団塊世代と戦後に滅んでしまったもの・1

団塊世代のひとりとして、戦後に滅んでしまったものはなんだったのか、ということの証言ができたら、とこのごろ思います。
でもそれは、僕の分(ぶん)に過ぎたことであるのかもしれない。
であればもう、あれこれ書き散らかしてみるだけです。そうすれば、そのうちまぐれで、何かひとつくらいは提出していたりするかもしれない。
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戦争には負けたけど、日本は滅びなかった。滅びたのは、あくまでたくさんの人の命であり、日本そのものはのうのうと生き延びた。
本当の意味で「日本」が滅んでいったのは、戦後になってからではないかと思えます。
僕が生まれた戦争直後から成人してゆくまでの日々は、はたしていい時代だったのだろうか。
同世代の人々は、口をそろえて「いい時代だった」という。
しかし僕には、そんなことがいえるほどしっかり時代とコンタクトできたという体験など、なにもない。
あのころビートルズがはやっていたのだが、懐かしがれるほど手ごたえのある記憶がまるで浮かんでこない。ほんとにそんな時代があったのだろうか、と思うことさえある。
子供時代のことなら、なおそうです。もしかしたら僕は、記憶喪失かもしれない。
僕の記憶の手ごたえをあいまいにさせている何かがある。
たぶん、滅びていったものを見た体験が、僕の記憶をあいまいにさせている。
新しくやってきたものとの出会いは、滅びていったものを見送った体験と相殺されて、僕の心はいつもうつろであいまいだったような気がする。
18歳のときに東京に出てきて、次の年に同棲した女の子の裸は、もう覚えていない。それは、僕の中の何かが滅んで、彼女の大切な何かを滅ぼしてしまった体験だった。つまりいつの間にか僕は、体験というものをそういうふうにとらえる習い性になっていた、ということらしい。
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僕が最初に見た戦後の風景は、なんだったのだろう。
記憶にあるのは、小学校の二年ころから、空襲に遭った大きなお屋敷跡の空き地で、よく野球をやっていたこと。
僕が住んでいたのは、伊勢の古い町並みが残っている一角だったのだが、そこだけが廃墟になっていた。子供心にも、いちばんお金持ちの家であるなぜここだけが狙われたのだろうと、いつも考えていた。
トイレのタイルの床とか、台所の流しの跡とか、そんなものがところどころに残っていて、一類と二塁のあいだにあったトイレの白いタイルの桝目は、今でもおぼえている。
僕はかなりの野球少年だったはずだが、野球をしたことの記憶はほとんどなく、そのときの景色だけが断片的に残っている。
紙芝居とか、そんなものもよく見たはずだが、そういう「三丁目の夕日」的な景色は、ほとんどおぼえていない。
あのころは人情があった、などという人がいるが、子供に人情などわかるはずがないじゃないですか。というか、そんなことにまったく気づかない子供だったのかもしれない。僕には、誰かを愛したとか、愛されたとかというような記憶はない。
ひとりで入った町の映画館で、美空ひばりが角兵衛獅子になっていた姿は、なんとなくおぼえている。
僕だって団塊世代だから、同級生とはよく遊んだのだろうが、不思議に記憶がない。
いや、じつは、ひとりで遊んだり、年代のちがう子と気があったりすることのほうが多かった。
ひとりで遊んだときの風景は、わりとおぼえている。畑の柿の木とか、山の向こうの夕日とか、小川の水底のイモリとか、そんなような眺めですね。
小学校のときはおばあさんと二人暮しで、よくお寺のエンマ堂で開かれていた頼母子講の集まりにつれられて行った。なぜだか知らないが、眺めていて飽きなかった。集まった人たちの紙縒(こよ)りをよる手つきとか、世間話をする場のゆったりとした空気感とか、僕の知っている滅びてしまったもののひとつです。マンションの住民の集まりとは、ちょっと違う。
あとで知ったのだが、おばあさんには愛人がいて、夜中にふと目覚めて隣の蒲団におばさんがいないことに気づくことがあった。そんなとき僕は、家の中の空気が気味悪くなってきて、夜中の町内を歩き回ったことが何度かあった。古い家だったから、柱の陰に潜む妖怪か何かを感じていたのかもしれない。外のほうが怖くなかった。
だから僕は、小学校の二年か三年で、すでに暁の闇としらじら明ける曙を知っていた。
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新しい時代は、仲間どうしの遊びや会話の中で体験された。野球をするとか、友だちの家に行って漫画の本を見せてもらうとかレコードを聞かせてもらうとか、都会のことを語り合うとか、そんなようなことですね。
そして、ひとりで外をほっつき歩くことは、滅んでゆくものと出会うことだったような気がする。
つまり、前者は「社会=共同体」と出会う体験で、後者は、その外に出て漂泊することだったのかもしれない。
ほんとに、けっこう友達とも遊んだのですけどね。どうも、うまく思い出せない。
ひとりでいるときの心細さとか、そんな気分で眺めた風景とか、そんなことばかりが印象に残って、僕の記憶のなかに積み重なっている
つまるところ、新しいものと出会う体験は、古いものが滅びる体験でもある。とくに僕の場合は、小学校6年のときに伊勢から九州の博多という都会に引っ越し、一緒に暮らす相手もおばあさんから親兄弟になり、言葉も食うものもまわりの風景も、すべてがいっぺんに変わりましたからね。そのとき、何かが滅んでしまったことを体験するほかなかった。
伊勢は、伝統的な習俗が色濃く残っている町だったし、比較的、戦後復興の時代の動きから取り残された無風地帯のようなところだったのかもしれない。それが、いきなり博多に行って、時代はこんなふうに動いていたのか、と知らされた。
そのとき、僕の中の伊勢が、すでに滅んでしまったものだということを知らされた。
子供だから、べつにつらくもなんともなかったですけどね。しかし、そのときすでに僕の中でもう、うまく新しい時代(社会)に順応していけない何かができてしまっていたのかもしれない。
正直言って、博多という町や、あのころの勢いよく戦後復興が加速していった時代に対するルサンチマンはあります。
いずれにせよ、われわれ団塊世代は、戦後の新しい時代を生きながら、そのつど何かが滅びてゆくのを見届けてもいたのです。
戦後社会は、「歴史を清算する」というスローガンのもと、平気で古いものを捨て、飽くことなく新しいものをつかまえにいった。それが、社会の正義だったし、そういうものに他愛なく抱きすくめられて育ったのが、団塊世代だった。まあ、あとの世代だって、たいして違いないですけどね。それが、戦後社会だった。