古事記論の前書き

1980年前後に出た「漂泊」(中西進・著)という本は、古事記や古代の伝承から、そうした日本的心性の始原を語っています。そして、唐木順三の「無用者の系譜」は、中世の業平や一遍上人からはじめる。
で、僕は、その問題を、縄文人からというか、日本列島の歴史として考えてみたかったわけです。でもそれをやっていたらきりがないわけで、どこかでけじめをつけなければいけないのだが、ここで終わりというのでは中途半端すぎる。そうして「古事記」のことは、あまりつよい関心もないし、どうなるかわからないのだけれど、ここまできたらひとまず避けて通ることはできないのかもしれない。
内容が、というより、古代人はなぜそんな荒唐無稽な話を語り継いでいたのか、という社会の構造の問題です。
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はてな」とは、「果てなき」のことだろうか。
はてなきことは、わからないことであるらしい。あるいは「果てる」というように、消えてなくなることであり、この国には、果てがない=エンドレスという概念がない。「はしたない」、「はしなき」・・・果てや端がないことはネガティブな言葉になる。
引き分けの勝負は、ひとつの「果てがない=エンドレス」のかたちです。だからサッカー監督のトルシエは、「日本には、引き分けの文化がない」といった。大陸では、果てがない=エンドレスは、わからないことではなく、ちゃんとひとつのかたちとして認識されている。
そうして、果てにたどり着くことは、大陸では終わり(エンド)を意味するが、この国では、「果たす」というかたちで、ひとつの達成としてとらえられる。エンドという言葉に、達成という意味はない。
この国での勝負は、果てにたどり着くまでなされる。言い換えれば、とにかく果てにたどり着けばいいのであり、相撲のように、一瞬に果て(結果)が現出する勝負もある。
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この国では、住み着くことも、さすらうことも、果てにたどり着いている、という認識の上に成り立っている。
創業何百年の「老舗」というかたちが成り立つのは、果て=究極(の商品)を商うことによって、すでに果てにたどり着いているという達成感があるからだ。しかし大陸では、果ての向こうに行こうとするから、成功すれば、さっさと転進してゆく。もし大陸で皇室御用達になれば、いつか自分も皇室になろう、という野心が生まれてくる。しかしこの国では、けっしてそんなことは願わない。皇室御用達であることそれじたいを、果て=究極として守り続けようとする。
この国では、この生を「果て」において完結させようとし、大陸では、完結しないで「果て」の向こうがわを目指す。この国では、死の向こうがわはわけのわからない黄泉の国であるが、大陸では、ちゃんと天国や極楽浄土が信じられている。
この国の人間が天国や極楽浄土を信じることは、かなりの無理がある。われわれは、大陸の人たちほど、天国や極楽をスムーズに信じてゆける資質を持っていない。
もう、この生において完結してしまうしかないのだ。完結するとは、「果て」を深く認識すること。この生の外には何もない、しかしこの生の中にすべてがあるのだ・・・・・・そのような認識のかたちをとことん突き詰めていったのが、「古事記」の世界です。何でもありの世界。われわれに思いつくことができるもので、ありえない現象など何もないのだという認識。まさしく、究極の世界の果てのイメージがそこで語られているのだ、と思えます。
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死は、この生の果てである。果ての向こうに天国とか極楽浄土が待っていてくれるのならいいが、この日本列島では、わけのわからない黄泉の国があるだけだ。それは、海に囲まれたこの島に立って海を眺めながら、水平線のむこうには何があるのかわからない、われわれはもうどこにもいけない、ここが世界の果てだ、という感慨から生まれてくる。
海に閉じ込められたこの島では、天国とか極楽浄土のイメージを紡ぐことができない。だから、紡ぐことができないというそのことじたいに救済を探していった。どこにもいけないのなら、もう、今ここのこの生を、「これが世界のすべてだ」と深く認識することしかない。日本列島では、誰もが、そう認識するために住み着き、そう認識するためにさすらっていた。
大陸では、地平線の向こうから人がやってきたし、こちらから歩いてゆくこともできる。しかし日本列島の古代人にとっての海は、もうどこにもいけないという感慨を強いる対象だった。だから大陸では、地平線(=死)のむこうに天国や極楽浄土を描くことができたが、この島国では、水平線(=死)の向こうはなく、死それじたいを世界の果てとして完結させてしまうほかなかった。
大陸では、神は、死んでから出会う対象だが、この国では、死、すなわちこの生が極まったところに存在するものでなければならなかった。
だからこの国では、神は人なのであり、この生が極まったところの物語として「古事記」という神々の話がつくられ語り伝えられていった。
この国では、神は、この生の「究極(はて)」であって、この生の「むこう」ではなかった。
それが、山に囲まれたまわりの景色を眺めながら「ここがこの世界のすべてだ」という感慨を抱いて生きていた人たちの世界観だった。
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海幸山幸の神話。なくした釣り針を探して海の底の国にゆき、その国の姫とのあいだに子供をもうける、という話。そして、浦島太郎の伝説。
こういう場合、海の底の国や竜宮城は、この世界でない「異世界」でしょうか。
研究者は、そういいます。たしかに、その姫はじつは鰐(サメ?)だったというのだから、同じ世界ともいえない。しかし、とにもかくにも行くことができたのだし、子供までつくってしまうのだから、異世界ともいえない。古事記では、その子供は、神武天皇の父親になっています。
そこは、異世界であって異世界ではないところ、つまり「世界の果て」だ、ということです。
そんなことはこの世界では起きるはずがないが、世界の果てではきっと起きる、起きるから世界の果てなのだ・・・・・・これは「無限」という概念の問題です。それを、きっちり腑に落ちて認識すればもう、信じる以外にない。信じられるくらい彼らは、きっちり腑に落ちて「無限」という概念を認識していたのです。「ありえない」なんて、世界を限定してしまっていることですからね。
彼らは「すべてだ」という感慨=認識を持っていた。だから、この世界に「ありえない」ことなどなかった。だが、世界には果てがないと思っているわれわれ現代人は、けっして「すべてだ」という感慨=認識を持つことができない。世界には果てがないと思うことは、世界を限定してしまうことなのです。
すなわち「果てがない」という認識は、永遠に「果てがない」という認識にたどり着くことはできない。「果て」を認識することが、「果てがない=無限」を認識することなのだ。
ややこしいですね。
まあ、そんな机上の「認識論」と戯れていてもせんないことだけれど、自分がこの世界に生きてあることの不思議にしんそこ驚いたことのある人間からすれば、海の底に竜宮城があることの不思議だってそれ以上の不思議だとは思わないでしょう。
奈良盆地を囲む山々を眺めながら抱く、「ここが世界のすべてだ」という感慨、そこから古事記という荒唐無稽な物語が生まれてきた。
たかが生駒山ごときがそれほどのしろものでもないだろう、というのは、現代人さかしらごころです。彼らは、そういう感慨を抱かずにいられないほどに「漂泊」の歴史を体にしみこませていたのだ。