団塊世代と戦後に滅びてしまったもの・2

けっきょく、戦後に滅びてしまったいちばんのものは、「歴史」としての「言葉」だったのかもしれない。
つまり、心の表現としてのやまとことばが滅んだ。
そのとき、日本人の心が変わったのではない。日本人は、心を振り捨てたのだ。
「俺」とか「僕」と言っていた若者も、社会人になれば、あたりまえのように「私」と言うようになる。それは、心が変わることではない。心を振り捨てることだ。
とりあえず現代社会では、それが「大人になる」ということらしい。
戦後の日本人は、心などというあいまいなものではなく、意志という観念で生きることを決心した。言葉を、心の表現ではなく、意志という観念を示す道具として扱うようになった。
人類学者は、知能の発達が人類の暮らしに言葉をもたらしたという。こういうくだらない言説が横行するのも、戦後のそうした風潮を反映しているのかもしれない。
言葉は、心を持て余して、それをどう表現し処理しようかとして生まれてきたのだ。
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「めくら」とか「きちがい」という言葉は使ってはいけないらしい。
そうやって社会は、やまとことばを滅ぼし続けてきた。
めくらと言っても、なにも視覚障害者だけのことではないですからね。めくらめっぽうだとかめくら買いとか、そういう言い方もしちゃいけないのだろうか。
誰だって、あした目が見えなくなるかもしれない、という想像はする。見えているということは、見なくなるかもしれない、ということでもある。めくら、という言い方は、誰のなかにもある目が見えない「気分」の表現であろうと思えます。目をつぶって闇を見つめているときの心の動きが、めくら、という言葉になった。
それにたいして視覚障害者といえば、目が見えない「状態」を説明している。つまり、目が見えないことが自分とは無縁のことのように思えるから、視覚障害者などと空々しい言い方ができる。
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マネキン人形や絵のモデルのように、あるポーズをとってじっとしているとき、体のどの部分がいちばん動きやすくてどの部分が動かないでいられるか、わかりますか。
いちばん動きやすいのは、顔、とくに目です。そしていちばんじっとしていられるのは、手です。
つまり、顔は、心の動きが勝手に現れてしまう部分です。人が泣いたり笑ったりするのは「意志」ではない、「心」が勝手にそんなふうに動いてしまうだけです。心は、意志の通りにはならない。だから、顔の動きだけは、どうしてもうまくコントロールできない。
ところが手は、動かすも止めるも、いちばん意志の通りになるところです。
視覚障害者、という言い方は、「意志」による表現です。それにたいしてめくらという言葉は、思う通りにならない心の表現です。
戦後、心の動きを表現する言葉が、どんどん滅んでいった。
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戦後の日本は、思う通りにならない心を否定して、意志によって国土を復興させてきた。心なんか捨てなければ、街頭の娼婦や闇屋になれるはずがない。戦後のなにもない時代に生まれたわれわれ団塊世代は、親たちのそういう心を捨てた奮闘によって、ひとまず乳幼児期を脱したのです。
団塊世代は、自分の心を持て余すという個人的な体験をあまりしてこなかった。つねに意志や趣味といった観念的な領域で、自分をコントロールしながら生きてきた。そうやって生きることが正義の世の中だったし、そうやって生きることが天才的にうまかった。というか、そういうふうにしか生きられないように育てられた、ともいえる。
群れで遊ぶことは、団塊世代に生まれたことの宿命だった。群れで遊ぶことに必要なのは、意志であり、手続きであり、共通の趣味や話題とか、そういう観念的な領域の問題であって、心なんかさらけ出し合っていたらまとまりがつかなくなってしまう。団塊世代は、群れで遊ぶことの達人であった。
家の中でひとり遊びをするのが好きな子供でさえ、時代の情報を集めたりして、群れの遊びのシュミレーションをしていた。
人の心は、一対一の出会いにおいて、大きく動く。団塊世代は、人が多すぎて、そういう関係が生まれにくかった。群れになるか、ひとりになるか、どちらかだった。
したがって彼らは、心の表現であるやまとことばをためらうことなく捨てられる人たちだった。彼らは、横文字の外来語や概念的な熟語を使いこなすことに熱心だった。
「実存」とか「共同幻想」とか「毛沢東語録」とか「サーキット」とか「ブライダル」とか「ヌーベル・バーグ」とか、今ではあたりまえの言葉も、60年代においては、新しくかっこいい言葉だった。
自然に心から出てくる言葉よりも、知識で集めた言葉を駆使するのが、あのころの会話の流儀だった。
現代社会にしても、恥ずかしがる心など捨てて、「僕」や「俺」ではなく、「私」と言える意志を持った者が勝ちなのだ。
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精神科医のおもな仕事は、意志や薬によって心の動きを圧殺することにあるらしい。
患者が怖いと訴えるのなら、怖がらないようにするのが治療だ。
しかし、怖いものは怖い。怖がることが、はたして病気かどうかはわからない。
怖いことだけじゃなく、悲しいとかつらいとかさびしいとかの心を表現する言葉を、現代人は失っている。だから、そういう心の動きが出口を失ってしまう。
たとえば、ビデオや遊園地のジェットコースターのように、現代人は、まず先に怖いものや悲しいものを差し出されて、それによって怖がったり悲しんだりする。言葉が先にある。言葉によって怖がるという体験をする。怖さや悲しみは、意志によって得るものになっている。
だから、自分の内側からふいに湧き上がってきた怖さを体験すると、うろたえる。その怖さを表現(処理)する言葉がない。戦後の日本人は、意のままにならない心を言葉に表現してゆくことのカタルシスを体験していない。そういう言葉はもう、滅びてしまった。
心まで、意志の支配下に置いてしまう制度性。
やまとことばは、日本列島に住む人間の心の動きと言葉が連動するカタルシスを長い歴史とともにつくってきたのであり、その歴史が終戦後に滅びていった。
意のままにならない心の動きがカタルシスに昇華してゆくという体験を持つことができないために起きる精神的な病い、というのはあるように思えます。この社会の言葉に、そういうはたらきがなくなってしまった。
怖さを消すことことばかりやっていても、すぐ再発して、根源的な治療になっていない。そういう例は、いくらでもあるのではないでしょうか。
やまとことばは、心を表現するものだと思えます。べつに、言葉がみやびなのではない、そういう言葉が生まれてくるような妙なる心の動きがあるのだ。
したがって、言葉の美しさをいくら説いたって、伝統がよみがえるものではないし、言葉だけつくろってかっこつけてる伝統なんかなんの意味もない。
戦後の日本人は、そういう心の動きを振り捨てて生きてきたのだから、やまとことばが滅びるのは当然のことだった。
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戦後、心の表現であるやまとことばは、つぎつぎに滅びていった。
古い町名がなくなっていったのも、復興の「意志」こそ正義だったからでしょう。戦後の日本人にとっては、心の動きなんかどうでもよかったし、そんなものはわずらわしいだけだった。
横文字の外来語が急に増えたのも、戦後の風潮のひとつです。日本語ですむし、そのほうがずっとしっくりくるのに、わざわざ外来語で表現しようとする。そういうことを、役人や学者たちがいちばん熱心にやってきた。
「ロード」という言葉が定着するということは、「みち」という言葉が滅びることでもある。町からタウンへ、家からホームへ、いろんな言葉が輸入され、たくさんのやまとことばが滅んでいった。それは、「心」を捨てて「意志」という観念の領域で生きようとする、戦後復興のスローガンだった。
そうやって僕のまわりの友達はどんどん新しい横文字や概念熟語を使いこなしていったし、僕はうまくできなくてつい口ごもってしまうばかりだった。彼女のものの食い方はなかなかみやびやかだ、と僕が言ったら、エレガントといえよ、と友達に笑われたことがあった。そういう世代内の格差は、もしかしたら、団塊世代がいちばん大きいのかもしれない。
ただ、少数派などないも同じの大きなかたまりの世代ではあるが。
しかし今になってみれば、開き直ってもっとやまとことばを勉強しておくべきだった、とも思う。少しずつ少しずつ、やまとことばはよみがえりつつある。「癒し」とか「萌え」という言葉は、まさしくやまとことばであり、心の動きの表現に違いないのだから。