「かわいい」の流行・補記

「かわいい=小映(こは)ゆい」という言葉の原点は、縄文時代のきらきら光る石の玉(たま)にあるような気がしてきました。玉は、「霊魂(たま)」でもあります。
最初は小さな太陽であった「たま」が、やがて霊魂という意味になっていった。「たま」という言葉に霊魂という概念が付与されたときから、「かわいい=こはゆい」という言葉に何か特別な響きが生まれてきたのではないでしょうか。
ところで勾玉(まがたま)というのは、どうしてあんなかたちをしているのだろう。
あこや貝の貝柱は、まさしくあんなかたちをしているが、まさかそれを真似たわけではないでしょう。
おそらくそれは、人間の「霊魂(たま)」のかたちをあらわしている。
日本人の太陽信仰からすれば、ほんらいの霊魂(たま)は、太陽のまんまるであるはずです。しかし、人間は、太陽ではない。太陽のように完璧な存在ではない。人間は、「神である」のではなく、「神になる」存在なのだ。
神そのものではなく、神になる霊魂(たま)のかたち、それが勾(まが)玉なのではないでしょうか。
「まが」とは、「まがいもの(にせもの)」とか「まがまがしい(不完全な=混沌)」というようなニュアンスでしょう。不完全な「たま」、それが勾(まが)玉なのだ。
人間は、まん丸のバリエーションのかたちを描くのが好きです。
涙やハートマークはまさしくそれで、卵は、この世で最も神に近い霊魂(たま)のかたちである。
たぶん卵のかたちをいじっているうちに、だんだん勾(まが)玉のかたちになっていったのでしょう。
人間の霊魂(たま)は、神のように完全なものではなく、「まがまがしい(不完全な)」かたちをしている。さんざん泣いて心が洗われる、そこで神になる。泣くことをしなければ洗われること(カタルシス)もない。混沌(カオス)から秩序(タナトス)へ、穢れから聖へ、そういう過程を持っているのが人間の霊魂(たま)なのだ。というか、神であろうと人間であろうと、霊魂(たま)とはもともとそういうかたちをしたものだ、という認識が人間にはある。
とすれば、それを表すためには、どうしてもまん丸であってはいけない。ただの秩序(タナトス)だけでは、霊魂(たま)のかたちにはならない。
そして、人間の心の最も混沌とした状態は、「泣く」ことです。
勾玉のあのかたちは、目のふちからこぼれ出た瞬間の涙のかたちなのではないでしょうか。
嘆きを浄化するもの、あるいは、嘆きが浄化されたかたちの表現、それが勾玉(まがたま)だったのではないでしょうか。
すなわち、「嘆き」を持っているものでなければ、浄化された果ての霊魂(たま)に気づくことも、「かわいい」という感動を体験することもでできない。やまんばギャルには、共同体の秩序からずれてしまった者の「嘆き」があったし、彼女らのあの化粧は、霊魂(たま)の表現であり、まぎれもなくそれは「勾玉(まがたま)」の歴史の上に出現したのだと僕は思う。