大和朝廷が生まれるまで

原始人の群れが大きくなって、リーダーがいないと上手く機能しなくなってくると、自然にリーダーになりたい者が生まれてくる。そういう「社会の構造」が、リーダーになりたい者を必然的に生み出す。誰かが「俺やりたい」と手を上げて、じゃあおまえやれ、とみんなが承認する。群れが大きくなってくれば、心の支えとしての天皇のほかに、そういう実務的なリーダーも必要になってくる。
「贈与と返礼」、原始社会は、このコンセプトで成り立っている。そのときリーダーが、自分だけとくべつ大きな家に住みたいと思ったら、みんなにいろんなものをプレゼントしなければならない。その見返りとして、みんなが、じゃあ造ってやろうか、ということになる。
弥生時代になって稲作農耕が始まり、貧富の差が生まれてきた、と研究者は言うが、稲作農耕も家を建てることも、ひとりじゃできない。集落のみんなでやることだったはずです。家の大小が多少生まれてきたとしたら、家族構成の違いをあんばいしただけでしょう。いずれにせよ、たいした違いはなかった。そして、リーダーの家が大きかったとすれば、たとえばリーダーは「ツマドイ」ができないかわりにたくさんの妻を持つことができたとか、そういうことがあって、必然的に大家族になっていたのかもしれない。
われわれが子供のころ、家を建てると、地域住民を集めて餅をまくという習慣があった。それはおそらく、「贈与と返礼」のなごりの儀式だったのでしょう。
歴史の原始段階を説明するのに、どうして「貧富の差」などという俗っぽい言葉を使うのだろうか。それは、リーダーであるかないかの違いであり、誰もがリーダーになりたかったわけではなく、そういう資質と意欲を持った者がなっていった。「貧富の差」ではなく、リーダーを必要とする社会になっていった、というだけのことです。
住民どうしに「貧富の差」が現れてくるのは、もっとずっとあとのことで、江戸時代だって、住民どうしに貧富の差などほとんどない村はいくらでもあった。だから、百姓一揆が生まれてきた。古代社会にあったのは「リーダー=権力者」であるか否かということだけであり、そこからやがて「貧富の差」が生まれてくることになる。
古代の大和朝廷のころ、富裕層のほとんどすべてが権力のがわの者たちであり、人類の歴史は、権力による支配が貧富の差を生んだのであって、貧富の差が権力を生んだのではない。
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たくさんプレゼントできるものでなければりーだーになれないのです。だからその歴史過程において、国家をつくれるほどの強大な権力者が生まれてくるまでには、長い長い時間がかかる。百年や2百年じゃ足りない。権力者が搾取や命令ができるようになるまでにはものすごく長い時間がかかるのです。
大和朝廷がそういうことをちゃんとやれるようになったのは、おそらく文字による通達によってその効力を持続できるようになってからのことでしょう。文字は、声と違って消えてしまわないから、人の気持ちを縛る力が生まれる。大陸から騎馬民族がやってきて征服したのなら、その時点ですでに文字による支配が試され始まっているはずです。
文字による支配と合意のかたちが定着するまでの途中段階において、権力者(リーダー)はつねに群れの中から選ばれるのであって、奈良盆地よりずっと進んだ権力システムを知っている者がやってきて、そのシステムを知らない奈良盆地の人を支配することは不可能のはずです。牢屋に閉じ込めるのではないのだから、武力による強制力だけで人を支配することはできない。
大和朝廷の成立は、国家を取り替えたのではない、そこではじめて国家が生まれたのだ。
奈良盆地の人が「権力とは何か」ということを知ったのは、当然権力が生まれてからのことであり、それは、自分たちが共同体をつくったあとのことであるはずです。自分たちがつくった共同体から権力が発生してくるからそれに合意できるのであって、共同体をつくったこともない者たちに権力に合意しろといっても無理な話です。
権力が共同体をつくるのではない、共同体が、権力を生み出すのだ。
だから、まだそうした合意が生まれていない段階で、もし進んだ権力システムを知っている者が外からやって来て大和朝廷をつくったとしたら、住民がそっくり入れ替わったのでなければならない。
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万葉集は、征服者の望郷の歌ではけっしてない。
ずっと昔からそこに住み着いていた人たちの、「これが世界のすべてだ」という感慨の歌なのです。そしてそこに、後世の歌人たちにはまねのできない直截的でひとしおの感慨が表現されているとすれば、もともと住み着くことのできない人たちが住み着いていったからでしょう。彼らは、自分たちで天皇をまつり上げてゆくことによって、やっと住み着くことができた。万葉集における天皇を慕う歌の多くは、信仰の対象としての「山」にたいする感慨の歌でもあった。
この国の歴史が、天皇にたいする信仰から始まった、というのは、正確ではないと思う。まず、縄文時代以来の「山」にたいする信仰があった。それによって人々は平地に住み着き、住み着いた結果として、リーダーとしての天皇が必要になっていった。
天皇が、住み着かせたわけではない。人々が住み着き、天皇をまつり上げていった。住み着かせたのは、奈良盆地を取り囲む「山」です。天皇信仰は、「山」にたいする信仰のバリエーションに過ぎない。
僕は、天皇家のことは、あまり興味がない。しかし世界の果てとしての「山」にたいする信仰は、たしかに胸の奥で息づいている。山を眺めて抱く「ここが世界のすべてだ」という感慨のほうが、日本列島で暮らす者の普遍的な心性であるように思えます。