「穢れ」の構造・2

祭りの場には、どこからともなくたくさんの「異人」たちが集まってくる。
江戸時代はじめのある祭りには、乞食・非人・鉢たたき・唱聞(しょうもん)師・猿使い・盲人・いざり・腰引き・おし・えた・皮剥ぎ・勧進の聖等々、さまざまな異人たちが数知れず集まったという。
そして上層階級の者たちは、この群れを「2000匹」とさげすんで数えたのだとか。彼らにとってこの者たちは、自分たちとは無縁のあくまで穢らわしい存在でしかなかった。
しかし、下層の庶民にとっては、この異人たちこそ神の使いであり、祭りを盛り上げてくれる「まれびと」であった。
上層階級の者たちと下層の庶民とのこの温度差は、「異人論」を語るさいには、もっと問題にされるべきだと思います。前者は、みずからを、すでに浄化された存在であると思い込んでいた。そして後者は、穢れた身であることの自覚とともに、浄化されたいと願っていた。
すでに浄化された身であるなら、「浄化される」というカタルシスなどない。庶民は、穢れた身であるという自覚を余儀なくされていたからこそ、そのような精神の運動のダイナミズムを得ることができたのだ。
そしてそのダイナミズムをもっとも深く体験している者こそ、ほかならぬそうした異人たちであった。
下層の者ほど、カタルシスを深くたしかに体験している。共同体において階層(カースト)が定着してゆく過程には、こうしたことも、けっして小さくはない契機のひとつになっているのだと思えます。ただ一方的に排除されただけではない。
たとえばニートや引きこもりは、ただ社会に排除されたからということでもないでしょう。彼らは、下層のカーストであるその立場を、みずから選び取った部分もあるはずです。
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インドのカースト制度について、ある異人論では、こう説明しています。
「上位カーストの者が浄のがわから秩序を支えるのにたいし、下位もしくはカーストから排斥された者は不浄を引き受けることによって、秩序を不浄のがわから補完する役割を負わされている。」
べつに「秩序を支え」てなどいないでしょう。ひたすら排除しているだけです。秩序はつくられているのではなく、秩序になっているだけです。
上位のカーストの者たちは、ひたすら不浄を排除して浄化されてある存在であろうとしているだけで、全体の秩序のことなど知ったこっちゃない。極端にいえば、彼らは、自分たちの社会に下位のカーストの者たちが存在することなど知らない。知らないくらい、完璧に排除してしまっている。階層をつくっているのではなく、階層になっているだけなのです。
たとえば王宮に道化師をはべらせることは、彼らに不浄を吸収させるためであり、自分たちはひたすら浄化された存在であろうとしている。みずからの浄化された存在であるという自覚のために、道化師をはべらせている。
上層階級の意識には、「穢れ」の自覚がないがゆえに、そこから「聖」に浄化してゆくカタルシスもまたない。
共同体の秩序は、あくまで穢れ(不浄)を排除することにある。上から順に、それぞれの穢れの要素を排除してゆく。
穢れがないのが、「秩序」なのだ。
しかし、穢れを自覚するほかない下層の者たちは、浄化されたいと願う。そして、おいおい泣いて、浄化される。セックスの恍惚によって、浄化される。見上げた空の青さに、浄化される。そういう精神の運動を体験しながら、しだいにカーストを受け入れてゆく。
インドにおいてカースト制度が1000年以上も定着しているのは、下層階級ほど精神の運動のダイナミズム(カタルシス)を体験してしまうからでしょう。だから、その虐げられているという苦悩が、社会の構造を変革(解体)しようとするエネルギーになってこない。そして上層階級のアイデンティティが、ひたすら不浄を排除するだけで、不浄から浄へと昇華してゆく精神の運動を持っていないから、下層階級にたいする後ろめたさも関心もまったくない。
カースト制度は、上層階級と下層階級が浄と不浄を補完しあっているのではなく、たがいの無関心の上に成り立っているのだと思えます。下層階級は、上層階級から「浄」を分け与えられているのではない。おいおい泣いて、もっと深いカタルシスをみずから獲得しているのだ。
下層階級でしか収穫できない果実がある。だから、共同体は階層化してゆくのだ。
上層階級にしかいい思いがないのなら、階層は、もっと簡単に壊れてしまうだろうし、インドのようなあからさまなかたちにもなるはずがない。
上層階級であればあるほど、生のカタルシスが希薄になってゆく。それは、穢れているという自覚から隔離されているからだ。
早い話が、セックスの快楽は、下層階級の者たちのほうが、嘆きが深いぶん、ずっと豊かに体験しているのではないでしょうか。
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欲情するとは、混沌の中に身を置くことのひとつの嘆きだ、と僕は思っている。
フロイトによれば、女の性器を見るときの男は、自分がそこから生まれてきたという懐かしさと、わけがわからない(不気味な)色と形をしているという不快感の二種類の感情がはたらいているのだとか。そして、これを受けて異人論の研究者は、ここにこそ「聖」と「穢れ」の根源がある、という。
嘘ばっかり、という感じですよね。べつに自分の母親とセックスしているわけじゃあるまいし、誰がいちいちそんなことを考えたりするものか。それに「わけがわからない」というその混沌(カオス)に投げ込まれる嘆きこそ、欲情の正体にほかならない。僕は、どきどきしても、懐かしさやら不快感なんか感じたこともない。
現在の異人論は、聖と穢れの両義性といったり、穢れそれじたいが聖なのだといってみたり、なんだかとてもあいまいです。研究者たちは、聖と穢れにたいする確かなイメージを持っていない。そういう言葉をもてあそんでいるだけだ。
そこから自分が生まれてきたという認識は、「存在の深みをのぞく」体験なのだとか。ばかばかしい、ただの俗っぽい知識を確認しているだけのことです。
「存在の深みをのぞく」とは、存在することの不可能性をのぞくことだ。たとえば女のオルガスムスや男の射精の瞬間の、体が消えてゆくような感覚とか、そういう「混沌」の中で体験されるのであり、それこそが「穢れ」から「聖」へと昇華してゆくことの根源なのだ、たぶん。
人間は、どんな悲惨な情況でも受け入れてしまう。カースト制度は、そういうことをわれわれに教えてくれる。そしてそれは、そんな情況においても確かな存在の自覚を持つことができるからではなく、そんな情況だからこそ、身体の消失という極上の快楽を救済として体験するからだ。蛇ににらまれた蛙のもっとも有効な避難方法は、体を消してしまうことです。まあ、あなたたちのようなご立派な人種にはわかりゃしないし、興味もないであろう次元の話ですけどね。
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現在のこの国において、人々の生活水準が上がり、穢れを排除しようとする動きがどんどん進行している。もう、誰もが上層階級になった勢いです。
誰もが、自分はまっとうな人間だと思い、スーパーマーケットには同じかたちの胡瓜ばかりが並ぶ。だめな人間もかたちの悪い胡瓜も、排除されるばかりです。煙草をポイ捨てする若者など、犬畜生のように見られる。これは、最初に書いた、祭りに集まった異人たちを「2000匹」と数えた江戸時代の上層階級と同じ視線です。自分たちはすでに浄化された存在だと思っているから、「穢される」ことをひどく嫌う。
すでに浄化されてあるつもりでいるから、浄化されたいなんて、ちっとも思っていない。穢れてあることを嘆くなんて、人間のすることじゃないと思っている。
しかし、EDとか鬱病とか老人ボケとか、そういった社会的な病理は、つまるところ、穢れを排除しつつすでに浄化された存在であると自覚し、不浄から浄へと昇華してゆくカタルシスを喪失してしまっていることにあるのだと思えます。
予定調和の清潔な社会が、そんなにすばらしいのか。そのようなダイナミックな欲情が欠落した社会をつくっていることが、穢れ=混沌とともに生きている若者や子供たちの希望を奪い、どれほど追いつめていることか。
自分はまっとうで清らかな人間だから誰も追いつめていないなんて、まったくのうてんきで虫のいい話です。そういう思い込みをけっして手離そうとしないその傲慢さが、子供や若者を追いつめているのだ。
みんなで、スーパーに並んだ同じかたちをしたきゅうりみたいな顔をして、そうだそうだとうなずきあう。それが、現代の浄化された社会の正義であり、いびつなかたちをしたきゅうりたちはもう、ニートや引きこもりとしてひたすら個人的な世界に閉じこもってゆくしかない。
昔は、みずからを穢れた存在として嘆く者たちが、常民として共同体のマジョリティを構成していた。しかし現在の市民は、すでに浄化されているという自覚とともに、ひたすら穢れを排除しようとしながら、大手を振ってメインストリートを闊歩している。