閑話休題・生物多様性

別にとくべつ関心があることでもないのだけれど、「生物多様性」という言葉を耳に挟み、ちょっとこのことについて書いてみようと思った。
このことばは、どちらかというと、あまり好きではない。最近のエコロジーブームとともに、「生物の多様性を守る」ということが、何か「正義」のようにして世界のあちこちで語られているのが、僕はどうもうさんくさく感じてしまうのだ。
このことばの学問的な解釈は、よくわからない。そしてこの言葉の意味するところになんの罪もないのだが、このことばを扱う人間たちのうさんくささがどうしても感じられてしまう。
たとえば、この地球上で毎年4万種の生物が滅んでいっている。その最大の罪は人間がこの地球の環境を大きく変えてしまったからだ、という議論がある。
4万種って、いったいどんな4万種なのだ。
生物学者が自分たちの学問のテリトリー争いをして、目くそ鼻くその違いを言い立ててどんどん品種を増やしていっている。その結果の「4万種」だろう。
スズメとメジロなんかたいして違いはないさ、おんなじ小鳥だろう、といったらいけないのか。てんとう虫もてんとう虫もどきもおんなじじゃないか。鯨なんか、みんな鯨さ。そして鯨とイルカの違いなんか、あるといえばあるし、ないともいえる。
人間の歴史だって、ネアンデルタールホモ・サピエンスも同じ人間のはずなのに、一時は、両者が交雑しても子供は生まれない、などと、ネアンデルタールがまるで人間ではないかのようにいう学者がつい最近までいっぱいいた。今でも、両者はべつべつの種である、というのが常識に近い。
そしてもっと昔にさかのぼれば、人間は20種類くらいに枝分かれしながら最後にホモ・サピエンスだけが残り、ほかの種は全部滅びた、といわれることも多い。
アメリカ人と日本人程度の違いを、別々の種のように分類して、学問のテリトリー争いしてやがる。というか、分類するのが学問だと思っていやがる。そしてそれぞれに「ホモ・エルガスター」とか「ホモ・エレクトス」とか「ホモ・ハビリス」とかもったいをつけた名称をつけて悦にいってやがる。
人間の歴史に、滅びた種などいるものか、全部、同じ人間さ。全部が適当に混ざり合いながら、形質がちょっとずついろいろに変わってきただけさ。
こんな自己満足の分類競争をしてきたあげくに、毎年4万種が絶滅していっている、と騒いでいるのだ。
分類しようと思えば無数に分類できるし、遺伝子の持ち主としての生物ということなら、動物も植物も同じだろう。
そうして、「生物の多様性」って一体なんなのだ、ということになる。
イリオモテヤマネコが滅びても、猫そのものが滅びるわけでもない。
そのへんのノラ猫よりイリオモテヤマネコのほうが貴重かどうかは、わからない。学者たちの学問のテリトリーを守るためにはそりゃあ貴重だろうが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「共存共貧」ということばがあるのだとか。「生物多様性」ということなら、ひとつの場所にたくさんの種がそれぞれやっとこさの状態で生きているいるのが自然としての「共存共貧」で、一種類の生物を人間が特権的に保護するというのはそれに反することになる。
たとえば、尾瀬沼ミズバショウの保護とか、鯨の保護とか、そんなことはたんなる人間のエゴイズムであり、自然の成り行きにまかせるのがいちばん「生物多様性」の実現になる場合が多いのだとか。尾瀬沼ミズバショウの生息域が半分になれば、そこに別のさまざまな植物が生えてくるだけのことだろう。
つまり、そんなことをいうのなら、田んぼや畑を全部つぶしてほったらかしにしてしまえ、そしたら今よりもっと豊かな「生物多様性」が実現する、という話。
そりゃあ、そうだ。
生きものの身体は、すべて自然に対してやっとこさ適合している状態で生きている。身体が過剰に適合してらくちんで生きている生きものなんかいない。人間だって、ちょっと風邪をひいただけで死んでしまうこともある。それは、「適合していない」といっても同じである。みんな、適合しない身体で、やっとこさ生きているのだ。だから、ちょっとでも環境が変われば、あっけなく死んでしまうこともあるし、とうぜん滅びる種も生まれてくる。
そういうことはもう、しょうがないのだ。白熊が滅びることも、しょうがないのだ。白熊だって、環境に適合しない身体で、やっとこさ生きてきたのだ。生物はみんな、そうやってやっとこさ生きている。それが「共存共貧」という自然の摂理であり、まずそのことを知らねばならない。生き物の身体は環境(自然)に適合しない状態で存在している。
たぶん、「生物多様性」も「進化論」も、そこから考え始めなければ何も明らかにならないのだろう。
適合していないというか、適合が不足しているというか、すべての生きものの身体は、自然に対してそういう状態で生きてあるのだ。
生物の種類がなぜこんなにも多様かといえば、それぞれちょっとでも環境が変わればもう生きてゆけないくらい過小な適合=「貧」で生きてあるからだろう。
まあ、これだけではかなり大雑把な議論なのだが。