古事記の舞台

古事記は、稗田阿礼が語った奈良盆地の民間伝承であるはずなのに、日本中のじつにさまざまな土地が舞台になっている。ただの民間伝承であるのに、なぜ日本中が舞台になっているのか、考えたら、これは不思議です。民話というのは、ふつう、その地方だけが舞台になっているものです。
そのときそれを語り継いでいった奈良盆地の人々は、遠い地方の峠や小さな川の名前などまで知っていた。古事記は、そういう知識を縦横無尽に駆使して紡いでいった物語なのです。ほんらいそれは、奈良盆地に住み着いて懸命に日々の暮らしを送っている人たちが知りえることではないはずです。
日本列島のことは、大和朝廷の権力者たちより住民のほうがよく知っていたのです。
支配者が国の歴史を編纂しようと思い立ち、それを民間人に教えてもらうなんて、変です。そういうことはほんらい、支配者が民間人に、こうなんだぞ、と押し付けてゆくものであるはずです。
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たとえば、古墳時代中期につぎつぎ巨大古墳がつくられていったということは、そのとき、日本中から奈良盆地に人が集まってきていた、ということを意味する。
それは、大和朝廷が地方に遠征していってかき集めてきたのか、それとも、勝手に奈良盆地にやってきたのか。おそらくその両方だったのでしょう。
仁徳陵をつくるのに、十五年以上かかったともいわれています。そのあいだ、奈良盆地の住民をそのためにだけ働かせるのは、不可能です。食糧生産がストップしてしまいます。
日本列島は、卑弥呼の時代からすでに、支配者と住民の下に「奴婢」という階層が生まれていたそうです。仁徳陵造営に従事していたのはおそらくそういう階層の人たちであり、彼らこそ上記のようないきさつで奈良盆地に集まってきた人たちだったのでしょう。
もちろん一般住民も農閑期にはかり出されただろうし、そこで彼らは、日本中から集まってきた人たちから、地方のさまざまなことを聞いたに違いない。
住民はきっと、目を輝かせて聞いたはずです。そうして集落に戻って、その話をみんなに伝える。彼らが聞いた不思議な話やいろんな珍しいこと、みんなも、それについてさまざまな感想や解釈を語る。そんなことを繰り返しているうちに、しだいにひとつの神話になっていった。
旅人から聞くほら話や体験談の面白さ、それが、古事記の物語になっていったのではないでしょうか。
もしかしたら奈良盆地における古事記の成立は、日本中から人が集まってきて「奴婢」という階層を形成していったことと、巨大古墳造営のムーブメントとが関わっているのかもしれない。
おそらく、「日本」ということを意識し始めたのは、大和朝廷より奈良盆地の住民のほうが先だった。大和朝廷は、地方から奴婢を集めてきて働かせただけだったが、住民は、奴婢と語り合っていた。だから、日本列島の細かなことは、どこにも行ったことがない住民のほうがかえってよく知っていたはずだし、古事記は、知っていなければつくれない話です。
たとえば、神の子である神武天皇が九州の日向の地に降り立ち、そこからどういうルートをたどって奈良盆地までやってきたかということにしても、じっさいの地名を交えてじつにこまごまと語られている。日向から筑紫、そして安芸、次に吉備から難波にいたり、そこから熊野を迂回して南から奈良盆地に入っていったことになっている。
この間十年以上、戦いと艱難辛苦の連続で、そんなふうに語られたら、つい史実もいくぶんかは含んでいるのだろうと解釈したくなる。しかしそのころ、奈良盆地に攻め入る能力を持った地方の共同体などどこにもなかったのであり、奈良盆地のほうから属国の援軍として出かけていったことばかりだったはずです。そういう動きを逆にして、そのような「神武東征」の話がつくられていったのだろうと思えます。
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古代の戦いは、最初は、ほとんど周辺地域とのいざこざによるものであったはずです。で、連戦連勝を収めて噂が広がってゆけば、やがて、大和朝廷朝貢して自分たちの地域での紛争に援軍を頼もうとする動きが出てくる。頼まれればたぶん朝廷は、奴婢の派遣と引き換えに、それを請け負うにちがいない。
いざこざもないのに、土地を奪おうという欲だけで古代人が戦争をするとも思えません。
古代人は、よその土地なんか、欲しがっていなかった。自分たちの土地を充実させるための技術や労働力を必要としていただけです。
だから、地方は積極的に「奴婢」を差し出したし、大和朝廷は、その労働力によって奈良盆地とその周辺を充実させていった。そのようにして、大和朝廷と地方の共同体との格差がさらに大きくなってゆくと同時に、そういう共同体どうしのしがらみもいろいろややこしいかたちで広がっていった。
とにかく巨大古墳造営のころから、奈良盆地に日本中の情報が入ってくるようになり、それが日本中を舞台にした古事記の物語になっていった。おそらくそれ以前の奈良盆地の民間伝承にしても、ほとんど奈良盆地だけの話だったはずです。それがそういうスケールに拡大していったのは、史実とは関係なく、当時の社会の構造からもたらされた奈良盆地特有の「情況」があったからでしょう。
巨大古墳造営のダイナミズム、それが、奈良盆地のたんなる民間伝承を、日本中を舞台にしたスケールに広げていったのだろうと思えます。