やまとことばと原始言語 4・家族を守るために、だってさ

高橋源一郎という人は、ある酒場で、「おまえには国のために戦う気概がない」とからんできた見知らぬ酔っ払い客に対して「僕は家族を守るために命を投げ出す用意はあるが、国のために戦う趣味はない。そんな個人的な趣味をこっちに押し付けてくるな」と大見得きったのだそうです。
かっこいいですね。
だけど、「家族を守るためには命を投げ出す」ということは、家族を守れる自信がある、ということですかね。
僕にはそんな自信なんかありませんよ。敵の軍隊が我が家の前にやってきたとき、どうやって守るんですか。せいぜい自分が一番先に殺される役目を引き受けることができるくらいのことで、守ることなんかできないですよ。
人間の長い戦争の歴史において、家族を守れなかったお父さんは、もう無数にいるわけですよ。そういうお父さんたちの無念のことを思うのなら、たかが一介の文弱の徒が、「家族を守るためには命を投げ出す」などというきれいごとの言葉に酔っているなんて、うんざりするくらいグロテスクですよ。そういうかっこつけた物言いは、かつて家族の命を守れなかった無数のお父さんに対して失礼ですよ。いい気になって自分の正当性ばかりまさぐっているんじゃないよ、と言いたいですよ。おまえは、そんなに強くて立派な人間なのか。おまえは、家族の命を守るために、家に機関銃や手榴弾や戦車を用意して、毎日その扱いに習熟するための訓練をしているのか。毎日腕立て伏せ百回やっているのか。毎日うまいもの食って呑んだくれているやつが偉そうなことをいってんじゃないよ。
僕は「家族を守るためには命を投げ出す」ということなんかできないですよ。ただ、年からいっても、人間としての値打ちのなさからいっても、自分がいちばん先に殺されるのが順当かな、と思うだけです。そしてそれだって、いざとなったらどうなるかわかりません。死ぬことなんか怖いもの。でもまあ、僕がいちばん先に殺されるのがいちばん自然な成り行きであることはたしかだ、といまのところは思っているだけです。先のことなんか、わかりません。
戦争というのは、そういうものでしょう。「家族を守るためなら命を投げ出す」と言ってりゃ守れるような、そんな甘いものじゃないでしょう。命を投げ出しても守れないのが戦争でしょう。
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実際問題として、「家族を守るために命を投げ出す」と言ってかっこつけてる小説家より、「国のためにがんばる」という兵士の方がずっと勇敢なのですよ。
人間は、「家族のために」と言っているより、「国のために」と言っているほうがずっと勇敢に命を投げ出すことができる。残念ながら、人の心の動きは、そのようにできているのだ。
なぜなら、家族はいずれ壊れてゆくものだし、国は、そう簡単には壊れないものだからだ。
ユダヤ人の国家なんか、二千年の離散(ディアスポラ)を経てもまだ壊れていない。人々の国を壊すまいという衝動は、それほどに強い。
国が壊されるということは、言葉を奪われることである。言葉を奪われるということは、生きることがスムーズにできなくなってしまうことである。人と人の関係がスムーズではなくなってしまうことである。
人と人の関係は、言葉を共有してゆくことによって成り立っている。それは、心を共有することでもある。人は、言葉を介して他者と心を共有してゆくことによって、生きた心地を汲み上げている。
日本人は、日本語によって心が動いてゆく。日本語を失えば、うまく心が動かない。心の動きが変わってしまう。心を失ってしまう。ことばを失うというのは、それほど怖いことだ。人間は、人と人の関係がうまくいかないことがいちばんつらい。それが、人を生かしている。それを失うことの恐怖がある。
人間は、食い物がなくなることより、人と人の関係がうまくいかないときにいちばんうろたえ、ヒステリーを起こしたり病気になったりしてしまうのだ。
そのための機能として「ことば」がある。
国を失うことは、ことばを失うことである。だから人は、国のために戦うときにこそもっとも勇敢に命を投げ出す。
「家族を守るために」という勇敢さなんかたかが知れているのである。そんなフレーズでかっこつけているなんて、けちくさいだけだ。おまえらの考えることは、貧乏たらしいんだよ。
内田樹先生は、「臆病な人間が、国から見捨てられ罰せられる恐怖に駆られて<国のために戦う>といっているだけだ」とバカにしきったようなことをいっておられるが、そういうことじゃないんだなあ。もっと人間の根源に迫ろうとする視線を持ちなさいよ。脳みそ薄っぺらなんだから。
だからといって僕は、国のために戦えなどというつもりもないですよ。個人的には、国なんか滅びてもかまわないと思っている。だけど、もし戦争になったら、若者は、避けがたく懸命にお国のために戦ってしまうという現実がある。それはげんみつには国のためではなく、言葉のためであり、人間としての根拠を揺さぶられる動機があるからだ、といいたいわけです。
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高橋源一郎という人は何度も離婚と再婚を繰り返してきたらしいが、そういう男が、こんなことを言うかねえ。家族はいずれ壊れてゆくものだということは、家族は家族を守ろうとする衝動の上に成り立ってる集団ではない、ということを意味する。そういうことは、おまえがいちばん骨身にしみて知っているはずじゃないか。情けない。何度も離婚して、いったい何を学んできたのか。なーんも学んでいないじゃないか。ほんとにおまえら、頭悪いんだなあ。
家族は、家族を壊そうとする衝動の上に成り立っている。そうやって幻滅しあったりけんかしあったりする空間なのだ。壊そうとする衝動を維持するために家族は維持されているのだ。
気取っていえば、家族とは、そうやって幻滅しあったりけんかしあいながら、それぞれが「身体の孤立性」を守ってゆくための空間である。
だから、何かのはずみでDVが起きてくるし、離婚することになったりもする。
われわれは、家族をいとなみながら「身体の孤立性」を守っているのであって、家族を守っているのではない。われわれは、家族を壊そうとしながら家族の中にいる。
女は、みずからの身体に対する違和感にけりをつけてしまおうとして子を産む。ちんちんが勃起するとかおまんこが濡れるというのは、他者の身体に対する違和感である。そういう「違和感」によって家族がいとなまれているのだ。 
家族は、家族を守ろうとする衝動によっていとなまれているのではない。そんなうそくさい「善意」の上に家族が成り立っているのではない。家族を守ろうとする衝動ばかり募らせて女に対する幻滅の希薄な男が、女に逃げられる。「幻滅」を共有できないなら、女だって居場所がなくなってしまう。そういう場合も多いのですよ。
高橋さん、あんたがその口だとはいわないけどさ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。

社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。

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