閑話休題・傲慢な思想

これは、僕が敬愛する韓国の映画監督キム・ギドクの発言から啓発されて考えたことです。
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かつて僕が、父親の体から放出された無数の精子のひとつだったとき、僕は、母親の卵子に着床するべき必然性をそなえた最強最良の精子だっただろうか。そんなはずがない。僕よりもっと生命力の強い精子や、もっとこの世に生まれてくるべき資格をそなえた精子は、たくさんあったのだ。
それでも、僕が着床してしまった。
僕みたいなろくでもない息子を抱えてしまった親にすれば、そんなつもりじゃなかったのに、というところです。
僕だって、着床したくてしたわけじゃない。必死で泳いでいるうちに、気がついたら着床してしまっていただけだ。
いたずらに死を怖がってうろたえながら生きている今となれば、その他大勢の精子として一生を終えたかった、という思いもないではありません。
僕がこの世に生まれてきたことは、そうなることを決定付けられていた宿命でもなんでもない。たまたまはずみで生まれてきてしまっただけです。僕が生まれてこなければならない必然性や宿命など何もなかった。
たとえば、生まれてすぐに死んでいった子供がいたとします。彼は、最強最良の精子だったのか。そんなはずないでしょう。元気な赤ん坊になれそうな精子が他にたくさんいたのに、まったく神の気まぐれとしかいいようのないはずみで、彼が卵子に着床してしまったのです。彼が着床するべき必然性も宿命も、何もなかったのだ。
流産してしまうことも、無数にある。人が生まれてくることに、むやみな物語を付与するべきではない。命の尊厳、などというものはない。ただ、人は死にたくない生きものであるということはとても重くて厄介な問題である、というだけのことだ。
それは、「宿命」ではない。たんなる、しかしどうしようもない「運命」だったのだ。
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生首少年がお母さんを殺して生首を切断したことは、彼の宿命だったのか。彼は、そういう宿命を負うほどに頭がおかしかったから、そんなことをしてしまったのか。
そうじゃない。
頭のおかしい17歳なんか、世間にごまんといる。彼よりもっとそんなことをしてしまいそうな17歳だって、うじゃうじゃいる。頭がおかしいからそんなことをしてしまったのなら、同じような事件の1000や2000はとっくに起きている。
あの日もし、彼のアパートにお母さんが来ていなかったら事件は起きなかったし、そうやって殺す機会を失したまま2、3ヶ月たてば、あのとき俺はどうしてあんなことを考えていたのだろう、と思っているかもしれない。
それはもう、彼だけが遭遇した「運命」だったのだ。
人間が直立二足歩行をはじめたのは、直立二足歩行するべき必然性と宿命を負った猿だったからか。そんなことはない。特別な猿でもなんでもなかったが、何かのはずみで立ち上がるべき情況を持ってしまったからだ、と僕は考えている。だから、立ち上がってから数百万年は、知能の発達などなかった。立ち上がるべき特別な猿だったら、そのときからすでに知能の発達は始まっているはずです。
「宿命」という言葉を使いたがるのは、宗教的な考え方です。人間は人間になるべき特別な猿だったのだというところから人類史を語ろうとするのは、キリスト教原理主義を標榜する人たちがいちばん熱心です。
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この世に、はじめから決まっている「宿命」などなにもない。しかし、あり得ないことが起きてしまうのもこの世界の現実であるわけで、そういうときにわれわれは、「宿命」だったのだ、と考えて納得しようとする。
宿命じゃなければ、納得できない。人は、この世界を、予定調和の秩序のもとに置こうとする。そうやって運命でしかないことを宿命にしてしまい、自分の存在を正当化してゆく。正当だから存在しているのだ、と思いたがる。
言い換えれば、正当=秩序(タナトス)だと思いたがるくらい、われわれの存在は不安=混沌(カオス)とともにあるのだ。
この世に正当な存在など、なにもない。われわれの存在は、正当なのではなく、正当だと勝手に決めているだけです。
正当も不当もないじゃないですか。そんなものは、人間が勝手に捏造した「概念」に過ぎない。
すべては、「結果」として存在してしまっているだけです。
なんの意味も必然性もなく存在していることの不安に耐えられなくて、「宿命」という概念を捏造する。
結論を急げば、それは、人間の共同性=制度性の問題だろうと思えます。
意味があろうとなかろうとわれわれは「すでに存在している」だけなのだが、因果なことに共同体は、人々に意味がなければ存在できないような観念を強いる構造になっている。存在していることに意味を求めるから、共同体が必要になる。共同体は、人々をして、生きることの意味と正当性を求める人間にしてしまう構造を持っている。
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誰もが、死ななきゃいけないですからね。そういう意味で、死ぬことは、ひとつの宿命だといえる。だから、生まれてきたことも、必然性を持った宿命だと思いたがる。そうでないと帳尻が合わない。
しかし、自分が死ぬことなど、じつはわからないことです。
そんなことは、実感できることじゃない。なぜなら、意識にとって未来という時間は、存在するかどうかわからないことだからです。死ぬことはわかっていても、誰もそれを、確かな手触りで実感することは出来ない。明日という時間の存在は、明日になってはじめて実感できることです。
「存在」とは、ひとつの「結果」なのだ。われわれは、あくまで「結果」として存在しているのであって、未来とつながって存在しているのではない。
なのに、誰もが、実感することのできない未来を存在すると決めてかかって生きている。決めてかかることによってこの社会が成り立っている。
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人間は本質的に怠惰な生きものである、といった哲学者がいる。誰のなかにも、怠けたい気持は起きる。それは、未来という時間の存在を実感できないからです。
共同体は、この世界は、予定調和の秩序のもとに成り立っている、と迫ってくる。そういうスローガンで、人々を勤勉にし、共同体がいとなまれている。
しかし、明日という時間はくるに決まっている「宿命」ではなく、明日になってはじめて遭遇する「運命」である。そういうことを、じつは誰もがどこかで気づいている。だから、誰もが勤勉になれるとはかぎらない。
仕事帰りに冷たいビールを引っ掛けるよろこびや、恋人とデートするときめき。そのとき人々にとっての共同体は、共同体の鬱陶しさから逃れるカタルシスを与えてくれる装置として機能している。人々に鬱陶しがられることこそ、共同体のアイデンティティなのだ。そこがやっかいなところです。共同体は、人々を勤勉にする装置であると同時に、すべての人を勤勉にする不可能性も負っている。
人々は、明日を信じて働き、明日を忘れて遊んだり恋をしたりする。共同体から離れてひとりになったとき、誰もが、どこかしらで、ほんとうは明日なんか存在するのかどうかわからないということを実感している。そういう気分になれなければ、仕事帰りのビールも美味くないし、恋もときめかない。
したがって、死もまた死ぬときになってはじめてわかる「運命」だとわれわれはどこかで感じているのだが、しかしそうやって認識することを共同体は許してくれない。それは「宿命」である、と迫ってくる。そうして、しだいにそれを信じてゆき、やがて人生のすべてが「宿命」という概念に浸されてゆく。
共同体においては何もかも「宿命」にされてしまう。人がこの世に生まれてくることも、私とあなたが出会ったことも、セレブがセレブであることも、貧しい者が貧しい者であることも、身体障害者身体障害者であることも、少なくとも共同体においてはぜんぶ「宿命」なのだ。
「宿命」という言葉を使いたがる制度性は、共同体が存在するかぎりけっしてなくならない。が、それが真理になる日も永久にやってこない。ひとりになって考えれば、すべては「運命」なのだ。