「穢れ」の構造

共同体における「穢(けが)れ」の意識について考えてみたいと思います。
古来より共同体は、病人や死者や身体障害者を、穢れた存在として排除(排泄)してゆく構造を持っている。
だから共同体は、聖なる空間かといえば、そうじゃない。病人も死者も身体障害者も、共同体から生まれてくる。共同体とは、「穢れ」を生み出す空間です。
病人も死者も身体障害者も、排除してもしても、次々に生まれてくる。そして自分もまた、いずれ病人になり、老人という身体障害者になり、かならず死者という穢れた存在にならなければならない。
病人や死者や身体障害者がほんとうに穢れた存在かといえば、べつにそうじゃない。穢れた存在だと思う意識が、穢れた存在にしてしまっているだけのことです。そしてそれは、つねに自分にはね返ってくる。共同体の中にいると、そういう強迫観念がどんどん強くなって、いたたまれなくなってくる。
共同体の中にいるということは、自分が排除される穢れた存在にならねばならないという怖れと戦うことです。だから、いつだって排除するがわに立とうとする。排除することによって、ひとまずの安心を得る。だから、差別やいじめの問題は、なかなかなくならない。
共同体の、そうした穢れを排除するという秩序が整備されればされるほど、人々の穢れに対する強迫観念も強くなってゆく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
共同体そのものの穢れを強く意識させられるのは、天変地異が起こったり、疫病が流行したりしたときです。そして、そんな災厄に見舞われねばならないのは、存在そのものがすでに穢れているからだ、ともいえる。
祭りとは、みずからの穢れを清める儀式なのか、それとも、ふりかかった穢れを追い払う儀式なのか。まいとし定期的に開かれる村祭りは、おそらく前者でしょう。そして支配者や商人は、後者の儀式に熱心です。支配者や商人は、自分も共同体も、穢れていないと思っている。
しかし、共同体が秩序を持って存在していること、それじたいが穢れていることの証しなのだ。死者や病人や身体障害者を排除(排泄)し続けるという秩序それじたいが、共同体が穢れていることの証しである。病人や死者や身体障害者を生み出さない存在になってはじめて穢れていないといえるが、そんなことはありえない。
共同体が病人や死者や身体障害者を排除(排泄)し続けるかぎり、人々はみずからが穢れた存在であるという強迫観念から逃れることはできない。
・・・・・・・・・・・・・・
ある異人論によれば、「いわば、無定形の混沌(カオス)によって共同体の秩序が侵されるとき、穢れは発生する」と説明されています。まあ、これが、一般的な通念でしょう。
彼らは、「共同体の秩序」が穢れていないものだと思っている。そうじゃない、それじたいが穢れをはらんだ身体のかたちにほかならないのだ。穢れは、内部においてすでに存在する。外部から穢されるのではない。少なくとも、庶民はそう思っている。支配者や商人や、そういう説明したがる学者だけが、外部から穢されると思っている。
彼らはまた「共同体は穢れを忌避する」ともいうのだが、「忌避する」のではなく、穢れた身体として穢れを「排泄」しているだけなのだ。
穢れを排泄して浄化された身体になっているという自覚それじたいが、穢れているという自覚でもあるのだ。だから、たえず排泄し続けようとする。
・・・・・・・・・・・・・・・
穢れている、という自覚から無縁であることができるのは、いずれ自分が排除される存在になるという怖れがなく、永久に排除しつづける立場でいられると信じ込んでいる者だけです。排除することがあたりまえのように体にしみついてしまっている人間、ということでしょうか。つまり、支配者や富裕な商人という階層の者たちです。そういう者たちだけが「共同体の秩序」が浄化されたかたちだと思っている。
これは、身体論の問題です。彼らは、共同体の秩序に憑依して、共同体そのものがみずからの身体であるかのような身体感覚を持っている。ドウルーズ=ガタリいうところの「器官なき身体」ということでしょうか。そうやってみずからの身体に対する実感を喪失しているから、「排泄」という意識がない。すでに内部において穢れているのだという意識がない。だから、外部から穢されるのだ、と思ってしまう。
しかし、一般の常民や排除されるがわの者たちは、あたりまえの身体感覚を持っているから、すでに内部において、さらには自分じしんが穢れている、と思っている。
外部からやってくる「異人」を「まれびと」として迎えるか、穢れをもたらす者として排除しようとするか、この態度の違いは、そうした身体感覚の違いから生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・
共同体には「階層」というものがあるのだから、学者たちのいうように、共同体の意識をひとくくりにして決め付けることはできない。
備後国風土記」には、つぎのような説話が収められています。
・・・
昔、北海にいた武塔(むとう)の神が、南海の神の娘に夜這いに出かけたところ、日が暮れたので、備後に住む二人の兄弟に宿を乞うた。弟の巨旦(きょたん)は富裕であったが、宿を貸さなかった。貧しい兄の蘇民(そみん)はこころよく宿を提供し、粟飯を持って饗応した。年へて、武塔の神はふたたびあらわれ、一夜のうちに弟の一族を疫病によって滅ぼしたが、兄の一族だけは、あらかじめ厄除けの茅の輪を腰につけるように教えられていたので助かった。
・・・
まあ、このような歓待説話は、世界中にある。
共同体における異人に対する見方の「聖」と「穢れ」の両義性・・・・・・一般的には、おおよそそんなふうに説明されているのだが、それではあまりにもあいまいすぎます。
共同体に意識があるのではない、共同体で暮らす人々に意識があるのだ。共同体の中には、異人を「聖」なる存在として受け入れる人と、「穢れ」として排除しようとする人がいる、ということでしょう。
そしてこういう話の場合、たいてい、富裕なほうがいじわるをする。なぜなら共同体の秩序をみずからの身体として、すでに浄化されていると思っているからです。
それにたいして貧しいほうは、その秩序に対する鬱陶しさと、みずからの身体も共同体も穢れた存在であるという自覚がある。だから、異人によって浄化されてゆく体験を持つことができる。
穢れているという自覚がなければ、異人が「聖」なる存在としてあらわれてくることはないのです。
すでに浄化されている、と思えるのなら、異人は、異なる存在として「穢れ」を運んでくる相手でしかない。
先験的な「聖」なる存在などというものはない。穢れている、という自覚の嘆きから、そのイメージがあらわれてくるのだ。
すでに浄化されているという意識は、けっして「浄化される」という体験を持つことができない。それは、穢れているという自覚において、はじめて体験される。
共同体は「穢される」のではなく、すでに「穢れている」のです。だからこそ、まいとし決まった時期に浄化への儀式としての祭りを繰り返してゆくのであって、すでに浄化されている存在であるのなら、穢されたときにしか祭りをするべき契機はない。すでに「穢れている」という自覚を持ったからこそ、祭りが生まれてきたのだ。
・・・・・・・・・・・・
共同体における外部からやってきた異人に対する意識は、中心では「穢れ」として排除しようとする衝動が強く、周縁に行くにしたがって「聖」なる存在として受け入れようとする傾向が生まれてくる。上の説話は、そういう構造を示しているのだと思えます。そして一般的な住民は、この二つの意識のあいだで揺れている。
いずれにせよそれは、共同体の秩序にとって「聖」か「穢れ」かという問題ではない。共同体の秩序にとっては、「穢れ」に決まっている。しかし人々は、その秩序を鬱陶しいと思っている。秩序そのものを、「穢れ」だと思っている。だから、そうしたまれびとを「聖」なる存在として歓待するのだ。
穢れている、という自覚がなければ、聖なるもののイメージがわいてくるはずがない。泣いて泣いて泣き果てれば、新しく生まれ変わったような心地になれる。そういう体験から、「聖」なるもののイメージがわいてくる。共同体の中で穢れていると自覚している人々は、だから、泣いて泣いて泣き果てた体験を持っているであろう乞食の姿をした異人を「聖」なる存在として歓待するのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
自分を許すことのできない者は、誰かに許されたいとせつに願っている。
世の知識人や文化人が、若者にむかって、よく「あなたの命は、かけがえのないあなただけのものです」というじゃないですか。冗談じゃない。あなたたちがそんなおためごかしばかりほざいているから、若者が「自分さがし」の迷路にはまり込んでしまうのだ。
この世に「かけがえのない命」などあるものか。誰の命だろうと、しょうもない、あってもなくてもいいようなしろものに決まっている。しかしだからこそ、そんな命でも許してくれる誰かと出会うことを願わずにいられないのだ。異人を「まれびと」として歓待する習俗とは、そういう精神の運動なのだと思えます。
共同体の中では、けっきょくのところ、誰も自分を許してくれない。年老いて病気になって死んでゆくときには、誰もが排除されるほかない。そんなとき、共同体の外の異人だけが、自分を許してくれる存在としてあらわれるのだ。