乞食(ほかいびと)の原像

乞食は、もともと「祝(ほかい)びと」と呼ばれ、めでたい歌を歌いながら家々を門付けし、その礼に食べものをもらって歩く人々だったのだとか。その習俗は、奈良時代からすでに始まっており、民間芸能の原点だともいえる。
奈良時代は、班田収受の法という土地制度が崩壊して、多くの流民(漂泊者)を生み出した時代でした。そういう中の「ほかいうた」に習熟した人々がはじめたのだろう、といわれています。
村を飛び出した者の多くは、山に逃げ込む。そして、縄文以来の自由な暮らしを続ける山人たちの群れに紛れ込んでいった。だから、山の神を信仰する歌が多かったらしい。
では、いったん山に逃げ込んだ者たちが、なぜ里に下りてきたか。たまには里のものも食いたくなった、ということもあるだろうし、何より、土地にしばられて生きる里の者たちの山の暮らしへの憧れを知っていたからでしょう。
里の者たちは、山の「ほかいうた」を聞きたがっていた。
一部の研究者は、そういうかたちで再び共同体の秩序に吸収されていったのだ、というのだが、彼らはあくまで秩序の外の漂泊者であり続けたし、そういう者たちの歌だったからこそ、里の者もありがたがったのだ。
また、ほかいびとに食い物を与える行為は「外部の力を共同体の内側へ導入するための現実的かつ象徴的な回路だったのである」と研究者は説明するのだが、共同体の内側の秩序をより強力なものにしてしまったら、ますます息苦しくなるばかりじゃないですか。何を好きこのんでそんなことをしなければならないのか。「共同体の内側に導入する」ためなら、自分たちが食い物をもらって食わなければならない。
人間は、何かのため、などという目的意識だけで行動しているのではないのだ。いつの間にかそんな習俗が生まれ、そこに目的が付け加えられていっただけでしょう。その習俗が生まれる契機は「目的」ではない、生まれるほかない「感慨」あっただけのことだ。
だいいち、ほかいびとの歌や配るお札にどんな力があるというのか。病気の治癒や家内安全の効験があると信じられていたというが、そんなことは、後から付け加えられた物語に過ぎない。まず、ほかいびとの歌を聴く里の村の人々の心に、ある深い感慨があった。それが、いつのまにか食べ物を与える行為となって習慣化していったのであり、「外部の力を導入する」とか「効験がある」とか、そんなご利益が先にあったりするものか。それは、習慣化してからのことです。
ほかいびとは、里の村の秩序を強化するための歌よりも、あくまで山の神への信仰を宣伝して歩いたのです。
里の村の者たちは、ほかいびとの山の神の歌によって、心が共同体の外へといざなわれた。自分が与えた食べ物を、彼らが山に帰って食べる。そういうことを想像すれば、自分もいっとき山の空気を吸って心が洗われた気持になれる。そこにこそ、食べ物を与えることの意味と感慨があるのだ。
そうやって、日常生活の「俗」から非日常の「聖」へといざなわれていった。
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里の村の人々は、山から下りてきたほかいびとを、最初どう見ていたか。とくに穢れた存在だとも、聖なる存在だともと見ていなかったはずです。おそらく同じ人間だと見ていた。それ以上でも以下でもない。昨日まで同じように村で畑を耕していた人たちも混じっていたのだもの。
しかし彼らは今、里の村とは違う場所の空気を吸って、違う人生を生きている。そういう「他者性」にたいする感慨があっただけだ。目の前の彼らは、自分たちの村とはまったく別の異空間を背負って立っている。浮き世のしがらみに煩わされて生きている者にとっては、その異空間に聖なるものを感じるのだ。
おそらくそれは、時代が下ってたんなる「ものもらい」の乞食があらわれてきても、やっぱり感じたでしょう。乞食の人生は、村人のそれとはあまりに異質です。その人に対してではなく、その人が背負っている「世界」、そこに聖性を感じるのかもしれない。
異質であることの聖性。
研究者の「穢れと聖性の両義性」といいたい気持ちもわからなくもないが、初期のほかいびとに、それほど濃い穢れは帯びていなかった。
穢れもまた、ひとつの差異にほかならない。
異質であることの他界性、それが聖性の本質なのではないでしょうか。
ほかいびとにどんな力があるのでもないし、俗世間である村の暮らしがどうなろうと他界性を帯びることもない。聖性=他界性は、村の外にある。夜の闇の向こうにある。ほかいびとに食い物を与えながら村人は、その行為にいっときの俗世間からの解放を託したのだ。
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ほかいびとが、家々を門付けする芸人だったということにも、深い意味があると思えます。
村の暮らしは、家と家の付き合いの上に成り立っているが、家の中は、共同体から独立した空間でもあり、村の外=他界に通じている門口でもある。家の中こそ、村人が浮き世のしがらみから解放される空間なのです。
ほかいびとは、道端や空き地に立って、人々を家の外に呼び出したのではなかった。家の外は、村という俗世間です。彼らは、村という共同体をたずねていったのではない。あくまで、家の中のひとりひとりにむかってほかい歌を提供していったのです。
そして聴くがわも、家の中をもっとも象徴する食い物を差し出し、その食い物に外部への、すなわち浮き世のしがらみからの解放を託した。
ほかいびとは、共同体の秩序を補完する役目を担って家々を門付けしていたのではない。人々の心を、いっとき共同体の外部へといざなう存在として歓待されていたのだ。まあ、それによって共同体内部の風通しがよくなって、共同体の暮らしが落ち着くわけであるが。
人々の心がどっぷり共同体のアイデンティティに浸されてしまったら、息苦しくて生きてゆけない。だから、浸りきって金儲けに励んでいる富裕な商人の家では、「狐つき」が多く出るのだ。
「よその家の米びつはのぞくな」という格言があるように、古来から家の中は、共同体にたいする異空間としてのアイデンティティを持っていたのであり、そのアイデンティティにおいてほかいびとが歓待されたのだ。
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乞食(ほかいびと)を卑しい存在とするのが共同体の視線であり約束だとすれば、家の中の個人は、その姿の向こうに神聖な空間を見ていた。
たとえば、乞食と道ですれ違っても、ただの汚らしいだけの人間であるが、家の玄関の前に立った姿を中からのぞけば、なんだか神が現れたような畏れを覚える。
穢れと神聖という異人の両義性は、共同体の約束というより、誰もが、共同体の一員としての視線と、そこから離れた個人としての視線を持っている、ということでしょう。共同体のアイデンティティにとっての異人は、あくまで卑しいだけの排除するべき存在なのだ。
共同体から離れた個人が、そこに神性を見るのだ。
人生のすべてを共同体と結託して生きているような人からすれば、乞食なんてしんそこ穢らわしいだけの存在であって、両義性の感覚などきわめて希薄です。すくなくとも仕事の最中に乞食と出会ったら、ためらうことなくごみ扱いしてしまうでしょう。
世の中(共同体)というのは、タバコのポイ捨てにだって耐えられなくなってしまうところなのだもの、乞食という異人に神性を感じたりする部分があるはずないじゃないですか。
つまり、正義ずらしてタバコのポイ捨てに顔をしかめずにいられないのは、乞食(ほかいびと)に神性を見る感性をすでに喪失している、ということです。
そういう強迫神経症潔癖症の正義ずらが、スーパーマーケットの店頭に同じかたちのきゅうりばかりを並ばせ、EDやら鬱病やら老人ボケやらが後を絶たない世の中にしているのだ。
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昔の村落共同体が家どうしの付き合いで成り立っていたということは、そのうしろで「個人」が守られていた、ということを意味する。家が共同体と関係していたのであって、個人ではない。そういう個人としての、浮き世のしがらみ(共同体)を嘆く心が、ほかいびとに神性を見ていた。
しかし現代社会においては、家どうしの付き合いなどほとんどなくなってきている。現代人の共同体との関係は、家どうしの付き合いで村落共同体をやりくりしてゆくことではなく、個人として会社という共同体のシステムに参加してゆくことの上に成り立っている。
たしかに現代社会は、昔よりずっと安穏な暮らしを保証してくれるが、生身の個人として共同体と関係してゆくというしんどさも引き受けねばならなくなった。
だから、昔の人より現代人の意識のほうが、ずっと共同体のコンセプトに染まりやすい。そうして、スーパーに同じかたちのきゅうりばかりが並んだり、タバコのポい捨てに耐えられなくなったりしてゆく。
生身の個人として共同体と関係してゆくことは、社会になじんだつもりの大人でもそれなりに平気ではいられないことも多く、ときに仕事帰りに冷たいビールのいっぱいも引っかけたくなるというものだが、これから共同体との関係で生きてゆこうとしている若者は、もっとつらい。昔の若者は成長した体をあずけていけばいいだけだったが、現代では、家の外に出て生身の個人としての心も共同体に売り渡さなければならない。それは、けっして簡単なことじゃない。だから、ストリートに集まったり、秋葉系オタクになったり、ニートや引きこもりというかたちを選択したりする。
若者は、家でも共同体でもない、自分たちだけの世界をつくろうとする。昔だって、若衆宿、というシステムがあった。昔も今も、そのとき彼らは、門口に立っているほかいびとに神性を感じる視線を持ち、それを手離すことを拒否している。あるいは、自分もまた、ほかいびとになろうとしている。
奈良時代だって、村を捨ててほかいびとになるのは、ほとんどが若者だったのです。
また、祭りの行事における、そういうほかいびとのような神の使いを演じる役目は、いつの時代も若者が担ってきたのであり、それは、若者には、共同体の外に立つ者の気配が備わっているからです。
共同体が、ほかいびとという異人に神性を見ていたのではない。共同体がそれを見てしまったらもう、排除する契機も必然性もなくなってしまう。排除する主体である共同体がそこに神性を見るというのは、論理矛盾です。共同体ではなく、共同体の外に立った若者や、家の中からそっと門口をのぞく者が、それを見ていたのです。