生きた。
「今ここ」を生きるとは、「今ここ」に深く気づき感じることである。その心の動きが極まって、人間的な文化や文明が生まれてきたのだ。
他者に伝えようとすることは、未来を計画する心の動きであろう。しかしそんなことは、猿でもカラスでもしている。人間の人間であるゆえんは、「今ここ」の世界や他者に深く気づき感じてゆくことにある。
人間は、たとえ未来を計画しても、「今ここ」を味わいつくすことをしなければ生きた心地は得られない。男と女の関係は、未来を計画するという制度的な観念ではすまない。結婚という制度は男と女の関係に制度的な観念を付与してゆくものだろうが、だからこそ結婚制度がなかった原始時代は純粋な男と女の関係があったともいえる。
氷河期のネアンデルタール人の社会での乳幼児の死亡率はきわめて高く、女たちが次々に子供を産んでいかないと集団の人口の維持はできなかった。女たちはいつまでも産んだ子の育児にかまっていられなかったし、自分の子供だという意識を持ち過ぎるとそのぶん死んでしまった子供に対する悲しみも耐え難いものになってしまう。だから、子供は、集団の共有のものとして育てた。
ネアンデルタール人の社会に「家族」という制度はなかった。
彼らの男女の関係は、流動的だった(乱婚=フリーセックス)。誰が父親かということなどわからなかった。家族がないのだから、それでよかった。男たちに父親という意識はなかったし、女たちも母親という自覚をなるべく薄くして、大人たちの誰もが人と人として子供と向き合っていた。
誰もが「今ここ」の人と人として関係を結んでいる社会だった。彼らの社会では、乳幼児の死亡率は高かったし、大人たちも30数年しか生きられなかったから、未来を約束された関係はイメージできなかった。彼らに、未来はなかった。「今ここ」を味わいつくすことが、彼らの生きる作法だった。
人がかんたんに死んでしまう社会では、婚姻制度や家族制度などつくりようがなかった。
しかも男女がつねに抱きしめ合い、たくさんセックスし、たくさん子供を生み続けてゆく社会だったのだから、とうぜん男と女の関係も、純粋で根源的なかたちの文化が生まれてきたはずである。
それはおそらく。「今ここ」の出会いのときめきを止揚してゆく、という文化であったはずだ。そういうところから「恋心=セックスアピール」の文化が生まれてきた。
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