閑話休題・団塊世代の光と影

団塊世代ほど、良民=常民意識の強い人種もいない。彼らは、自分たちが明るく正しい日本人だと思っている。
自分は正しい、まっとうな人間である・・・・・・その意識は、社会(共同体)と結託したところで生まれてくる。そんな自覚を保証してくれるところは、社会(共同体)にしかないのです。つまり、意識が社会(共同体)に寄生しているから、そう思えるのです。しかも当人は、寄生しているなんて、まったく思っていない。自分が社会を動かしていると思っている。それぞれのポジションなりに、自分が社会を代表している、と思っている。
これが、団塊世代の光の部分です。
この意識は、団塊世代がレールを敷いて、そこから団塊ジュニアまでの大人世代は、みんなそういう傾向を持っています。社会をいじくりまわしたがる傾向、ですね。
戦後日本は、歴史を清算し、新しい歴史をつくっていった。したがって、現在の社会が、歴史のすべてであり、自分たちが人間であることの根拠のすべてであったわけです。社会と関わらなければ、歴史も人間であることの根拠も実感できなかった。そして関わったぶんだけ、それらを実感できた。
社会(共同体)は、人々が「自分は正しい」と自覚することの上に成り立っている。そして、たえず正しくないものを排除してゆくことによって、より強い秩序が形成されてゆく。
犯罪者や身体障害者は、正しくないものであり、排除されなければならない、というわけです。
敗戦国日本の戦後において、新しく生まれた子供たちこそ、人々の希望を担う存在だった。子供たちこそ社会(共同体)におけるもっとも正しい存在である、というスローガンで育てられていった。
そんなわけで、団塊世代に「自分は正しい」という意識が定着しないはずがなかった。
ようするに、大人に甘やかされおだてられて育ったのです。
だから、「自分は正しい」という立場をぜったい離そうとしない団塊世代はじつに多い。しかしこれは、暴力です。その自覚じたいが、異質な他者にたいして、おまえは間違っている、と言っているのと同じで、それは、共同体の排除の論理に飼い馴らされた精神にほかならない。
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団塊世代は、「新しい歴史を生きる」という戦後復興のスローガンとともに育ってきた。しかしそれはまた、歴史(伝統)が滅びてゆくのを見続けてきた、ということでもあります。
記憶の喪失と同じです。歴史を清算した社会は、彼らのようなえげつない人間も育てるが、僕のようにアイデンティティの希薄なだめ人間も生む。
彼らが「自分は正しい」というポジションをけっして手離そうとしない人種だとすれば、僕は、おまえは間違っている、という強迫観念から逃れられない。なぜなら「いや、俺は正しい」と言い張れるだけのアイデンティティ=良民(常民)意識を持っていないからです。僕が、おまえらなんかただの薄汚い俗物じゃないか、とののしらずにいられないのは、自分が正しいと思える根拠を持っていないからです。まあ、「おまえのかあちゃん、でべそ」と言っているようなものです。
彼らは「自分は正しい」と主張しながら、異質な他者にたいして「おまえは間違っている」と宣告する。彼らは、共同体の良民(常民)として、「自分は正しい」と主張する権利がある。つねに異質な他者を否定し続ける権利がある。
しかしそうやって嘆きとは無縁に存在することによって、カタルシスを汲み上げるダイナミズムが失われてゆく。
祭りや生贄の儀式は、共同体がそういう停滞から逃れる装置としておこなわれてきたのです。
異質な他者(異人)は、良民(常民)の否定=差別の対象であると同時に、聖なる存在でもある。乞食の姿をしたキリストは、神の使いでもあった。共同体の歴史を語り伝えたギリシャホメロスや中世の琵琶法師は、めくらの餞民であった。
世の中には二種類の人間がいる、というのではありません。誰のなかにもそういう二種類の人間が棲んでいる、ということだと思います。誰だってどちらの人間にもなりうるし、僕のように悲惨なほうに傾いてしまった人間もいれば、上手に使い分けて生きている人もいる。
けっきょく人間精神の運動は、嘆きからカタルシスへと動いてゆくことにある。おいおい泣いたら、すっきりした。飯食って満足した。体が汚れて気持悪かったけど、風呂に入ってさっぱりした。まあ、そんなようなことです。
しかし嘆かなかったら、誰も泣きゃしないし、飯も食わないし、風呂に入る気もしない。汚れた大人になったことの嘆きがないのなら、そこからどんな精神の運動もないし、カタルシスもない。そして嘆きがないのは、「自分は正しい」と思っているからです。最初から
浄化されていると思うから、浄化作用もない。
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えらそげに現代の若者を嘆いたり批判している大人にたいして、僕が、そんなふうに他人を嘆くことばかりしていないで自分が薄汚い大人であることを嘆けよ、と言ったら、自分が汚れた大人であるとしても無理して若者になろうとは思わない、だからそんな自分を嘆くつもりもない、という答えが返ってきました。
論旨のすり替えというか、これじゃあまるで、僕が、悪あがきの若作りばかりして生きている勘違いオヤジみたいじゃないですか。
それは、まあいい。しかし、嘆きのない「汚れた大人の自覚」とは、いったいどんなものなのか。中原中也は「汚れちまった悲しみに」と歌っているが、そういう嘆きがあって、はじめて大人としての「たしなみ」や「ダンディズム」も生まれてくるのでしょう。
嘆きをともなわない汚れた自覚なんて言語矛盾ですよ。それは、汚れたと思っていないことと同義なのだ。
心は、嘆きからカタルシス(浄化作用)を汲み上げてゆく。そういう運動が、精神というものでしょう。嘆きがないなんて、ただのインポの思想だ。欲情するとか感動するということは、ある意味で嘆くという観念行為でしょう。だから、鳥肌が立つ。まあ、この話をすると長くなってしまうのだけれど。
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嘆きを消去してゆくのは、近代合理主義の制度性です。そうやって史上もっとも快適な空間をつくりだした。
スーパーに同じ形をした胡瓜ばかりが並んでるいるのも、嘆きを否定するその思想です。
僕みたいに切羽詰って「薄汚い俗物根性だ」とわめきだすのは傲慢で、舌触りのいい言葉ばかり使っていればやさしく清らかな心の証明になる。うまい胡瓜よりもかたちのよい胡瓜だ。かたちがいいことがうまいことだ、という思想。
たとえば、団塊世代をはじめとする中高年の善男善女たちがつくるブログのページは、こうした舌触りのいい言葉ばかりを紡いで、そうだそうだと肯きあっている。そこには、かたちのいい胡瓜が並んでいるだけで、発信者にもコメントを寄せる者たちにも、彼らの全人格をかけた言葉などなにもない。つまり、心なんか、なんにもこもっていない。舌触りのいい言葉を吐けば、自分が清らかな心の持ち主であることの証明だと思っている。かたちのいい胡瓜が美味い胡瓜だと思っている。舌触りのいい言葉を吐いて相手をうなずかせれば、自分の正しいことが証明されたと思っている。
あほだなあ、おめえら、と思うし、彼らのあほさ加減、俗物さ加減ならいくらでもえぐり出してやれるけど、あほ同士の共同体をつくってしまえば、僕なんかただの、人里離れた山の狐か猿みたいなものですからね。かないません。彼らは光で、僕は影です。
しかし、全人格をかけて、俺はこれ以上のことはよう考えない、ということを示せなくて、何が良心か、おめえらのやっていることなんか、舌触りのいい言葉で人をたらしこんでいるだけじゃないか。
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僕は、自分のブログを持つかぎりには、キリストやモーゼやホメロスくらい全身全霊をかけて語らなければならない、という覚悟はひとまずしている。
キリストやモーゼは、乞食のような恰好をしながら神の使いになっていった。ホメロスだって、めくらの餞民だった。ブログの管理人だって、穢れを携えた「外部」の「異人」として立たなければならない。読者の心がが「ケ」から「ハレ」へと浄化してゆくための触媒になることができなければならない。いいこちゃんぶってみんなと同じ良民=常民意識に執着している場合じゃない、と思っている。
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団塊世代は、歴史に対する記憶喪失世代です。
記憶を喪失していることの光と影、恍惚と不安、そのようなものがある。
彼らには、「自分は正しい」と信じるあつかましい良民=常民意識があると同時に、それを手離したら生きてゆけないという不安も、じつは持っている。
不安があるから、よけいあつかましくなる。一種の強迫観念ですね。「自分は正しい」という思い込みをぜったい手離そうとしない。そして、そこに彼らの怖さと限界がある。
退職金の持ち逃げ世代といわれようと、「自分は正しい」、自分はまっとうな良民=常民である、という思い込みがあるから、ぜんぜん平気なのです。
しかし、「自分は正しい」という自覚は、共同体の中にあって、共同体が保証してくれるものでしかないから、共同体の外に立った視点を持つことができない。だから、社会を分析することばかりしたがる。それが第一義で、それによって人間がわかるつもりでいる。
彼らは、自分を問う、ということをしない。そりゃ、そうですよね。「自分は正しい」に決まっているのだから、その必要もない。また、問えば、その自覚が揺らぐ。自分を問うこと(たとえば哲学)よりも、社会を問うこと(たとえば思想)のほうがえらいと思っている。そこに、彼らの限界がある。
自分を問おうとしないから、「自分は正しい」と思っていることができる。
平凡パンチだのビートルズだの、自分たちの青春は輝いていたと思いたがったり言いたがるのも、けっきょくそういう精神構造に由来している。
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団塊世代は、歴史(伝統)を捨て、社会との関係を生きようとする。