スサノオ・世界の果てからやってきた旅人

巨大古墳を造営していたころの奈良盆地には、ことにたくさんの「奴婢」がいたらしい。
彼らはしかし、奴隷、というほど窮屈な身分ではなかったはずです。日本列島は、逃げ込むことのできる山があるし、逃げ込んだ先の村にも旅人を「まれびと」として迎える習俗があるから、そこでそれなりの知識か技術か労働力かを提供して住み着いてゆくこともできる。むしろ、みずから奴婢になって、あちこちを漂泊している人たちがいたのではないだろうか。
大宝律令いらいの「公地公民制」がくずれていったのは、重税に耐えかねて村を出奔し、さすらってゆく人が多く出てきたからだ、ともいわれている。彼らは身分的には最下層であったかもしれないが、どこにでも行ける自由もあったのではないだろうか。
山にさえ逃げ込めば、なんとかなる。日本列島で、人を奴隷にすることは、そうかんたんなことではなかったはずです。
平城京にしてもそうだが、古代の日本列島では、「城壁」を造らなかった。だから、入ってくることも出てゆくことも、わりと容易だったはずです。縄文時代の女子供だけの集落でさえ、垣根や掘割というものがなかった。おそらくそういう伝統なのでしょう。山野をさすらう男たちが、女たちの集落に訪ねてゆくという、縄文時代以来の伝統、そういう男と女の関係が、この国の習俗や文化をつくってきた。
まれびとを迎え入れる文化。古代のこの国では、社会の構造として、支配者が住民を蹂躙したり管理したりすることの困難さがあり、そういう意識も、大陸よりはずっと希薄だったのではないでしょうか。
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そのころの奈良盆地の人々にとって、地方からやってきた「奴婢」との関係も、生活の一部だった。彼らは、「世界の果て」からやってきたまれびとだったのです。そうそう邪険に扱うはずがない。奈良盆地の人々は、彼らからたくさんの世界の果てとしての地方のことや海のことを聞き、それを古事記という神話に昇華していった。
さすらい人という他者、それが、奈良盆地の人々にとっての奴婢だった。
そりゃあ、中には乱暴者やひねくれ者もいたでしょう。世の中にはこんな変なやつがいるのか、という驚き。そういう体験も日常的にしていたから、古事記の神だって、さまざまなキャラクターに造形されていった。
おそらくスサノオという変人である死神も、そういう体験の蓄積から生まれてきたのでしょう。わがままで乱暴者でよく泣くというこの神が、神の国から放逐され、物語の最初の漂泊者になる。そしてここからはもう、ほとんどのエピソードが漂泊をモチーフにしたものになってゆく。古事記とは、漂泊の物語である、とさえいえる。
そこには、奈良盆地の人々の、漂泊することにたいするある種のなやましい感慨が反映されている。彼らは、漂泊者としての奴婢を、ときに畏れつつ、愛していた。スサノオは、ある意味で奴婢という身分の化身であり、きわめてエキセントリックで傍若無人な神であったが、ヤマタノオロチを退治して出雲を救ったりもしている。
古事記における漂泊者は、つねに漂泊するほかない運命を背負っている。スサノオのように放逐されたり、山幸のように失敗してしまったり、ヤマトタケルのように王を脅かす能力を持ってしまっていたり、それらはつねに嘆きと艱難辛苦の旅になる。しかし、最後には、カタルシスにたどりつく。スサノオは出雲の王になったし、山幸は海の底の国で釣り針を見つけたし、ヤマトタケルは最愛の女性を得た。
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奈良盆地の人々は、漂泊に憧れつつも、自分たちは漂泊の果てにこの地にたどり着いたのだという自覚があった。そういう自覚で「大和は、国のまほろば」という感慨を持った。彼らにとって奈良盆地は、世界の中心ではなく、世界の果てだった。
奴婢たちが世界の果てからやってきた旅人であるのなら、その旅人にとってのこの奈良盆地もまた、世界の果てにちがいない。古代の奈良盆地においては、誰もが、この世界(=この生)の果てに立っている、という感慨を抱いていた。
世界の中心に立つ者は、中心と外、正と悪、肯定するものと否定するものを分ける。しかし、世界の果てに立ってしまえば、すべてが肯定される。
中心から旅立って果てにたどり着き、果てにおいてさすらってゆく。今ここが「成り果てる」というかたちで完結していること、それが、漂泊することです。今ここのこの生は、成り果てた結果であって、未来に向かう原因ではない。
未来がない、ということではないですよ。生きていれば、未来につれてゆかれるに決まっている。ただ、この生が成り果てた結果であると認識する場においては、「ありえない」と否定するべきことなど何もない、ということであり、そこで「古事記」という物語が信じられ、語り継がれていった。
われわれがそれを発想してしまうのは、天地のはじまりからの歴史のどこかで体験されているからにちがいない、という認識が古代人にはあった。この世界の果てに立ってしまえば、すべては肯定される。
すくなくとも古事記のような荒唐無稽な物語が信じられてゆく社会においては、奴婢だからといって人間じゃないかのように差別する意識など起きようがなかったはずです。彼らは、きわめて親密に語り合っていたのです。どちらも世界の果てに立っているという感慨を抱きながら親密に語り合った結果として、古事記という物語が紡がれていった。
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たとえば、大和川が流れて行く先の河内平野が、巨大古墳の造営とともに干拓されていったことは、増えすぎた奴婢を入植させるための措置だったのかもしれない。そうしてそのムーブメントがわずか百年足らずで終わってしまったことは、その造営にかかわった奴婢たちも常民になってしまって、巨大古墳をつくれるだけの奴婢の数を確保できなくなっていったからかもしれない。
一部の研究者は、そのとき河内平野に朝廷が移されたのだ、というが、そんなことではないと思いますよ。それは、朝廷の歴史ではなく、民衆の歴史だったのだ。古墳がそばにあれば、川が氾濫しても古墳の濠が水を吸収してくれて、集落や耕作地が水びたしになることはない。仁徳陵の造営にさいしては、古墳の濠だけでなく、その周囲にいくつもの水路をつくっていたのだとか。
奴婢たちは、河内平野に、仁徳陵などというとんでもなくばかでかいものをつくってしまった。あのパワーは、いったいなんなのだ。奈良盆地の人々のそういう驚きと畏れが、スサノオというエキセントリックな神の話になっていった、ということも考えられる。
そして、アマテラスに代表される「アマツカミ」一族と、スサノオの「クニツカミ」一族の対立、という物語の展開。負けたクニツカミは、出雲を分譲された。だからスサノオは、出雲神話の中心的な神になっているわけだが、これだって、増えすぎた奴婢たちは河内平野を分譲された、という奈良盆地の住民と奴婢との関係から発想されていったのかもしれない。
べつに奴婢にたいする悪意というのではなく、人々の「凶(まが)ごと」にたいする意識のあらわれとして、そういう物語が出来上がっていった。いい人だろうと悪い人だろうと、いいことだろうとわるいことだろうと、つまるところこの生は成り果てるという「結果」なのだし、われわれは漂泊の果てにこの奈良盆地にたどり着いたのだ、という感慨ですね。