商人は「外部」の存在か

世の中には、誰もがあたりまえのように思い込んでいることで、よく考えると「そんなの変だ、そうじゃないだろう」と言いたくなることがたくさんあります。
「商人=外部=異人」というパラダイムも、そのひとつです。
80年代には、柄谷行人氏や浅田彰氏がさかんにそう言っていたから、いつの間にかそれが常識のようになってしまった。
柄谷氏からすれば、外国でもみんなそう言っているのだから、これは普遍的なのだ、と思いたいらしいのだが、当時から僕は、何か生理的に受け入れられなかった。
商人とは、共同体のアイデンティティに依拠し、共同体のアイデンティティを強化するものを商品として売買している存在です。
商人とは「境を横切る者(ホメーロス)」である、と言う。
しかしそれは、横切るだけで、境(境界=外縁)に立っていない、ということです。境に立っている少数者の異人を相手にしても、商売にならない。境においては、商品の価値など成り立たない。売買の相手は、いつだって共同体内部の人間です。だから、境など横切るだけで、つねに内部に入り込んでゆく。
共同体間で商品の「価値」が発生する、なんて言い草は、ただの詭弁です。それは、内部に持ち込むことによって、はじめて「価値」を帯びる。あちらの共同体で10円だったものが、こちらに持ち込めば100円になった。持ち込まなければ、価値は発生しないのです。
共同体間には買い手がいないのだから、価値はいったんゼロになるのです。砂漠の真ん中で電気かみそり売ったって、どうにもならないでしょう。
共同体内部こそ、商人の居場所であり、活躍の場なのです。
現在のもっとも先端的な商人は、東京やニューヨークの中心にある高級マンションに住んでいる。彼らにとって、共同体の中心は、我が家のように居心地のいい場所であると同時に、そこでしか商取引が成り立たない場所でもある。
商人は、つねに共同体の内部に入り込んでゆく。
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経済の問題は、ややこしいですからね。あんまり深入りしたくない。
共同体間の「外部」の空間に生まれる「市」というものを、経済ではない問題として考えてみたい。
共同体の内部の人々は、なぜ市に出かけるのか。
昔の市は、儲けるというようなことは二の次の問題だったのだとか。つまりそういう目的でつくられた空間ではなく、遊女や芸人などもやってきて、いわばお祭りの場であったらしい。
そこには、商人などという人種はいなかったのです。それぞれの共同体の人々の、ただの憂さ晴らしの場だった。しかし、だからこそそこはまぎれもなく「外部」だったわけで、商人などいない場所が「外部」なのです。
彼らにとって共同体の内部が日常の空間(ケ)だとすれば、そこは非日常(ハレ)の空間だった。
非日常の空間においては、商人が執着するお金なんか、なんの価値もなくなってしまう。だから、けちな商家の若旦那だって、遊郭に来れば、惜しげもなく小判をばら撒いて遊ぼうとする。彼らは、共同体内部の日常において財貨を蓄積し、外部の非日常において捨てる。
いずれにせよ、共同体内部の人々は、ときどき外部に出てゆくということをしたがる。それは、共同体の内部に閉じ込められることが鬱陶しいからです。そして鬱陶しいぶんだけ、非日常の空間が楽しいものになる。
であれば、共同体は、鬱陶しいものであらねばならない。そうでなければ、非日常の楽しみ(カタルシス)も生まれてこない。共同体は、共同体の外部に出る非日常の楽しみとセットで存在している。
「市」は、もともと共同体の外に出るカタルシスを住民に保証する装置として機能していた。ところが、やがて商人が入り込んできてそれじたい内部的な商業の場に変えてしまい、カタルシスが希薄になってしだいに形骸化していった。
商人とは、すべての場所を「内部」にしてしまう、もっとも内部的な存在なのだ。
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セックスすることは、共同体の外部に出る非日常のお祭りです。親しい者と個人的な話をすることでもいい、人々はたぶん、そういう楽しみを発見しながら、定住し、やがて共同体が生まれてきたのだろうと思えます。
士農工商ではないが、商人が卑しい者として忌み嫌われてきたのは、外部の異人だからではなく、むやみに内部に入り込んでくるからです。人々が非日常の楽しみとして財貨を消費しようとしているのに対し、彼らは、蓄積しようとする。常民よりも、もっと内部的だからです。共同体と結託するばかりで、共同体を、鬱陶しいものだと思っていない。
富裕な商人の家では、共同体の鬱陶しさから非日常のカタルシスを汲み上げてゆくという精神の運動がない。だから、家人が「狐つき」になりやすい。
たとえば、ホリエモンは、商売によって金も美女も得た。金や美女を得ることは、人間の普遍的な快楽か。人間という存在は、そんな単純なものじゃない。腹が減っていない者が高級フレンチを食べることと、餓えて死にそうな者が食べるカップラーメンと、どちらに「おいしい」というカタルシスがあるか。億万長者が100万円儲けることと、無一文の者が1万円を手にすることと、どちらにカタルシスがあるか。「嘆き」という回路を通過しないことには、カタルシスを汲み上げることはできないのです。人は、嘆きのぶんだけカタルシスを体験するのだ。
美女を相手にしたから快楽を知っているとか、そんな単純なものじゃない。ホリエモンが、誰もが欲しがる金や美女を得たからといって、誰よりも豊かで深い快楽を知っているとはかぎらない。彼が「狐つき」みたいな顔をしているとは言いませんがね。
商人は、誰よりも内部的であるということにおいて、エキセントリックな存在なのです。
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商人は、けっして共同体の外部に立つカタルシスを与えてくれない。
たとえば、日本にいてアメリカの商品を手に入れても、それは、アメリカに立っていることでもアメリカ人になることでもない。むしろ、そうなるチャンスを奪われることなのです。あくまで日本人として、いっときアメリカの気分を味わっているだけで、アメリカに行くことではない。日本でアメリカの商品を買うことは、アメリカに行かない行為なのです。商人が、「市」で、10円のものを5円に値切り、それを10円にして共同体の住民に売りにくる。そしたら住民はもう、市に出かけてゆく意味を失ってしまう。まあ、そんなようなことです。そうやって市は、精神の運動のダイナミズムを失い、たんなる商取引の場に変わっていったのだ。
商人は、住民の中の共同体に対する鬱陶しさをやわらげにくる。それはすなわち、そこから汲み上げるカタルシスを奪われる、ということです。商人が、住民の代わりに、あちこちに行って商品を仕入れてくる。それは、支配者と結託して住民を共同体に縛りつける行為にほかならない。
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共同体の住民が、商人から商品を買うことと、旅の僧や乞食に喜捨をすることとは、まったく次元のちがう行為です。商品を買うことは、より内部に閉じ込められることであるが、そうした外部の異人に喜捨をすることは、自分もまた外部にいざなわれる喜びがある。だから「喜捨」というのであって、優越感に浸っていい気分になるからではない。
住民は、他の共同体に入り込んでいって何かを仕入れてくるということはようしない。なぜなら、商人ほど内部的な存在ではないからです。住民の意識は、外部に立とうとする衝動によって成り立っているのであって、内部に入り込もうとする衝動などないのです。内部に立っているからこそ、外部に立とうとする衝動が生まれてくる。外部に立とうとする衝動を持っていることこそ、内部に立っていることの証しなのです。
外部に立とうとする衝動によって、共同体が維持されているのです。けっして、共同体を維持しようとする衝動によってではない。
共同体は、維持されなければならないと同時に、維持されてはならない。このパラドックスの上に共同体が維持され、人々にカタルシスをもたらしてきた。
共同体の鬱陶しさは、セックスの快感を深くし、飲み屋で酒を酌み交わして語り合う喜びを生み出している。そして住民は、心のどこかで、けっきょく商人というのはそういう喜びとは無縁の人種なんだなあ、と思っている。
「商人=外部=異人」というパラダイムは、僕はもう生理的になじめない。